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小口城周辺史跡-3-

2024-12-18 07:25:05 | 取材・旅行

2024年12月15日(土)、栄中日文化センター主催、「歩いて巡る愛知の古城史跡」「大口町の小口城址と周辺史跡」(江南市・大口町)へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、6回にわたって紹介しています。今日はその3回目。

今回の訪問地です。

第3回は、お待ちかね 小口城址-1- です。

小口城(おぐち-じょう)は現在の愛知県丹羽郡大口町に建てられた東西約50間(約90m)南北約58間(約105m)の曲輪に二重の堀と土塁が廻らされた平城で、大久地城箭筈城(やはず-じょう)とも呼ばれています。

大口町歴史民俗資料館には下のモデルが展示されています。

学校の校舎の形をしているのが、旧大口北小学校。現在の「多世代が集う憩いの広場」になります。

東の川が五条川です。

これを現在のGoogle Mapで見ると次の範囲になります。

濃尾平野は穀倉地帯であり、木曽三川と呼ばれる木曽川、長良川、揖斐川の3本の川やその支流が、水の供給と物流の運搬に供用されていました。

小口城五条川河畔にあり、尾張上四郡の岩倉城、小折城、下四郡の清州城と繋がっていました。また、街道でも名古屋に出ることができました。東には後に織田信長が築く小牧山城とも街道・川ともつながっており、重要な拠点の一つでした。

小口城の歴史の概要を理解しましょう!

ここからは 尾張・小口城の解説~織田信長美濃攻め前哨戦 https://sirotabi.com/22249/を参考にします。

長禄3年(1459年)尾張守護斯波氏の配下として尾張上四郡を支配していた岩倉城(いわくら-じょう)の織田敏広(おだ-としひろ)は弟の織田広近(おだ-ひろちか)に命じて小口城を築かせ、岩倉城の東側の備えとしました。

応仁元年(1467年)応仁の乱が起こると、織田敏広と織田広近の兄弟は管領で尾張守護を兼任する斯波義廉(しば-よしかど)に従い西軍に所属し、東軍として参戦した斯波義敏(しば-よしとし)を擁して尾張下四郡を支配する織田大和守当主織田敏定(おだ-としさだ)と対立して抗争を繰り広げます。

このあたりは、次をご覧ください。出典は https://twicomi.com/manga/nobunagamanga/1633214689269149696

文明元年(1469年)に入ると美濃の斎藤氏との間に緊張が増してきたため、織田広近は小口城から北に5km程進んだ木曽川河畔にある乾山の南麓に木ノ下城(きのした-じょう)を築城して移り住み、乾山の上には見張り砦を築いて対岸の美濃を監視する事になりますが、文明7年(1475年)には息子の織田寛近(おだ-とおちか)に家督を譲り、小口城に隠居所を構えました。

木ノ下城については、このブログ 犬山城周辺をめぐる -2-もご覧ください。

木ノ下城

永禄4年(1561年)、家督を継いだ織田信長は美濃の斎藤龍興(さいとう-たつおき)との抗争が激化する最中、墨俣とその北方にある十九条に砦を築き、西から稲葉山城を攻めようとしました。
それに対して斎藤龍興は、即座に出陣したため、織田・斎藤の両軍は十四条の地で対峙します。
後のない斎藤軍の攻撃は凄まじい物があり、織田信長の従兄弟で姉を正妻としていた犬山城(いぬやま-じょう)主である織田信清(おだ-のぶきよ)の弟で、十九条の砦を任されていた織田信益(おだ-のぶます)を先陣に立てて攻撃させますが、斎藤軍によって討ち取られてしまいます。

織田信長は追われる織田信益の軍を残して軽海まで後退し、軍を立て直して斎藤軍に再び対峙。真木村牛介を敗退させ、池田恒興(いけだ-つねおき)と佐々成正(さっさ-なりまさ)がふたりがかりで稲葉一徹(いなば-いってつ)の叔父にあたる稲葉又右衛門を討ち取るなどしたため斎藤軍は撤退し、織田軍も墨俣砦まで兵を引いたと伝わっています。

ここで事件が起こります。

以前より領地の配分で不満を持っていた犬山城の織田信清は弟を見殺しにされたと思い、織田信長から離反して斎藤家と縁を結んだため、小口城や黒田城などの支城も反旗を翻します。

これに対し、織田信長は織田信清の家老で小口城主を務める中島豊後守の調略を試みますが、失敗に終わったため力攻めを開始します。
信長軍は小姓衆が中心となり小口城の城壁を打ち破って城内に侵入しますが、小姓の中でも「隠れ無き器用の仁」と称された岩室長門守が討ち取られたため、小口城から撤退する事となりました。

小口城攻略に失敗した織田信長でしたが、永禄6年(1563年)に入ると美濃攻略に向けて本拠地を清州城から小牧山城に移し、尾張北方の反信長勢力を圧迫していったため、小口城も膝を屈し廃城となりました。

その20年後、天正12年(1584年)豊臣秀吉織田信雄・徳川家康の間で小牧長久手の戦いが勃発。
豊臣秀吉は楽田城に本陣を置き、徳川家康は小牧山城にて対峙します。
この時、豊臣軍の稲葉良通(いなば-よしみち)が小口城跡に布陣しており、城跡の西に位置する小口神社境内に残る土塁跡は、この時に整備されたと思われます。

それでは、小口城を紹介します。


櫓が建っています。火攻めには弱そうです。

漆喰の壁は、当時はありません。

石垣も現代のものですね。

あくまでも、後世のものです。

この公園ができた後に、私は大口町生涯学習課に勤務しました。

この向かいにある小口神社です。

山柿の木です。

これが、先ほどの説明にあった「小口神社境内に残る土塁跡」です。

堀には菖蒲が植えられていましたが・・・

資料館です。紅葉がきれいです。

説明です。

礎石跡。

野鍛冶炉跡

井戸跡。

のぞいてみると・・・・

もう少し見えるといいですね。

櫓の中です。

櫓から見た資料館。

これは、櫓台跡?

説明です。

動画です。

No.198_城跡巡り 小口城址(愛知県大口町)


明日は、資料館の展示物を紹介します。

小口城周辺史跡-1--2--3--4--5--6-


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