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関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-14-

2009-07-20 06:48:50 | 社会科関連情報
 主観的に関ヶ原の戦いを考えるシリーズも残り少なくなりました。
もうしばらくお付き合いください。まとめに入ります。

 家康は何度も名前を変えていますが、ここではすべて「家康」で統一します。

 ここから以後は、これまでのまとめです。

 (1)情報戦

 「情報戦」という言葉には、ハードとソフトがあります。
まずは、ハードから。

 戦国の武将は、忍者を活用していました。大河ドラマ「天地人」でも、長澤まさみが真田幸村の姉として、忍びを演じていますね。

 桶狭間の戦いでも、義元と信長も共に忍者を使った情報戦が繰り広げられました。
信長は、義元の首を取った毛利新助以上に、情報を収集した簗田政綱に一番の手柄を与えています。

 その時、家康は大高城にいました。
義元が討たれた事で、信長の情報収集能力の高さを肌で感じ取った事は十分想像できます。

 家康の忍者に対する思いは、本能寺の変後にさらに強くなります。

光秀から逃げるために、家康は伊賀の山中を突破し、伊勢の白子浜まで到達し、そこから海路で一気に岡崎まで逃げ帰りましたが、その道案内で活躍したものが伊賀衆・甲賀衆です。
人生最大のピンチを助けられた家康は、忍者の必要性を痛感し、忍者の育成に力を注ぐことになるのです。

 発想は、経験から生まれるのです。

 ソフトに当たるのが手紙。
家康の内応取り付け作戦は、これまで見てきた通り、多くの寝返りを得て、勝利に結びつける事が出来ました。
 この内応は、関ヶ原に始まった事ではありません。織田信長の甲斐侵攻では、家康自身が動いて、穴山信君に対して勝頼裏切りを成功させています。

 では、なぜ内応が成功するのか?

 家康が、見返り(所領安堵や加増、昇進など)を約束できる立場にあったことです。
これは当然ですね。約束に信憑性がなければ心は動きません。

 もう一つ。私は、家康自身が、織田、今川双方の人質を経験したことが大きな影響を与えているのではないかと思います。
人質の悲哀、城がもてない苦労を知った事もありますが、敵も味方も同じ人間であるということを、感覚的に身につけたのではないでしょうか。

 その後、家康は、今川軍として戦い、かつ、今川を滅ぼしています。

 繰り返しますが、発想は経験から生まれるのです。

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