あなたも社楽人!

社楽の会の運営者によるブログです。社会科に関する情報などを発信します。

小牧FW -4-

2023-12-28 07:20:06 | 取材・旅行

小牧FW -4-

2023年12月9日(土)、中日文化センター主催、「歩いて巡る愛知の古城と史跡」(2023年10~12月)「小牧山城と周辺史跡めぐり」へ行ってきました。

その様子を、数回にわたって紹介します。今回はその4回目。

小牧長久手の戦いにおける砦群です。

小牧山を紹介します。

小牧山は、私が子どものころから、何度も遊びに来たところです。

現在の模擬天守をつくるときには、「そんな立派なものはなかった」と批判されていたことを思い出します。当時は、ただの砦程度でだと思われていました。

しかし、その後発掘調査が進み、安土城にさきがけ石垣があり、後の天守につながる櫓があったこと、排水路が備わった城下町があったことがわかってきました。

では、小牧山を見ていきましょう。

織田信長による築城当時の小牧山城推定想像図 画像出典 http://komakiyama.com/history/

1560(永禄3)年、桶狭間で今川義元を破った織田信長の次のターゲットは、美濃の斎藤氏です。道三の「国譲り状」を受け、義龍は倒すべき相手です。

1563(永禄6)年、信長は小牧山に城を築き、清須から移り住みました。兵農分離の始まりとも言われています。いやがる家臣を説得させるために、まず二之宮(犬山)に連れて行き、「川でつながっている小牧ならどうじゃ」と言って喜ばせたと『信長公記』には書かれています。

そして1567(永禄10)年、信長は斎藤龍興をたおし、美濃を手に入れ、稲葉山城(後の岐阜城)に住まいを移しました。小牧城や城下町も廃れ、忘れ去られていったのです。

以下は、http://komakiyama.com/history/ からの引用です。


[ 織田信長時代の小牧山城 ]これまで小牧山城は、信長が城を築いてわずか4年間しか住まなかったことから、美濃攻めのための一時的な砦(とりで)として考えられていました。しかし近年の小牧市教育委員会による主郭地区の発掘調査によって、小牧山で多くの石垣が確認されたことにより、本格的な城であったことが分かりました。 さらに、小牧山の南側には南北1.3km、東西1kmにわたる城下町を築いた跡も確認されています。また、小牧山の東側では井戸が見つかっており、武家屋敷があったと考えられています。


ところが、小牧長久手の戦いで脚光を浴びます。

徳川家康による改修当時の小牧山城推定想像図 画像出典 http://komakiyama.com/history/

1582(天正10)年に本能寺の変で織田信長が亡くなると、石田三成を倒した羽柴秀吉が大きな勢力を持つようになりました。

信長の次男である織田信雄は、秀吉に対抗するために徳川家康と同盟を結びます。1584(天正12)年、家康は一万五千の兵を率いて信雄軍と合流し、小牧山を本陣として秀吉に対抗しました。しかし、小牧付近では大きな戦いは行われず、11月に秀吉と信雄は家康に無断で和議を結び、家康も秀吉の正義的駆け引きを経て、臣従しました。

それ以降、小牧山城は使われなくなりました。

この二つの絵はよくできています。

これ以降は、次の図で説明します。

右端の「虎口」をご覧ください。

そこにあった案内図です。

文字起こししてみましょう。


天正12年(1584) の小牧・長久手の合戦の際、小牧山城の東の出入口であった部分です。城の出入口を、虎口と呼びます。 小牧山城については絵や文献に詳細な記録がなく、城の各部分の名称も伝わっていません。そのため、整備事業にあたり、 小牧山城の曲輪や虎口などの遺構は、統一的に記号や番号で表示することにしました。ここは虎口fと命名しました。
虎口fは、右からの土塁Vが内側へ直角に屈曲し、さらに左に直角に屈曲して、 左からの直線的な土塁Uと組み合わさって虎口を形成しています。 虎口は大変狭く、幅2m程になっていて、 一時に多数の兵が進入できないようになっています。 また、進入するとき左に直角に折れて、城の中に入って行くことになります。 攻城側の兵は、このとき防御の弱い側面を守備側にさらしながら前進し、横の土塁上から弓や鉄砲などで攻撃を受けることになるのです。 また、土塁が屈曲していることで外から城の内部が見えない構造になっています。
虎口fの著しい特徴は、 虎口の内部に幅12m、深さ3.5mの深い堀VIが入り込んでいることです。 このままでは、人馬の出入りができませんので、何らかの施設があったものと推定されますが、 発掘調査ではその痕跡は発見できませんでした。
この木橋は、見学用の通路で、本来の虎口にあったものではありません。 また、復元した堀は排水の関係上本来の堀より2mほど浅くなっています。


今の残っている土塁です。

土塁がわかります。

「史跡小牧山模型」です。

図の①土塁へ向かいます。

NHK大河「どうする家康」でも出てきた、榊原康政らが積み上げた土塁です。

この土塁を使って、秀吉軍の中入り作戦に対抗して、隠れて兵を進めました。

説明文を文字起こししてみましょう。


史跡小牧山 (小牧山城)
  愛知県小牧市堀の内一丁目1番地 他
    1927(昭和2)年10月27日国指定 指定面積 205,956.23m²

小牧山は、 平野の中にとび出ている小山で、山の頂上からは遠くまで見渡すことができます。
1563 (永禄6)年、 尾張国(現在の愛知県北西部) を支配していた織田信長が小牧山に城を造り(小牧山城)、 それまで住んでいた清須城(現在の愛知県清須市)からここに移りました。 城を造る時には、山の中を削ったり、 削った土を積み上げていくつもの曲輪 (平らな場所)を造ったり、 堀 (地面を掘って造った大きな溝)を造ったり、山の頂上 (城の中心で一番守りたいところ)には石を積み上げて石垣を造ったりしました。 また、 城を造るとともに、 山の南側には城下町を造りました。 しかし、4年後には織田信長は岐阜城 (現在の岐阜県岐阜市) へ移ったため、 小牧山城は使われなくなりました。
1584 (天正12)年、 小牧・長久手の戦いが起き、 織田信長の子どもの織田信雄と徳川家康が小牧山城に来ました。 この時、 小牧山城に敵が攻めてこられないようにするため、 山のふもとを一周する堀や土塁 (土を積み上げて造ったかべ)を新しく造りました。 戦いはこの年のうちに終わり、 この後は小牧山城が城として使われることはありませんでした。
江戸時代になると、 小牧山は徳川家の大切な場所として尾張徳川家によって管理され、まわりに柵が造られて中に入れないようになりました。 図1、 図2はどちらも江戸時代に作られたもので、図1の 『春日井郡小牧村古城絵図』 は、 城であった小牧山の中の様子が、 図2の『尾張名所図会』では、離れたところから見た小牧山の様子が描かれています。
小牧山の中には城として使われていた時の土塁や堀などがよく残っていて、 1927(昭和2)年に、文化財として大切に残していく場所として、 国の史跡に指定されました。


これは読めますね。

これは読めない?

文字起こししてみましょう。


大手道

ここは小牧山城の表口 (大手口) です。 現在は東側から階段を上って城の中に入っていきますが、本来はこの階段はなく、南側から城の中に入っていました。 ここから入って城の中心である山の頂上まで行く道が大手道で、江戸時代に描かれた『春日井郡小牧村古城絵図』には赤線で書かれており、現在の道もほぼ同じところを通っています。
大手道はここから150mぐらいまっすぐに上り、そこで右に曲がって70mぐらいまっすぐ進むと途中からヘビのようにクネクネと曲がった道になり、山の頂上へ続きます。ふつうは、城の道は敵が入りにくいように折れ曲がった道にしますが、 まっすぐな大手道は小牧山城の特徴で、大手道の両側に曲輪 (平らな場所) が階段のように段々と並んでいることとともに、 1576 (天正4)年に織田信長が造った安土城 (現在の滋賀県近江八幡市) と同じです。
織田信長が小牧山城を造った時から江戸時代までの大手口近くの大手道の変化は、次のとおりです。

【1563~67 (永禄6~10)年 織田信長が小牧山城にいた時】
大手口から山の途中までまっすぐな大手道と道の両側に曲輪が造られる。

【1584 (天正12)年 小牧・長久手の合戦の時】
織田信雄と徳川家康が小牧山城に来て、 山のまわりに新しく二重の土塁(土を積み上げて造ったかべ) と堀 (地面を掘って造った大きな溝) を造る。大手口周辺では土塁をたがいちがいにして大手道を曲げる (図1)。


【江戸時代初め 『春日井郡小牧村古城絵図』 が描かれた頃】
大手口の土塁をこわして曲がっていた大手道をまっすぐに戻す(図2)。


現在の大手道です。

図の①土塁を西から見たところです。

明日に続きます。


小牧FW -1-

小牧FW -2-

小牧FW -3-

小牧FW -4-

小牧FW -5-最終回


このブログでの他のシリーズは・・・

ベトナム・ホーチミン みてある記 -1-  タイ・バンコク 見てある記-1-  シェムリアップみてある記 -1-  香港に来ています  台湾レポート-1-  平成25年度北方四島交流訪問事業 -古釜布湾-  なごや探索 出雲 函館 京都散策  さわやか中欧 見てある記 -1-   美濃 見てある記 -1-  東京散策 みちのく三陸海岸 見てある記-1- 滋賀探訪 新城FWに参加しました-1- 碧南FWへ行ってきました -1- 安城へ行ってきました1 -本證寺- 「勝鬘寺と大久保氏ゆかりの上和田城址」(岡崎市)-1- 北陸探訪 -1- 剱神社 近江FW  長久手FWへ行ってきました -1- 遠州FW -1- 小牧FW -1- 末森城周辺FW-1- 「宮宿」-1- 大野城・大草城-1- 「鳴海宿」-1- 富士周辺五名城と諏訪の旅-1-  犬山城周辺 -1- 近江FWⅡ 安祥城周辺-1- 「有松宿」-1- 堀川七橋めぐり-1- 松平郷周辺FW -1- 桑名城 -1- 「池鯉鮒宿」-1-

社楽の会」HP:中国ODAみてある記 韓国研修その2 ブリスベン

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。