ここまで関ヶ原の戦いについてみてきました。
これまで、関ヶ原の戦いは豊臣家のお家騒動で、生母淀殿派が西軍、正室ねね派が東軍、という説がありましたが、近年の研究では異論が出ています。
ここでは、これまでの20の出来事について、「なぜ徳川の時代に?」という疑問に対して、「徳川家康」という人物に視点をあてて、次の5点にまとめ直してみます。
(1)情報戦、(2)鉄砲、(3)人格、(4)戦法、(5)三河武士
ここで、家康のそれまでの歩みについて簡単にまとめておきます。
天文11年(1542)0歳 三河岡崎城城主 松平広忠の長男として誕生。
天文16年(1547)5歳 今川氏の人質として駿府へ出発する途中に戸田康光に欺かれ織田信秀のもとへ送られ、信長と出会う。
天文18年(1549)7歳 織田信広との人質交換により今川氏の人質として駿府へ行く。
弘治元年(1554)12歳 今川氏の元で元服。
弘治3年(1556)14歳 義元のめい、鶴姫(築山殿)と結婚。
永禄元年(1558)16歳 今川義元の命で織田方の三河寺部城を落とす。(初陣)名
を元康と改める。
永禄3年(1560)18歳 桶狭間にて義元討ち死に。岡崎城に帰る。
永禄5年(1562)20歳 織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)
永禄6年(1563)21歳 嫡男信康と信長の娘徳姫が婚約。名前を家康と改める。
三河一向一揆が盛んになる。
永禄9年(1566)24歳 朝廷の勅使を得て徳川と改姓する。
永禄11年(1568)26歳 武田信玄とともに掛川城を包囲落城,今川氏滅亡する。
元亀元年(1570)28歳 信長とともに浅井・朝倉連合軍を近江姉川で破る 。
元亀3年(1573)31歳 武田信玄と三方ケ原で戦い大敗する。
天正3年(1575)33歳 徳川・織田連合軍 ,武田軍を長篠の戦いで破る。
天正7年(1579)37歳 嫡男信康・築山殿を信長の命により武田内通の罪により殺害。
天正10年(1582)40歳 信長より駿河を与えられる。本能寺の変と伊賀越え。
天正12年(1584)42歳 小牧・長久手の戦い
天正14年(1586)44歳 秀吉の異父妹朝日姫を娶り,秀吉に臣下の礼をとる。
天正18年(1590)48歳 北条氏滅亡。秀吉より移封を命じられ江戸城に入る。
文禄元年(1592)50歳 秀朝鮮出兵のため秀吉とともに名護屋へ向かう。
慶長3年(1598)56歳 家康・利家ら五大老に直筆の遺言状を与え秀頼の将来を託し、秀吉没す。
慶長4年(1599)57歳 前田利家ら家康に対し,誓書違反を詰問。家康大阪城西の丸へ。
慶長5年(1600)58歳 関ヶ原の戦い
これまで、関ヶ原の戦いは豊臣家のお家騒動で、生母淀殿派が西軍、正室ねね派が東軍、という説がありましたが、近年の研究では異論が出ています。
ここでは、これまでの20の出来事について、「なぜ徳川の時代に?」という疑問に対して、「徳川家康」という人物に視点をあてて、次の5点にまとめ直してみます。
(1)情報戦、(2)鉄砲、(3)人格、(4)戦法、(5)三河武士
ここで、家康のそれまでの歩みについて簡単にまとめておきます。
天文11年(1542)0歳 三河岡崎城城主 松平広忠の長男として誕生。
天文16年(1547)5歳 今川氏の人質として駿府へ出発する途中に戸田康光に欺かれ織田信秀のもとへ送られ、信長と出会う。
天文18年(1549)7歳 織田信広との人質交換により今川氏の人質として駿府へ行く。
弘治元年(1554)12歳 今川氏の元で元服。
弘治3年(1556)14歳 義元のめい、鶴姫(築山殿)と結婚。
永禄元年(1558)16歳 今川義元の命で織田方の三河寺部城を落とす。(初陣)名
を元康と改める。
永禄3年(1560)18歳 桶狭間にて義元討ち死に。岡崎城に帰る。
永禄5年(1562)20歳 織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)
永禄6年(1563)21歳 嫡男信康と信長の娘徳姫が婚約。名前を家康と改める。
三河一向一揆が盛んになる。
永禄9年(1566)24歳 朝廷の勅使を得て徳川と改姓する。
永禄11年(1568)26歳 武田信玄とともに掛川城を包囲落城,今川氏滅亡する。
元亀元年(1570)28歳 信長とともに浅井・朝倉連合軍を近江姉川で破る 。
元亀3年(1573)31歳 武田信玄と三方ケ原で戦い大敗する。
天正3年(1575)33歳 徳川・織田連合軍 ,武田軍を長篠の戦いで破る。
天正7年(1579)37歳 嫡男信康・築山殿を信長の命により武田内通の罪により殺害。
天正10年(1582)40歳 信長より駿河を与えられる。本能寺の変と伊賀越え。
天正12年(1584)42歳 小牧・長久手の戦い
天正14年(1586)44歳 秀吉の異父妹朝日姫を娶り,秀吉に臣下の礼をとる。
天正18年(1590)48歳 北条氏滅亡。秀吉より移封を命じられ江戸城に入る。
文禄元年(1592)50歳 秀朝鮮出兵のため秀吉とともに名護屋へ向かう。
慶長3年(1598)56歳 家康・利家ら五大老に直筆の遺言状を与え秀頼の将来を託し、秀吉没す。
慶長4年(1599)57歳 前田利家ら家康に対し,誓書違反を詰問。家康大阪城西の丸へ。
慶長5年(1600)58歳 関ヶ原の戦い