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復刻 関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-9-

2014-11-29 05:28:11 | 社会科こぼれ話
 復刻関ヶ原シリーズを続けましょう。

 ⑭ 情報戦

 このシリーズのきっかけは、「関が原の戦いでなぜ徳川の時代に?」という疑問からでした。

 その、要因をこれまで探ってきましたが、その中でも大きなものが「情報戦」です。

 近現代の戦争は、情報戦が勝敗を決めると言われていますが、日本で本格的に実戦に取り入れたのは家康なのではないでしょうか。

 「内府ちかひの条々」を書いた増田長盛ですら、家康に三成の挙兵を内通し、これが毛利輝元を動けなくしたともいわれています。

 家康は、後に藤堂高虎を責任者とし、情報収集システムをさらに構築していきました。忍者集団を育成し、その長である服部半蔵について「CIA長官」と言った人もいます。その半蔵を頂点に傭兵忍者軍団が結集していました。

 家康は、当時としては世界最強の情報収集力を育成していたのです。

 これも、関ヶ原での勝利がなしえたことなのです。


 ⑮ 杭瀬川の戦い

 9月1日に江戸城を出た家康は、14日に大垣城近くの赤坂の本陣に入りました。

 この時、ちょっとした小競り合いがありました。その時の主役が島 左近です。

 「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」とまで言われたほどの人物です。

 この時の情勢は、数は勝りますが、モチベーションはどうみても西軍はグラグラ。
 ここで島 左近が動きます。

 左近は、三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇でした。それほど、三成は左近を信頼し、頼っていたのです。

 左近は、三成に知略を進言するも、まじめな三成に拒否されてしまいます。

 その時、死を悟ったと言われています。

 左近は兵の一部を率いて東軍の陣の前に向かい、敵を挑発し、おびき寄せた東軍を包囲して攻撃し壊滅します。これを見ていた西軍は団結するのです。

 プロ野球でも、4番が打つとチームに勢いが出るといいます。

 関が原もこのようなドラマがありました。9・15決戦の前日の出来事です。

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