【韓国】
朝鮮日報http://www.chosunonline.com/
「大阪府の公務員、倒産した会社の社員と同じ」
日本で今月10日に行われた統一地方選挙で最大の勝者となったのは、橋下徹・大阪府知事(41)だろう。橋下知事が率いる地域政党「大阪維新の会」は、大阪府議選で与党・民主党と最大野党・自民党を圧倒し、議席の過半数を獲得した。また、大阪市議選と堺市議選でも第一党となった。
強いリーダーシップを誇る橋下知事は今回の選挙で、日本の次世代を担うリーダーとして浮上した。橋下知事は2008年、自民党の全面的な支持を受け大阪府知事に当選したが、昨年「大阪維新の会」を結成し、自民党と決別した。
橋下知事の生い立ちには、誰もが好印象を持つ。小学2年生のときに父親を事故で亡くし、母子家庭で育った。中学・高校時代はラグビー部で活躍し、早稲田大政治経済学部時代は衣類販売のアルバイトをしながら大学に通い、司法試験に合格した。また、出生率の低下が社会問題となっている日本では珍しく、3男4女をもうけた「子だくさん」としても知られる。弁護士時代には1週間に9回以上テレビ番組に出演し、法律相談などを通じ「タレント弁護士」として知名度を上げた。
大阪府知事に当選した当時は「タレント政治家」と皮肉られたが、「大阪」の改革を成し遂げた橋下知事は、次世代の指導者として一気に頭角を現した。5兆円を超える負債を抱え、破産寸前だった大阪府庁に乗り込んだときの第一声は「大阪府の公務員は倒産した会社の社員と同じ」というものだった。3000億円にも上る負債の削減を掲げ、職員の月給を最高15%カットし、有給休暇制度も大幅に縮小した。また、職員の結婚や出産に対する祝い金として支給されていた年間18億円の予算もカットし「ミスター・カッター」と呼ばれた。さらに、カラーコピーの使用を禁止し、紙の使用量を節約するため、書類の様式を簡素化した。このほか、庁舎や公営住宅に自動販売機を設置し、その収入を負債の削減のために活用した。
また、橋下知事は企業型の会計制度を導入し、予算の削減と人事評価を連動させた。青少年活動財団など10法人を廃止し、18法人を民営化したほか、府内の市町村に対する補助金や私学助成金、オーケストラなどの芸術文化団体に対する支援までも削減した。これには「反教育的」「反文化的」という批判が相次いだが、「今のままでは大阪府は破産に陥る」と力強く説得した。こうした大胆な政策によって得た70%を超える高い支持率は、改革を進める原動力となった。
「大阪維新の会」を結成するに至った背景には、橋下知事が議員報酬の30%カットなどの施策を進める中で、自民党と民主党が多数を占める府議会との対立があった。既得権にしがみつくだけの既成政党では、これ以上改革を進めることができない、と判断したのだ。一方、橋下知事は「日本も核を保有すべきだ」と発言するなど、政治思想は右翼的だ。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の朝鮮学校に対しても、金日成(キム・イルソン)、金正日(キム・ジョンイル)父子の肖像画を教室に掲げていることを理由に、補助金の支給を拒否している。
また最近、橋下知事は教育改革を推進している。全国学力テストで大阪府の小・中学生の成績が下位にとどまっていることを受け「教育非常事態宣言」を発表し、ソウルを訪問して科学高校や外国語高校を視察した。1000兆円を超える負債を抱え「日本破産論」が登場する中、民主党は教育や福祉の無償化にこだわる一方、自民党は福祉予算を削減して土木事業を進めようと主張しているため、橋下知事による改革はさらに注目を集めている。「大阪維新の会」は、今回の統一地方選で「大阪都構想」を公約に掲げた。橋下知事は「日本が持続可能な発展を成し遂げるためには、東京と大阪の二つの首都があってしかるべきだ。地震のような災害に対処するためにも『強い大阪』が必要だ」と主張している。これに対し民主党や自民党からは「妄想」との批判もあるが、今回の選挙結果を受け、橋下知事の改革にはさらに弾みがつくものと見込まれる。
【コラム】それでも政府を信じる日本人
東京では最近、桜が満開だ。上野公園など都内各地は多くの花見客で久々に活気を取り戻している。上野動物園も、中国からやって来たパンダを一目見ようと子供たちで賑わっている。例年、この時期に日本各地で行われる夜桜見物は自制されているものの、町全体が少しずつ本来の姿を取り戻しつつある。水道水が放射能で汚染されているとのニュースが流れた直後、一時はスーパーなどから消えた水も、今では普通に買えるようになった。品薄状態が続いていたカップ麺やティッシュなどの日用品も再び店頭に並んでいる。自発的な節電運動が拡大し、東京の夜には以前ほどの華やかさはないが、路地裏の居酒屋には若い男女の笑い声が帰ってきた。被災者を意識して節約ばかりするのは、逆に復旧の妨げになるという認識も徐々に広まり、デパートや商店街などでは買い物客が増え始めている。
市民は普段の生活を取り戻しつつある一方、不安な日々は相変わらず続いている。3月11日に発生した大地震以来、マグニチュード5以上の余震がすでに400回以上発生している。テレビ画面には1日に何度も地震速報が映し出され、実際に余震でビルが揺れることもある。そのたびに「このままではビルが崩壊するのではないか」という、当時の悪夢がよみがえってくる。野菜や魚から放射性物質が検出されたというニュースが流れると「何を食べればよいのだろう」という不安が頭をよぎる。
欧米のマスコミが「人類精神の進化」とまで称賛する日本の市民意識は何に由来するのだろうか。現場を目の当たりにした記者が下した自分なりの結論は「政府への信頼」だ。外国人からすると、日本政府による危機管理能力はまさにゼロだ。災害現場からは「寒い」「水や食料がない」といった嘆きが聞こえてくるにもかかわらず、安全点検という名目で、救護品を積んだ輸送車の通行さえ遮ってしまう行政、大型タンカーを1隻も準備できず放射能汚染水を海に放出する無謀さ、救護車さえ動けないほどのガソリン不足でも、政府の備蓄は放出しない融通のなさ、情報が共有されず、閣僚が互いに抗議し合う省庁間の利己主義-。
政府のこのような情けない姿に、日本人はもちろん怒りをあらわにしている。だがそれでも政府の発表を信じ、指示通りに動く。政府が「健康に異常はない」と言えば、市民は原発のある福島県の野菜や魚を食べる運動まで始めた。市民の自発的な節電で、大停電の危機も克服した。インターネットでは菅直人首相の無能さが厳しく批判されている反面、支持率は逆に10%も上昇した。一方で外国人は、日本政府の発表そのものを信じていない。事務所を大阪や、香港など海外に移転する外国企業も多い。日本にいるというだけで恐怖を感じ、数千万円の損失を甘受して帰国に踏み切った外国人プロ野球選手のニュースも報じられた。
日本国民も外国人ほどではないが、不安を感じているのは同じだ。しかし危機を克服するためには、無条件に政府の言うことを信じ、その指示通り動かなければならないと考えているようだ。これは政府がいくら無能であっても、国民を欺くようなことはしない、という信頼感があるからこそなのだろう。
東日本巨大地震:警察署の駐車場に金庫の山
大船渡警察署「高齢者の多い地域ほど流された金庫の数も多い」
現金を自宅に保管する「たんす貯金」文化
岩手県大船渡市にある大船渡警察署の駐車場には、車ではなく数百個の金庫が積み上げられている。3月11日の東日本大地震とその後の津波で多くの家が押し流されたが、これらの金庫は、流された家の残骸などから回収されたものだ。大船渡警察署の関係者は「最初は警察署の建物の中に保管していたが、数があまりにも多く、今では建物の外で保管している」「今も毎日数個の金庫が回収されており、正確な数は把握できていないが、少なくとも数百個にはなるだろう」と話した。今回の地震で最も大きな被害を受けた宮城県でも同じような状況だ。
英紙「デーリーメール」はこの状況について「日本特有の“たんす貯金”文化」と報じた。日本には現金を銀行などに預けず、自宅に保管している人が多い。そのため日本国内では、普段からおよそ30兆円もの現金が、市場に出回らずそのまま保管されているという。
とりわけ高齢者世帯は金融機関に預けないケースが多いという。地震と津波で被害が発生した地域の中でも、とりわけ高齢者が多く住む地域で、持ち主の分からない金庫が多く発見されているのはそのためだ。ちなみに岩手県は住民の30%が65歳以上。宮城県の警察関係者は「高齢者はATM(現金自動預払機)をあまり利用せず、自分が必要なときにいつでも金が使えるよう、自宅の金庫に現金を保管している」と話した。日本で金利が低いことも、たんす預金が多い理由の一つだ。
共同通信は9日、「岩手県と宮城県だけでも数千万円もの現金が“拾得物”として保管されているが、これらの持ち主を見つけるのは事実上、不可能だ」と報じた。宮城県庁の関係者は「現金は財布の中で身分を証明するものと一緒に保管されている場合などを除いては、一般的に本人に返還するのは難しい」と述べた。
日本の法律によると、拾得物は3カ月の保管期間が過ぎても持ち主が現れず、所有者が分からない場合、発見者がそれを自分のものにすることとなっている。この法律通り処理されれば、これらの金庫は3カ月後には日本政府に帰属することになる。被災者たちの間では「所有者に返還できないのなら、この現金は復旧費用として使ってはどうか」という声が相次いでいる。AP通信は「日本政府が発表した地震と津波の被害規模は15兆円から25兆円と試算されているが、これには個人の財産被害は含まれていない」と報じた。
福島原発:日本政府が事故評価引き上げ、レベル7へ
福島第1原子力発電所の事故と関連し、日本の原子力安全委員会は11日、原発から最大で1時間当たり1万テラベクレル(テラベクレルは1兆ベクレル)の放射性物質が放出されていたとする試算を明らかにした。共同通信が報じた。
日本政府はこれを受け、原発事故の深刻度を示す「国際原子力事象評価尺度(INES)」に基づく評価を、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に並ぶ「レベル7」とする方向で検討に入った。INESの評価では、ヨウ素131換算で外部への放射性物質の放出量が数万テラベクレル以上の場合、最も深刻なレベル7と規定している。原子力安全委員会の班目春樹委員長は、1時間当たり1万テラベクレル水準の放射性物質放出が数時間続いたとする推計を発表した。
日本政府は引き上げを検討する背景には言及していないが、同日午後5時16分ごろ発生した、福島県浜通りを震源とするマグニチュード(M)7.1の余震が影響を与えたとみられる。
【米国】
ウォール・ストリート。ジャーナルhttp://jp.wsj.com/
震災当日の運命の分かれ目
【陸前高田】激震が市庁舎を揺るがす数分前、岩手県陸前高田市の戸羽太市長(46)は、この海沿いの小都市の市長に就任して以来、ひと月ぶりに静かな金曜の午後を過ごしていた。
3月11日午後2時40分、戸羽市長は妻の久美さんに電話をし、夕飯は息子2人を連れて焼き肉にでも行かないかと提案した。妻は、子どもたちが学校から帰ったらメールで返事をするね、と約束した。
2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード9の地震がこの町を揺るがし、電気と電話を不通にした。その後間もなく、高さ12メートルを超える黒い水の壁が6メートルの堤防を突き破り、市の中心へと流れ込んだ。
市長と数十人の住民は、市の中心街にある鉄筋コンクリート4階建ての市庁舎の屋上目指し、慌てふためいて階段を駆け上がった。津波の水位は、市庁舎の最上階に達するほどだった。
トラックやバスがもんどり打って倒れた。基礎から引きはがされた住宅は海へと流され、中にいた人々は泣き叫んで助けを求めた。
自宅の方向を振り返ると、すべての家が押しつぶされようとしていた。木材がバラバラになるすさまじい音がしたという。
戸羽氏の息子の大河君(12)と奏人君(10)は高台にある学校におり、津波の難を逃れた。しかし妻はいつものように自宅にいた。
「みんなのことを無視して車で行くかな、と思ったが、でもそれもなかなかできない」と戸羽氏。市長として、職員を安全な場所に導く必要があると思っていた。「ちゃんと逃げればいいけどな、と思っていたが」。
ようやく水が引き始めると、町は壊れた車、砕け散った木材、ねじれた鋼材が散乱する廃墟と化していた。銀行はすべて押し流された。ガソリンスタンドも消失。食料品店も、病院もなくなっていた。
陸前高田市の人口の10分の1にあたる2,300人以上が死亡あるいは行方不明となった。
厳しい復興への道
震災からひと月、戸羽市長は、日本が史上最悪の自然災害からの復興を目指すなか、途方に暮れるほど困難で重い責務を担っている。
政府は、ただでさえ落ち込んでいた東北の太平洋沿岸をどうやって再建するか、あるいはそもそも再建すべきかどうかすら決めかねている。戸羽氏ら地方の政治家が下す決定は、被災地が今後、存続し繁栄を取り戻すことができるかどうかを決定づける。
港湾都市神戸を破壊した1995年の阪神・淡路大震災、東京周辺で10万人の死者が出た1923年の関東大震災 ――こうした地域は速やかに復興した。しかし、陸前高田をはじめとする今回の地震と津波の被害を受けた東北のリアス式海岸沿いの町々は、東京や神戸とはまったく異なる。
この地方は、震災のはるか前から長く苦しんでいた。若者の多くはよりよい暮らしを求めて地元を離れ、あとには、高齢者と斜陽産業が残されていた。悲観論者は、先細りしつつある市町村の再建に投資することの経済的意味を疑問視する。
ある土曜の午後、戸羽市長は、市の学校給食センターに設けられた仮庁舎の災害対策本部で、こんな状況の中、市長を務めるのはつらいと弱音を吐いた。また一からやり直さなければならないのだから、と。
ベージュのジャンバーに揃いのズボンという借り物の防災服に、リーボックの黒のスニーカーを履いた戸羽氏。残り少なくなったマールボロ・ウルトラライトを吸いつつ、首から下げた携帯電話で国や地方の当局者と話し込みながら、仮庁舎の外の舗道を行きつ戻りつしている姿をよく目撃されている。
戸羽氏のこれまでの成果 ― 陸前高田に残っている車両の一部をさらに数日走り続けさせられるだけの燃料の調達や、家を失ったまま市内に残っている1万人の避難民のための生活物資の確保 ― は、ある意味、前途に控える任務の途方もない大きさを浮き彫りにしている。
津波で妻が行方不明に
市長としての職務に没頭していても、久美さん、大河君、奏人君と過ごした日々を心の片隅から完全に消し去ることはできない。息子たちは戸羽氏の叔父に預けた。時間が許せば息子たちに会いにいくが、夜もたいてい、災害対策本部のデスク脇の布団で寝泊まりしている。
町の中心街にあった自宅は、震災直後にちらっと見たが、戻ることはできなかった。あまりそばまで近づけなかったため、まだ残っている骨組みの上に別の家の屋根が乗かってしまっていることぐらいしか確認できなかった。
戸羽氏の自宅を訪ねてみた。1階のクローゼットには泥をかぶったジャケットと数本のネクタイが下がっていた。床には写真が散乱し、その中には、グレースーツ姿の若き日の戸羽氏と久美さんの結婚式当日の写真もあった。泥まみれの別の写真には、青緑色の袖の白いTシャツを着た、肩までの長さの黒髪の久美さんが、息子の1人を両腕で包むようにして笑っていた。
戸羽氏は震災後の数週間、忙しさのあまり、遺体安置所まで足を運んでそこに久美さんがいるかどうか確かめることもできなかった。見つけてしまうのも怖かった。
3月末、戸羽氏は、夫として妻を捜しに行きたいが、復興活動を陣頭指揮する必要があるし陸前高田の多くの住民は自分と同じ境遇にある、と語った。
日本百景の松林も消失
陸前高田には1,000年前から人が住んでいた。背後に山を控えた平野に広がるこの町は、ホタテやウニ、東京のレストランで1個400~500円もするカキで有名だ。高田松原と呼ばれる砂浜沿いに延びる松林は、かつて国によって、日本百景の1つに指定された。
一方、ここには津波の歴史もある。1960年のチリ地震が引き起こした津波では、8人が死亡し、海岸付近の地域が水浸しになった。
しかし、3月11日の津波ほど内陸まで到達した津波はこれまでなかった。
大急ぎで住民に警報を出しにいった市職員らは波にさらわれた。市長の顧問の1人は高齢の女性をおぶって避難しようとしたが、おぶったままではとても逃げおおせないことを悟り、市庁舎の2階の階段踊り場に女性を置き去りにした。「ごめんね、おばあちゃん」と言い残して。その後、その女性の姿を見ることはなかった。
津波は、緊急避難場所に指定されていた中心街の市民体育館の壁を突き破り、避難していた数十人の住民ほぼ全員をのみ込んだ。
2人の消防士は消防署屋上の火の見やぐらにしがみついていた。ヘリが2人を救出し、暗くなる前に中心街のビルの屋上からも数人の生存者を無事救い出した。そこかしこで爆発するガスボンベが火柱を上げた。
午後7時ごろには雪が降り始めた。一部の被災者は木材の切れ端をかき集めてかがり火をたき、暖を取るとともに救援隊への目印にした。戸羽市長と残った市役所の職員らはラジオのまわりに集まり、ニュース速報に耳を傾けた。
余震は夜通し続き、濁った波が寄せては返した。戸羽市長は、庁舎全体が倒壊することを懸念していた。ただ夜明けが来るのを祈るばかりだったという。
夜明けから、市の職員は安否確認に乗り出した。これまでに約2万3000人の住民のうち、1100人の死亡が確認されている。1200人近くが依然行方不明で、絶望とみられている。体育館に設けられた仮遺体安置所にある数百の遺体は、まだ身元が分からない。
警察署長、2人の市議会議員、3人の学校幹部職員が津波にのみ込まれた。市職員も3分の1が亡くなった。
被災者の迷い
被災者の多くは、地元にとどまるべきかどうか考えあぐねている。建設作業員のストウ・アキラさん(55)は、冷たい海水の壁になぎ倒されたときのことが脳裏を離れないという。避難しようと、母親(82)と二人で自宅から飛び出したところを津波に襲われ、握っていた母親の手を放してしまった。
母親は、もうだめだ、とあえぎ声を上げたきり、津波にのまれたという。遺体はまだ回収されていない。
妻と2人の子どもとともに緊急避難所の学校体育館に滞在しているストウさんは、できれば地元に残りたいと語るが、実際、それが可能かどうか分からないという。
地場産業の柱さえ揺らいでいる。
陸前高田最大級の雇用主の1つだった酔仙酒造の今野靖彦社長(64)は、市の中心街にあった酒蔵を再建すべきかどうかまだ決めかねているという。津波は酒蔵に穴をうがち、緑色の巨大な金属製のタンクを5キロメートルも先に散乱していた。
今野社長は、この町生まれだが、ここで商売をしているのだから、町がこの被害から立ち直れるものかどうかを考えなければいけないと言う。周りに何もないところに酒蔵を建てたところで意味がない、と。
復興を急ぐ
戸羽市長は、地元にとどまるよう住民を説得することを自らの重要な仕事の1つととらえている。地元を引っ張る立場にある市民たちが地元を離れてしまわないうちに復興の進展ぶりを示すべく、国と県から十分な支援を引き出そうと考えている。
その再建に必要な人員を確保するため、今年定年を迎える市職員には退職を先延ばししてくれるよう、説得に努めてきた。
市はいままでより小さくなるかもしれないと市長は言う。しかし妻は行方不明だが、息子たちは健在なので、彼らが大きくなったときにまだ陸前高田があってほしいと願っていると語った。
息子たちの顔を見るにつけ、頑張るしかないと思うと戸羽氏はいう。これが自分の定めなのだと割り切って、やるべきことをただやるしかない、と語った。
市議から市長へ
18年前に陸前高田市にやって来たとき、こんなことになろうとは夢にも思っていなかった。
東京都下で生まれた戸羽氏は、28歳のときに海辺のこの町に移り住んだ。不況のため、東京でコンピューター・プログラマーとして生計を立てるのが難しくなったためだ。戸羽氏がこの地を選んだのは、そこが父親の生まれ故郷だったからだが、この土地の自然の美しさとのんびりした雰囲気がたちまち気に入ったという。
陸前高田にやって来てすぐ、戸羽氏は地元の鶏肉加工会社に就職した。そこで出会ったのが、沿岸の北寄りにある別の小都市出身の久美さんだった。
久美さんは7歳年下。黒い髪に上品な顔立ちで、年より若く見えたという。宝石店で二人がエンゲージリング選びをしているとき、店員が、娘さんのためのお買い物ですかと尋ねたことを戸羽氏はいまも覚えている。「いまでも20代くらいに見えていた」と戸羽氏は言った。
久美さんは、年代物の米国製ファイヤーキングのガラスのマグカップを集めていた。小物を作るのが好きで、携帯電話にぶら下げる型押し模様の入った革製の小物などを作っては、仲間とテントで販売したり、空いている店を借りて販売したりしていた。
政治家になるという夫の決断に久美さんは一度も異を唱えなかった。本心は嫌がっていたかもしれないが、「歳が離れていることもあるのか、わたしの言うことには逆らわないで何でも協力してくれた」と戸羽氏はいう。
政治家への転身は、実は戸羽氏本人の考えですらなかった。父親が政治に関わっており、十数年前、市議会選挙が間近になったとき、父親が戸羽氏の後援会組織を作ってしまった。ある日、戸羽氏が帰宅すると、「近所のおじちゃんとか、おばちゃんが150人くらいいて、拍手で迎えられて、何のことだか分からなかった」という。
10年ほど前に亡くなった父親は、当時戸羽氏に、やることはたいしてない、ポスターを何枚か貼るだけでいいと請け合った。しかし父親の知らぬ間に、息子はいつしか選挙運動を繰り広げ、大勢の人に向かって演説をしていた。
市議に当選するや、戸羽氏は、暇を見つけては近所を歩き回って住民の話を聞き、住民の要望に気を配った。
ほどなく戸羽氏は一介の市議でいる限り、できることは限られていると悟った。「議員になってから、いつかは村長でもなんでもいいから、自分の思いで、町づくりができる立場になりたいと思った」という。
その後、数年助役を務めたが、市長が病気で再出馬しないことを決めたため、市長選への出馬の意向を固めた。戸羽氏の決意を聞いた久美さんは、「うん、わかった」と言っただけだったという。
戸羽氏は市長選で、長年にわたる多額の財政支出に伴う市の負債の縮小を訴えた。戸羽氏の夢は、日本の富裕な高齢者層を呼び寄せ、陸前高田の浜辺を人気のリゾート・保養地にすることだった。
今年2月市長に当選した後、戸羽氏は、市の予算編成と、地元の要人への表敬訪問に取りかかった。妻と一緒に過ごす時間があまりなくなるのは分かっていたが、そうした時間はいずれまたできるだろうと思っていた。
市長としての覚悟
市長として取り組もうと思っていた課題は、震災の発生で棚上げになった。震災直後の数日、戸羽氏は努めて平静を保とうとした。妻の消息は不明だったが、破壊の規模 ―そして、がれきの下敷きになった何百人もの行方不明者 ― を思えば、妻のことを考えている余裕はなかった。
自宅は大量のがれきに行く手を阻まれて近づくことができなかった。政府の捜索・救助部隊が一帯の捜索にあたっていた。
電気もなければ、救援物資もほとんどなかった。深刻に助けが必要な住民が何千人もいる。市長は自分にできることに集中することにした。被災者の救援だ。
仲間に頼み込んで、できるだけたくさんおにぎりを作って被災者に配った。より多くの救援物資が届くよう、道路復旧を自衛隊に要請した。だが数週間後に振り返ったとき、記憶がおぼろげで何をしていたのか思い出せない部分が多かったという。
震災の1週間後、食料と水が定期的に到着し始め、自衛隊が入って救援活動を開始した。しかし、歯ブラシや紙おむつといった必需品の不足はまだ続いていた。
震災の1週間後に戸羽市長は、市の漁業の復興や、その他の再建活動についてはまだまだ先の話だと話した。最も切実なのは、ガソリンと高齢者に十分な医薬品を確保することだった。
支援拡大の必要性を政府関係者に納得させるため、市長は国会議員を招き、市の緊急避難所の1つで一夜を過ごして欲しいと頼んだ。国の救援活動の遅さを知ってもらいたかったのだ。震災から3週間後の首相の陸前高田視察について尋ねられた戸羽氏は、ようやく、と言った。
日がたつにつれ、日々の定例業務が定まってきた。毎日午後には、沈痛な面持ちで記者発表を行い、新たに遺体が発見された犠牲者を加えたリストを配布する。妻のことや子どもたちのことを考える時間はあまりなかった。ただ、息子たちとはときどき電話で話をした。
生き残った市職員らは、コンピューターをかき集め、学校給食センターの災害対策本部で仕事をしていた。消防と警察のための仮詰所が駐車場を挟んだ向かいに設けられた。水道がないため、裏手に溝式トイレが掘られた。
仮設住宅が市民を引き留める
戸羽市長は電話を総動員して県当局者に連絡をとり、仮設住宅の建設開始を強く求めた。これは市民の流出を防ぐのに不可欠の措置だった。菅首相が戸羽市長に、住民を被害の少ない内陸の都市に一時移してはどうかと伝えたが、戸羽氏は断った。
地域のきずながとても強い土地柄なので、住民をばらばらに避難させることはできない、と戸羽氏はいう。
3月26日、仮設住宅の建設がようやく始まった。同市の仮設住宅建設着手は被災した自治体中でもっとも早かった。屋内配管・暖房付きのプレハブアパート36戸が大勢の建設作業員によって緊急避難所となっている中学校のグラウンドに急ピッチで建てられた。入居者の抽選には1000人以上が応募した。
戸羽氏は、ほかにもいくつかの小さな成果を収めた。地元の衣料品メーカーの経営者に掛け合って、緊急避難所で暮らす女性が切実に必要としている女性用下着の寄付を受けた。
復興事業の財源はどうなる
緊急支援という喫緊の任務にめどがつき始めるにつれ、陸前高田市が直面する課題の大きさがいやが上にも明らかになってきた。
橋、道路、鉄道は、黒い津波によって破壊された。送電網はすっかり流された。10年前に百数十億円で建設された廃水処理施設は跡形もなく消え去った。かつて市を守っていた巨大で高価な防波堤は崩壊した。市内の低海抜地区を守るためには、まず防波堤から作り直す必要がありそうだ。
市役所に保管されていた市の文書はほぼ全滅した。契約書、青写真、近年の市税支払い記録はすべて津波にさらわれた。市職員は、破損状況を評価して市内の道路や橋の被害の見積もりや修理には、観光パンフレットから破りとった地図に頼らなければならない。
市庁舎、消防署、体育館など市が所有するいくつかの建物は倒壊を免れたが、損傷がひどいため、解体しなければならない。戸羽市長は解体のための財源確保に頭を絞っている。市が自腹を切らなければならないなら、新しい施設を建てるための資金は一銭も残らないだろうという。
陸前高田市の人口は、1970年からすでにじりじり減りつつあり、しかも、65歳以上が人口に占める比率は、全国平均が約20%に対し、陸前高田市では3分の1となっている。これまでの観光客誘致プロジェクトへの支出によって膨らんだ負債のため、再建計画の予算は限られる。そうしたプロジェクトの1つだった「海と貝のミュージアム」は、津波に押しつぶされた。
市当局は、被害総額の算定にまだ着手していない。政府が再建費用を支払う公算が大きいとみられるものの、出資の時期や額はまだ皆目見当が付かない。
再建には創意工夫が必要になる。ある土曜の午後、戸羽氏は薄くなった髪を手ぐしで整えながら、疲れきった表情で、何か思い切ったことをする必要があると語る。
1つの案は、中心街を取り囲む山々の1つの頂上をブルドーザーで整地して高台の住宅地を増やした上で、余った土を使って市の中心部の海抜を20メートル高くするというものだ。しかし、その費用は果たしてどこから出るのか。
陸前高田振興のために戸羽氏がこれまで抱いていたアイデア、すなわち観光は、もはや見込み薄に思える。陸前高田の白い砂浜を観光名所にしていた何万本もの松は、津波によってなぎ倒され、いまでは、わずか1本を残すのみだ。
住民を地元にとどまらせようと努めていた戸羽氏は、何人かの援軍を見つけた。1人は、東京でコンピューター・システム・エンジニアとして働くため、何年も前に町を出た佐々木高志さん(35)だ。同世代のほとんどは都会に出たきりだが、佐々木さんは昨年、里帰りを決め、父親の経営する家業の印刷所を手伝うことにした。
3月11日、佐々木さんは、津波のライブ映像をインターネットに流そうと、デジタルカメラで撮影を行っていた。だが津波の規模を目の当たりにして、父親とともに市庁舎に駆け込んだ。2人は市庁舎の上階で、市長とともに一夜を明かした。
佐々木さんの母親、おば、祖母は津波で亡くなった。何日も捜し回ったにもかかわらず、自宅や家業の印刷所の痕跡を何一つ発見できなかったという。
すべてを失ったにもかかわらず、佐々木さんは陸前高田にとどまる決意だという。町に残って再建に取り組みたいと語る。
津波からひと月、戸羽市長の努力は明らかに実を結び、ますます多くの市民が市長にならい、粉々に打ち砕かれた生活を元に戻そうとしている。先週、市は、日本のほとんどの地域社会に必ず1つはある交番を震災後初めて再開した。
その近くでは、岩手銀行がプレハブの建物で臨時出張所を開設し、平日4時間、営業している。角を曲がった先には陸前高田商工会が地元企業を支援すべく事務所を開設している。市の仮設住宅に当選した幸運な少数の住民は入居を始めた。
しかし市内の低海抜地域では、膨大な作業がまだ残っている。がれきの山が脇へ寄せられ、車と土木機械の通り道が作られた。しかし、陸前高田の大部分はまだ、巨大なごみ埋立地さながらだ。
4月5日、戸羽市長は、警察からの電話を受けた。前日が39回目の誕生日だった妻の久美さんに似た遺体が安置所で見つかったという。遺体が発見されたのは、自宅から数百メートルほど坂を上った場所だった。
戸羽氏はその後も公務を離れられず、数時間後、ようやく遺体安置所へと足を運んだ。遺体はひどく損傷していたが、久美さんに間違いなかった。
息子たちに何と伝えたものかいろいろ考えたが、時間がたって痛んだ遺体を2人には見せたくないと思った。母親のことをそんな姿で記憶に刻んでほしくなかった。「友達みたいにしていたから」と戸羽氏はいう。「わたしが忙しい分、いつもお母さんと一緒にいた子供たちなので、できればきれいなままのお母さんの印象でいてもらいたい」
遺体の前で、捜しに来なかったことを何度も妻にわびた。市長としての責任があって捜しに来れなかったのだと。
自分に言い聞かせながらも、釈然としなかった。「そういうのが人としてどうなのか」。そう思わずにはいられなかった。
政府、余震や津波からの福島第1原発の安全確保に一段の焦点
政府当局者は強い余震や津波に対する福島第1原子力発電所の安全確保にますます焦点を絞っている。ここ1週間以内の2つの大きな余震により原発で生じた問題のために、さらなる大災害への備えが不十分な現状が浮き彫りになった。
経済産業省の原子力安全・保安院は12日、福島第1原子力発電所の事故の評価を、国際基準に従って最悪の「レベル7」に引き上げることを決めた。レベル7は、1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故の評価と同レベル。
福島県で12日、ここ数日間で2回目となる大きな地震が発生し、福島第1原発が直面する潜在的な脅威があらためて喚起された。マグニチュード6.3と推定されるこの日の地震では津波は発生せず、東北地方の原発にはいずれも損傷などの被害は生じなかった。3月11日には東日本大震災に伴う津波が福島第1原発での被害の大半の主因だった。
福島第1原発での制御不能な核反応のリスクは現時点では可能性は高くないが、政府当局者は福島第1原発の損傷の激しい原子炉の安全確保に一層焦点を絞り始めている。3月11日の東日本大震災以来、福島第1原発の各原子炉は停止されているが、燃料棒は破損し溶解しており、温度の再上昇と原子炉の損傷拡大を回避するために冷却の継続が必要となっている。
菅直人首相事務所の当局者の一人は、現在直面する最大の脅威が余震と津波であることは疑いの余地がないとの見方を示した。
同当局者は、目の前の差し迫った脅威は以前は原発での大爆発を回避することだったと言及。しかしその後、状況が幾分安定化し、われわれの評価では現在、最大の脅威は余震と津波だとの見方を示した。
3月11日に観測したマグニチュード(M)9.0の地震以来、M6.0以上の地震発生件数は61回に達した。
今月11日午後に福島県や茨城県で発生したマグニチュード7.1と推定される地震では、福島第1原子力発電所1~3号機の原子炉への注水作業が約50分間停止した。また、今月7日夜に発生したM7.1の地震では東北地方の大半の火力発電所が停止するとともに、他の3つの原発への電力供給が最大10時間にわたって中断された。
経済産業省原子力安全・保安院の西山英彦審議官は、今後の津波の脅威から福島第1原発の安全が完全に確保されているわけではないとの認識を示している。
西山審議官は12日の記者会見で、3月11日の大災害を繰り返さないことが政府の最優先事項だと明言した。
同審議官は、政府が先月30日に国内の電力各社に対し、それぞれが運営する原発で外部電力が失われた場合でも運転を継続できることを確実にするよう指示した、と明らかにした。その上で、原発の事業会社は月末までに一層包括的なバックアップ電源システムを整える見込みだと語った。
非情な選択迫られる被災地職員
4月11日2時46分、東日本大震災からちょうど1カ月が経過した。だが、大規模な余震は依然続いている。東北沿岸部各地で黙とうがささげられ、過去1カ月の復興の進捗や依然目の前に立ちはだかる難題について被災者が思いをはせるなか、さまざまな思いを抱えたまま再建を指揮している人たちがいる。
岩手県陸前高田市では、家族と自らを選出してくれた市民のいずれを優先すべきかで苦しむ戸羽太市長はじめ、多くの市職員が困難な状況のなかで過酷な選択を余儀なくされている。
その一人が、同市や市長に関する報道機関からの相次ぐ問い合わせに対処する村上知幸さん(40)だ。陸前高田市職員の村上さんは、広報担当としてほぼ毎日臨時庁舎の外に立ち、しつこい報道陣に我慢強く、丁寧に対応している。
村上さんは、尋ねられれば津波で流された建物が以前建っていた場所を地図上で指し示したり、津波が町を飲み込んでいく様子を市長や他の職員と見つめていた市庁舎屋上の詳細な図を描いたりしてくれる。だが、その笑顔と明るい態度の裏にはつらい心の内が隠されている。
村上さんの母親と祖母、そして6歳の息子の祐太君は震災で亡くなった。祐太君の遺体はまだ見つかっていない。分かっているのは、地震の直後、村上さんの母親が祐太君を保育園に迎えに行ったということだけだ。二人の姿が目撃されたのはそれが最後。彼らが荷物を取りにいったん自宅に戻ったのか、あるいは車で津波から逃げる途中で立ち往生してしまったのか村上さんには分からない。
村上さんは先週6日、よく晴れた暖かい春の気候の中、折りたたみ式のイスの背もたれによりかかり、太陽の日差しを浴びるように空を見上げ、深いため息をついた。今日は本当なら祐太の入学式で、いい天気だねと言っていたに違いない、と村上さんはつぶやいた。
母や祖母は長生きしたが、祐太はたった6歳だった、と村上さんは言った。その後、誰に言うでもなく、「たった6歳だった」という言葉を繰り返した。村上さんは携帯電話の画面に写った祐太君の写真を見つめていた。祐太君は、ウルトラマンの仮面をかぶり、片方のヒザをついてポーズを取っていた。祐太がウルトラマンになって戻ってきてくれたらいいのにと思う、と村上さんは言った。
それに比べれば新築の自宅が津波で流されてしまったことさえも、村上さんにとってはどうでもいいことに思える。村上さん一家は震災の約3カ月前に海岸から1キロメート余りの場所にある新居に引っ越したばかりだった。
3月11日に地震が襲ったとき、村上さんは揺れが弱まり始めるとともに、市庁舎から出て、通りに様子を見に行った。村上さんが市庁舎の2階で災害対策本部の立ち上げ準備を始めていたとき、津波警報が聞こえた。村上さんは、津波が防波堤を越えて流れ込んでくるとは夢にも思わず、たとえそうなっても、町までの距離は十分あると考えていたという。
最悪でも、市庁舎が多少浸水する程度だと思ったという。だが、防波堤を乗り越えるとともに津波は勢いを増し、がれきを飲み込みながら市庁舎に向かってきた。村上さんは、通りにいた住民に避難を呼び掛けた。自身も避難しようとしたとき、おばあさんがよろよろと歩いているのが見えたため、背負って歩き始めた。
その時点で津波は市庁舎の1階まで流れ込み始めていた。さらに多くの波が流れ込むなか、村上さんはおばあさんを背負って階段を上っていった。だが、波は急速に迫っており、村上さんは階段を駆け上らなければ間に合わないと判断した。
おばあさんをそこで下ろすしかなかった、と村上さんは言った。ごめんね、おばあちゃん、とだけ言い残したという。村上さんに、おばあさんは亡くなったと思うかと尋ねると、生き延びられたとは思えない、恐らくそれが自分の性格の弱さだと言った。
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朝鮮日報http://www.chosunonline.com/
「大阪府の公務員、倒産した会社の社員と同じ」
日本で今月10日に行われた統一地方選挙で最大の勝者となったのは、橋下徹・大阪府知事(41)だろう。橋下知事が率いる地域政党「大阪維新の会」は、大阪府議選で与党・民主党と最大野党・自民党を圧倒し、議席の過半数を獲得した。また、大阪市議選と堺市議選でも第一党となった。
強いリーダーシップを誇る橋下知事は今回の選挙で、日本の次世代を担うリーダーとして浮上した。橋下知事は2008年、自民党の全面的な支持を受け大阪府知事に当選したが、昨年「大阪維新の会」を結成し、自民党と決別した。
橋下知事の生い立ちには、誰もが好印象を持つ。小学2年生のときに父親を事故で亡くし、母子家庭で育った。中学・高校時代はラグビー部で活躍し、早稲田大政治経済学部時代は衣類販売のアルバイトをしながら大学に通い、司法試験に合格した。また、出生率の低下が社会問題となっている日本では珍しく、3男4女をもうけた「子だくさん」としても知られる。弁護士時代には1週間に9回以上テレビ番組に出演し、法律相談などを通じ「タレント弁護士」として知名度を上げた。
大阪府知事に当選した当時は「タレント政治家」と皮肉られたが、「大阪」の改革を成し遂げた橋下知事は、次世代の指導者として一気に頭角を現した。5兆円を超える負債を抱え、破産寸前だった大阪府庁に乗り込んだときの第一声は「大阪府の公務員は倒産した会社の社員と同じ」というものだった。3000億円にも上る負債の削減を掲げ、職員の月給を最高15%カットし、有給休暇制度も大幅に縮小した。また、職員の結婚や出産に対する祝い金として支給されていた年間18億円の予算もカットし「ミスター・カッター」と呼ばれた。さらに、カラーコピーの使用を禁止し、紙の使用量を節約するため、書類の様式を簡素化した。このほか、庁舎や公営住宅に自動販売機を設置し、その収入を負債の削減のために活用した。
また、橋下知事は企業型の会計制度を導入し、予算の削減と人事評価を連動させた。青少年活動財団など10法人を廃止し、18法人を民営化したほか、府内の市町村に対する補助金や私学助成金、オーケストラなどの芸術文化団体に対する支援までも削減した。これには「反教育的」「反文化的」という批判が相次いだが、「今のままでは大阪府は破産に陥る」と力強く説得した。こうした大胆な政策によって得た70%を超える高い支持率は、改革を進める原動力となった。
「大阪維新の会」を結成するに至った背景には、橋下知事が議員報酬の30%カットなどの施策を進める中で、自民党と民主党が多数を占める府議会との対立があった。既得権にしがみつくだけの既成政党では、これ以上改革を進めることができない、と判断したのだ。一方、橋下知事は「日本も核を保有すべきだ」と発言するなど、政治思想は右翼的だ。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の朝鮮学校に対しても、金日成(キム・イルソン)、金正日(キム・ジョンイル)父子の肖像画を教室に掲げていることを理由に、補助金の支給を拒否している。
また最近、橋下知事は教育改革を推進している。全国学力テストで大阪府の小・中学生の成績が下位にとどまっていることを受け「教育非常事態宣言」を発表し、ソウルを訪問して科学高校や外国語高校を視察した。1000兆円を超える負債を抱え「日本破産論」が登場する中、民主党は教育や福祉の無償化にこだわる一方、自民党は福祉予算を削減して土木事業を進めようと主張しているため、橋下知事による改革はさらに注目を集めている。「大阪維新の会」は、今回の統一地方選で「大阪都構想」を公約に掲げた。橋下知事は「日本が持続可能な発展を成し遂げるためには、東京と大阪の二つの首都があってしかるべきだ。地震のような災害に対処するためにも『強い大阪』が必要だ」と主張している。これに対し民主党や自民党からは「妄想」との批判もあるが、今回の選挙結果を受け、橋下知事の改革にはさらに弾みがつくものと見込まれる。
【コラム】それでも政府を信じる日本人
東京では最近、桜が満開だ。上野公園など都内各地は多くの花見客で久々に活気を取り戻している。上野動物園も、中国からやって来たパンダを一目見ようと子供たちで賑わっている。例年、この時期に日本各地で行われる夜桜見物は自制されているものの、町全体が少しずつ本来の姿を取り戻しつつある。水道水が放射能で汚染されているとのニュースが流れた直後、一時はスーパーなどから消えた水も、今では普通に買えるようになった。品薄状態が続いていたカップ麺やティッシュなどの日用品も再び店頭に並んでいる。自発的な節電運動が拡大し、東京の夜には以前ほどの華やかさはないが、路地裏の居酒屋には若い男女の笑い声が帰ってきた。被災者を意識して節約ばかりするのは、逆に復旧の妨げになるという認識も徐々に広まり、デパートや商店街などでは買い物客が増え始めている。
市民は普段の生活を取り戻しつつある一方、不安な日々は相変わらず続いている。3月11日に発生した大地震以来、マグニチュード5以上の余震がすでに400回以上発生している。テレビ画面には1日に何度も地震速報が映し出され、実際に余震でビルが揺れることもある。そのたびに「このままではビルが崩壊するのではないか」という、当時の悪夢がよみがえってくる。野菜や魚から放射性物質が検出されたというニュースが流れると「何を食べればよいのだろう」という不安が頭をよぎる。
欧米のマスコミが「人類精神の進化」とまで称賛する日本の市民意識は何に由来するのだろうか。現場を目の当たりにした記者が下した自分なりの結論は「政府への信頼」だ。外国人からすると、日本政府による危機管理能力はまさにゼロだ。災害現場からは「寒い」「水や食料がない」といった嘆きが聞こえてくるにもかかわらず、安全点検という名目で、救護品を積んだ輸送車の通行さえ遮ってしまう行政、大型タンカーを1隻も準備できず放射能汚染水を海に放出する無謀さ、救護車さえ動けないほどのガソリン不足でも、政府の備蓄は放出しない融通のなさ、情報が共有されず、閣僚が互いに抗議し合う省庁間の利己主義-。
政府のこのような情けない姿に、日本人はもちろん怒りをあらわにしている。だがそれでも政府の発表を信じ、指示通りに動く。政府が「健康に異常はない」と言えば、市民は原発のある福島県の野菜や魚を食べる運動まで始めた。市民の自発的な節電で、大停電の危機も克服した。インターネットでは菅直人首相の無能さが厳しく批判されている反面、支持率は逆に10%も上昇した。一方で外国人は、日本政府の発表そのものを信じていない。事務所を大阪や、香港など海外に移転する外国企業も多い。日本にいるというだけで恐怖を感じ、数千万円の損失を甘受して帰国に踏み切った外国人プロ野球選手のニュースも報じられた。
日本国民も外国人ほどではないが、不安を感じているのは同じだ。しかし危機を克服するためには、無条件に政府の言うことを信じ、その指示通り動かなければならないと考えているようだ。これは政府がいくら無能であっても、国民を欺くようなことはしない、という信頼感があるからこそなのだろう。
東日本巨大地震:警察署の駐車場に金庫の山
大船渡警察署「高齢者の多い地域ほど流された金庫の数も多い」
現金を自宅に保管する「たんす貯金」文化
岩手県大船渡市にある大船渡警察署の駐車場には、車ではなく数百個の金庫が積み上げられている。3月11日の東日本大地震とその後の津波で多くの家が押し流されたが、これらの金庫は、流された家の残骸などから回収されたものだ。大船渡警察署の関係者は「最初は警察署の建物の中に保管していたが、数があまりにも多く、今では建物の外で保管している」「今も毎日数個の金庫が回収されており、正確な数は把握できていないが、少なくとも数百個にはなるだろう」と話した。今回の地震で最も大きな被害を受けた宮城県でも同じような状況だ。
英紙「デーリーメール」はこの状況について「日本特有の“たんす貯金”文化」と報じた。日本には現金を銀行などに預けず、自宅に保管している人が多い。そのため日本国内では、普段からおよそ30兆円もの現金が、市場に出回らずそのまま保管されているという。
とりわけ高齢者世帯は金融機関に預けないケースが多いという。地震と津波で被害が発生した地域の中でも、とりわけ高齢者が多く住む地域で、持ち主の分からない金庫が多く発見されているのはそのためだ。ちなみに岩手県は住民の30%が65歳以上。宮城県の警察関係者は「高齢者はATM(現金自動預払機)をあまり利用せず、自分が必要なときにいつでも金が使えるよう、自宅の金庫に現金を保管している」と話した。日本で金利が低いことも、たんす預金が多い理由の一つだ。
共同通信は9日、「岩手県と宮城県だけでも数千万円もの現金が“拾得物”として保管されているが、これらの持ち主を見つけるのは事実上、不可能だ」と報じた。宮城県庁の関係者は「現金は財布の中で身分を証明するものと一緒に保管されている場合などを除いては、一般的に本人に返還するのは難しい」と述べた。
日本の法律によると、拾得物は3カ月の保管期間が過ぎても持ち主が現れず、所有者が分からない場合、発見者がそれを自分のものにすることとなっている。この法律通り処理されれば、これらの金庫は3カ月後には日本政府に帰属することになる。被災者たちの間では「所有者に返還できないのなら、この現金は復旧費用として使ってはどうか」という声が相次いでいる。AP通信は「日本政府が発表した地震と津波の被害規模は15兆円から25兆円と試算されているが、これには個人の財産被害は含まれていない」と報じた。
福島原発:日本政府が事故評価引き上げ、レベル7へ
福島第1原子力発電所の事故と関連し、日本の原子力安全委員会は11日、原発から最大で1時間当たり1万テラベクレル(テラベクレルは1兆ベクレル)の放射性物質が放出されていたとする試算を明らかにした。共同通信が報じた。
日本政府はこれを受け、原発事故の深刻度を示す「国際原子力事象評価尺度(INES)」に基づく評価を、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に並ぶ「レベル7」とする方向で検討に入った。INESの評価では、ヨウ素131換算で外部への放射性物質の放出量が数万テラベクレル以上の場合、最も深刻なレベル7と規定している。原子力安全委員会の班目春樹委員長は、1時間当たり1万テラベクレル水準の放射性物質放出が数時間続いたとする推計を発表した。
日本政府は引き上げを検討する背景には言及していないが、同日午後5時16分ごろ発生した、福島県浜通りを震源とするマグニチュード(M)7.1の余震が影響を与えたとみられる。
【米国】
ウォール・ストリート。ジャーナルhttp://jp.wsj.com/
震災当日の運命の分かれ目
【陸前高田】激震が市庁舎を揺るがす数分前、岩手県陸前高田市の戸羽太市長(46)は、この海沿いの小都市の市長に就任して以来、ひと月ぶりに静かな金曜の午後を過ごしていた。
3月11日午後2時40分、戸羽市長は妻の久美さんに電話をし、夕飯は息子2人を連れて焼き肉にでも行かないかと提案した。妻は、子どもたちが学校から帰ったらメールで返事をするね、と約束した。
2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード9の地震がこの町を揺るがし、電気と電話を不通にした。その後間もなく、高さ12メートルを超える黒い水の壁が6メートルの堤防を突き破り、市の中心へと流れ込んだ。
市長と数十人の住民は、市の中心街にある鉄筋コンクリート4階建ての市庁舎の屋上目指し、慌てふためいて階段を駆け上がった。津波の水位は、市庁舎の最上階に達するほどだった。
トラックやバスがもんどり打って倒れた。基礎から引きはがされた住宅は海へと流され、中にいた人々は泣き叫んで助けを求めた。
自宅の方向を振り返ると、すべての家が押しつぶされようとしていた。木材がバラバラになるすさまじい音がしたという。
戸羽氏の息子の大河君(12)と奏人君(10)は高台にある学校におり、津波の難を逃れた。しかし妻はいつものように自宅にいた。
「みんなのことを無視して車で行くかな、と思ったが、でもそれもなかなかできない」と戸羽氏。市長として、職員を安全な場所に導く必要があると思っていた。「ちゃんと逃げればいいけどな、と思っていたが」。
ようやく水が引き始めると、町は壊れた車、砕け散った木材、ねじれた鋼材が散乱する廃墟と化していた。銀行はすべて押し流された。ガソリンスタンドも消失。食料品店も、病院もなくなっていた。
陸前高田市の人口の10分の1にあたる2,300人以上が死亡あるいは行方不明となった。
厳しい復興への道
震災からひと月、戸羽市長は、日本が史上最悪の自然災害からの復興を目指すなか、途方に暮れるほど困難で重い責務を担っている。
政府は、ただでさえ落ち込んでいた東北の太平洋沿岸をどうやって再建するか、あるいはそもそも再建すべきかどうかすら決めかねている。戸羽氏ら地方の政治家が下す決定は、被災地が今後、存続し繁栄を取り戻すことができるかどうかを決定づける。
港湾都市神戸を破壊した1995年の阪神・淡路大震災、東京周辺で10万人の死者が出た1923年の関東大震災 ――こうした地域は速やかに復興した。しかし、陸前高田をはじめとする今回の地震と津波の被害を受けた東北のリアス式海岸沿いの町々は、東京や神戸とはまったく異なる。
この地方は、震災のはるか前から長く苦しんでいた。若者の多くはよりよい暮らしを求めて地元を離れ、あとには、高齢者と斜陽産業が残されていた。悲観論者は、先細りしつつある市町村の再建に投資することの経済的意味を疑問視する。
ある土曜の午後、戸羽市長は、市の学校給食センターに設けられた仮庁舎の災害対策本部で、こんな状況の中、市長を務めるのはつらいと弱音を吐いた。また一からやり直さなければならないのだから、と。
ベージュのジャンバーに揃いのズボンという借り物の防災服に、リーボックの黒のスニーカーを履いた戸羽氏。残り少なくなったマールボロ・ウルトラライトを吸いつつ、首から下げた携帯電話で国や地方の当局者と話し込みながら、仮庁舎の外の舗道を行きつ戻りつしている姿をよく目撃されている。
戸羽氏のこれまでの成果 ― 陸前高田に残っている車両の一部をさらに数日走り続けさせられるだけの燃料の調達や、家を失ったまま市内に残っている1万人の避難民のための生活物資の確保 ― は、ある意味、前途に控える任務の途方もない大きさを浮き彫りにしている。
津波で妻が行方不明に
市長としての職務に没頭していても、久美さん、大河君、奏人君と過ごした日々を心の片隅から完全に消し去ることはできない。息子たちは戸羽氏の叔父に預けた。時間が許せば息子たちに会いにいくが、夜もたいてい、災害対策本部のデスク脇の布団で寝泊まりしている。
町の中心街にあった自宅は、震災直後にちらっと見たが、戻ることはできなかった。あまりそばまで近づけなかったため、まだ残っている骨組みの上に別の家の屋根が乗かってしまっていることぐらいしか確認できなかった。
戸羽氏の自宅を訪ねてみた。1階のクローゼットには泥をかぶったジャケットと数本のネクタイが下がっていた。床には写真が散乱し、その中には、グレースーツ姿の若き日の戸羽氏と久美さんの結婚式当日の写真もあった。泥まみれの別の写真には、青緑色の袖の白いTシャツを着た、肩までの長さの黒髪の久美さんが、息子の1人を両腕で包むようにして笑っていた。
戸羽氏は震災後の数週間、忙しさのあまり、遺体安置所まで足を運んでそこに久美さんがいるかどうか確かめることもできなかった。見つけてしまうのも怖かった。
3月末、戸羽氏は、夫として妻を捜しに行きたいが、復興活動を陣頭指揮する必要があるし陸前高田の多くの住民は自分と同じ境遇にある、と語った。
日本百景の松林も消失
陸前高田には1,000年前から人が住んでいた。背後に山を控えた平野に広がるこの町は、ホタテやウニ、東京のレストランで1個400~500円もするカキで有名だ。高田松原と呼ばれる砂浜沿いに延びる松林は、かつて国によって、日本百景の1つに指定された。
一方、ここには津波の歴史もある。1960年のチリ地震が引き起こした津波では、8人が死亡し、海岸付近の地域が水浸しになった。
しかし、3月11日の津波ほど内陸まで到達した津波はこれまでなかった。
大急ぎで住民に警報を出しにいった市職員らは波にさらわれた。市長の顧問の1人は高齢の女性をおぶって避難しようとしたが、おぶったままではとても逃げおおせないことを悟り、市庁舎の2階の階段踊り場に女性を置き去りにした。「ごめんね、おばあちゃん」と言い残して。その後、その女性の姿を見ることはなかった。
津波は、緊急避難場所に指定されていた中心街の市民体育館の壁を突き破り、避難していた数十人の住民ほぼ全員をのみ込んだ。
2人の消防士は消防署屋上の火の見やぐらにしがみついていた。ヘリが2人を救出し、暗くなる前に中心街のビルの屋上からも数人の生存者を無事救い出した。そこかしこで爆発するガスボンベが火柱を上げた。
午後7時ごろには雪が降り始めた。一部の被災者は木材の切れ端をかき集めてかがり火をたき、暖を取るとともに救援隊への目印にした。戸羽市長と残った市役所の職員らはラジオのまわりに集まり、ニュース速報に耳を傾けた。
余震は夜通し続き、濁った波が寄せては返した。戸羽市長は、庁舎全体が倒壊することを懸念していた。ただ夜明けが来るのを祈るばかりだったという。
夜明けから、市の職員は安否確認に乗り出した。これまでに約2万3000人の住民のうち、1100人の死亡が確認されている。1200人近くが依然行方不明で、絶望とみられている。体育館に設けられた仮遺体安置所にある数百の遺体は、まだ身元が分からない。
警察署長、2人の市議会議員、3人の学校幹部職員が津波にのみ込まれた。市職員も3分の1が亡くなった。
被災者の迷い
被災者の多くは、地元にとどまるべきかどうか考えあぐねている。建設作業員のストウ・アキラさん(55)は、冷たい海水の壁になぎ倒されたときのことが脳裏を離れないという。避難しようと、母親(82)と二人で自宅から飛び出したところを津波に襲われ、握っていた母親の手を放してしまった。
母親は、もうだめだ、とあえぎ声を上げたきり、津波にのまれたという。遺体はまだ回収されていない。
妻と2人の子どもとともに緊急避難所の学校体育館に滞在しているストウさんは、できれば地元に残りたいと語るが、実際、それが可能かどうか分からないという。
地場産業の柱さえ揺らいでいる。
陸前高田最大級の雇用主の1つだった酔仙酒造の今野靖彦社長(64)は、市の中心街にあった酒蔵を再建すべきかどうかまだ決めかねているという。津波は酒蔵に穴をうがち、緑色の巨大な金属製のタンクを5キロメートルも先に散乱していた。
今野社長は、この町生まれだが、ここで商売をしているのだから、町がこの被害から立ち直れるものかどうかを考えなければいけないと言う。周りに何もないところに酒蔵を建てたところで意味がない、と。
復興を急ぐ
戸羽市長は、地元にとどまるよう住民を説得することを自らの重要な仕事の1つととらえている。地元を引っ張る立場にある市民たちが地元を離れてしまわないうちに復興の進展ぶりを示すべく、国と県から十分な支援を引き出そうと考えている。
その再建に必要な人員を確保するため、今年定年を迎える市職員には退職を先延ばししてくれるよう、説得に努めてきた。
市はいままでより小さくなるかもしれないと市長は言う。しかし妻は行方不明だが、息子たちは健在なので、彼らが大きくなったときにまだ陸前高田があってほしいと願っていると語った。
息子たちの顔を見るにつけ、頑張るしかないと思うと戸羽氏はいう。これが自分の定めなのだと割り切って、やるべきことをただやるしかない、と語った。
市議から市長へ
18年前に陸前高田市にやって来たとき、こんなことになろうとは夢にも思っていなかった。
東京都下で生まれた戸羽氏は、28歳のときに海辺のこの町に移り住んだ。不況のため、東京でコンピューター・プログラマーとして生計を立てるのが難しくなったためだ。戸羽氏がこの地を選んだのは、そこが父親の生まれ故郷だったからだが、この土地の自然の美しさとのんびりした雰囲気がたちまち気に入ったという。
陸前高田にやって来てすぐ、戸羽氏は地元の鶏肉加工会社に就職した。そこで出会ったのが、沿岸の北寄りにある別の小都市出身の久美さんだった。
久美さんは7歳年下。黒い髪に上品な顔立ちで、年より若く見えたという。宝石店で二人がエンゲージリング選びをしているとき、店員が、娘さんのためのお買い物ですかと尋ねたことを戸羽氏はいまも覚えている。「いまでも20代くらいに見えていた」と戸羽氏は言った。
久美さんは、年代物の米国製ファイヤーキングのガラスのマグカップを集めていた。小物を作るのが好きで、携帯電話にぶら下げる型押し模様の入った革製の小物などを作っては、仲間とテントで販売したり、空いている店を借りて販売したりしていた。
政治家になるという夫の決断に久美さんは一度も異を唱えなかった。本心は嫌がっていたかもしれないが、「歳が離れていることもあるのか、わたしの言うことには逆らわないで何でも協力してくれた」と戸羽氏はいう。
政治家への転身は、実は戸羽氏本人の考えですらなかった。父親が政治に関わっており、十数年前、市議会選挙が間近になったとき、父親が戸羽氏の後援会組織を作ってしまった。ある日、戸羽氏が帰宅すると、「近所のおじちゃんとか、おばちゃんが150人くらいいて、拍手で迎えられて、何のことだか分からなかった」という。
10年ほど前に亡くなった父親は、当時戸羽氏に、やることはたいしてない、ポスターを何枚か貼るだけでいいと請け合った。しかし父親の知らぬ間に、息子はいつしか選挙運動を繰り広げ、大勢の人に向かって演説をしていた。
市議に当選するや、戸羽氏は、暇を見つけては近所を歩き回って住民の話を聞き、住民の要望に気を配った。
ほどなく戸羽氏は一介の市議でいる限り、できることは限られていると悟った。「議員になってから、いつかは村長でもなんでもいいから、自分の思いで、町づくりができる立場になりたいと思った」という。
その後、数年助役を務めたが、市長が病気で再出馬しないことを決めたため、市長選への出馬の意向を固めた。戸羽氏の決意を聞いた久美さんは、「うん、わかった」と言っただけだったという。
戸羽氏は市長選で、長年にわたる多額の財政支出に伴う市の負債の縮小を訴えた。戸羽氏の夢は、日本の富裕な高齢者層を呼び寄せ、陸前高田の浜辺を人気のリゾート・保養地にすることだった。
今年2月市長に当選した後、戸羽氏は、市の予算編成と、地元の要人への表敬訪問に取りかかった。妻と一緒に過ごす時間があまりなくなるのは分かっていたが、そうした時間はいずれまたできるだろうと思っていた。
市長としての覚悟
市長として取り組もうと思っていた課題は、震災の発生で棚上げになった。震災直後の数日、戸羽氏は努めて平静を保とうとした。妻の消息は不明だったが、破壊の規模 ―そして、がれきの下敷きになった何百人もの行方不明者 ― を思えば、妻のことを考えている余裕はなかった。
自宅は大量のがれきに行く手を阻まれて近づくことができなかった。政府の捜索・救助部隊が一帯の捜索にあたっていた。
電気もなければ、救援物資もほとんどなかった。深刻に助けが必要な住民が何千人もいる。市長は自分にできることに集中することにした。被災者の救援だ。
仲間に頼み込んで、できるだけたくさんおにぎりを作って被災者に配った。より多くの救援物資が届くよう、道路復旧を自衛隊に要請した。だが数週間後に振り返ったとき、記憶がおぼろげで何をしていたのか思い出せない部分が多かったという。
震災の1週間後、食料と水が定期的に到着し始め、自衛隊が入って救援活動を開始した。しかし、歯ブラシや紙おむつといった必需品の不足はまだ続いていた。
震災の1週間後に戸羽市長は、市の漁業の復興や、その他の再建活動についてはまだまだ先の話だと話した。最も切実なのは、ガソリンと高齢者に十分な医薬品を確保することだった。
支援拡大の必要性を政府関係者に納得させるため、市長は国会議員を招き、市の緊急避難所の1つで一夜を過ごして欲しいと頼んだ。国の救援活動の遅さを知ってもらいたかったのだ。震災から3週間後の首相の陸前高田視察について尋ねられた戸羽氏は、ようやく、と言った。
日がたつにつれ、日々の定例業務が定まってきた。毎日午後には、沈痛な面持ちで記者発表を行い、新たに遺体が発見された犠牲者を加えたリストを配布する。妻のことや子どもたちのことを考える時間はあまりなかった。ただ、息子たちとはときどき電話で話をした。
生き残った市職員らは、コンピューターをかき集め、学校給食センターの災害対策本部で仕事をしていた。消防と警察のための仮詰所が駐車場を挟んだ向かいに設けられた。水道がないため、裏手に溝式トイレが掘られた。
仮設住宅が市民を引き留める
戸羽市長は電話を総動員して県当局者に連絡をとり、仮設住宅の建設開始を強く求めた。これは市民の流出を防ぐのに不可欠の措置だった。菅首相が戸羽市長に、住民を被害の少ない内陸の都市に一時移してはどうかと伝えたが、戸羽氏は断った。
地域のきずながとても強い土地柄なので、住民をばらばらに避難させることはできない、と戸羽氏はいう。
3月26日、仮設住宅の建設がようやく始まった。同市の仮設住宅建設着手は被災した自治体中でもっとも早かった。屋内配管・暖房付きのプレハブアパート36戸が大勢の建設作業員によって緊急避難所となっている中学校のグラウンドに急ピッチで建てられた。入居者の抽選には1000人以上が応募した。
戸羽氏は、ほかにもいくつかの小さな成果を収めた。地元の衣料品メーカーの経営者に掛け合って、緊急避難所で暮らす女性が切実に必要としている女性用下着の寄付を受けた。
復興事業の財源はどうなる
緊急支援という喫緊の任務にめどがつき始めるにつれ、陸前高田市が直面する課題の大きさがいやが上にも明らかになってきた。
橋、道路、鉄道は、黒い津波によって破壊された。送電網はすっかり流された。10年前に百数十億円で建設された廃水処理施設は跡形もなく消え去った。かつて市を守っていた巨大で高価な防波堤は崩壊した。市内の低海抜地区を守るためには、まず防波堤から作り直す必要がありそうだ。
市役所に保管されていた市の文書はほぼ全滅した。契約書、青写真、近年の市税支払い記録はすべて津波にさらわれた。市職員は、破損状況を評価して市内の道路や橋の被害の見積もりや修理には、観光パンフレットから破りとった地図に頼らなければならない。
市庁舎、消防署、体育館など市が所有するいくつかの建物は倒壊を免れたが、損傷がひどいため、解体しなければならない。戸羽市長は解体のための財源確保に頭を絞っている。市が自腹を切らなければならないなら、新しい施設を建てるための資金は一銭も残らないだろうという。
陸前高田市の人口は、1970年からすでにじりじり減りつつあり、しかも、65歳以上が人口に占める比率は、全国平均が約20%に対し、陸前高田市では3分の1となっている。これまでの観光客誘致プロジェクトへの支出によって膨らんだ負債のため、再建計画の予算は限られる。そうしたプロジェクトの1つだった「海と貝のミュージアム」は、津波に押しつぶされた。
市当局は、被害総額の算定にまだ着手していない。政府が再建費用を支払う公算が大きいとみられるものの、出資の時期や額はまだ皆目見当が付かない。
再建には創意工夫が必要になる。ある土曜の午後、戸羽氏は薄くなった髪を手ぐしで整えながら、疲れきった表情で、何か思い切ったことをする必要があると語る。
1つの案は、中心街を取り囲む山々の1つの頂上をブルドーザーで整地して高台の住宅地を増やした上で、余った土を使って市の中心部の海抜を20メートル高くするというものだ。しかし、その費用は果たしてどこから出るのか。
陸前高田振興のために戸羽氏がこれまで抱いていたアイデア、すなわち観光は、もはや見込み薄に思える。陸前高田の白い砂浜を観光名所にしていた何万本もの松は、津波によってなぎ倒され、いまでは、わずか1本を残すのみだ。
住民を地元にとどまらせようと努めていた戸羽氏は、何人かの援軍を見つけた。1人は、東京でコンピューター・システム・エンジニアとして働くため、何年も前に町を出た佐々木高志さん(35)だ。同世代のほとんどは都会に出たきりだが、佐々木さんは昨年、里帰りを決め、父親の経営する家業の印刷所を手伝うことにした。
3月11日、佐々木さんは、津波のライブ映像をインターネットに流そうと、デジタルカメラで撮影を行っていた。だが津波の規模を目の当たりにして、父親とともに市庁舎に駆け込んだ。2人は市庁舎の上階で、市長とともに一夜を明かした。
佐々木さんの母親、おば、祖母は津波で亡くなった。何日も捜し回ったにもかかわらず、自宅や家業の印刷所の痕跡を何一つ発見できなかったという。
すべてを失ったにもかかわらず、佐々木さんは陸前高田にとどまる決意だという。町に残って再建に取り組みたいと語る。
津波からひと月、戸羽市長の努力は明らかに実を結び、ますます多くの市民が市長にならい、粉々に打ち砕かれた生活を元に戻そうとしている。先週、市は、日本のほとんどの地域社会に必ず1つはある交番を震災後初めて再開した。
その近くでは、岩手銀行がプレハブの建物で臨時出張所を開設し、平日4時間、営業している。角を曲がった先には陸前高田商工会が地元企業を支援すべく事務所を開設している。市の仮設住宅に当選した幸運な少数の住民は入居を始めた。
しかし市内の低海抜地域では、膨大な作業がまだ残っている。がれきの山が脇へ寄せられ、車と土木機械の通り道が作られた。しかし、陸前高田の大部分はまだ、巨大なごみ埋立地さながらだ。
4月5日、戸羽市長は、警察からの電話を受けた。前日が39回目の誕生日だった妻の久美さんに似た遺体が安置所で見つかったという。遺体が発見されたのは、自宅から数百メートルほど坂を上った場所だった。
戸羽氏はその後も公務を離れられず、数時間後、ようやく遺体安置所へと足を運んだ。遺体はひどく損傷していたが、久美さんに間違いなかった。
息子たちに何と伝えたものかいろいろ考えたが、時間がたって痛んだ遺体を2人には見せたくないと思った。母親のことをそんな姿で記憶に刻んでほしくなかった。「友達みたいにしていたから」と戸羽氏はいう。「わたしが忙しい分、いつもお母さんと一緒にいた子供たちなので、できればきれいなままのお母さんの印象でいてもらいたい」
遺体の前で、捜しに来なかったことを何度も妻にわびた。市長としての責任があって捜しに来れなかったのだと。
自分に言い聞かせながらも、釈然としなかった。「そういうのが人としてどうなのか」。そう思わずにはいられなかった。
政府、余震や津波からの福島第1原発の安全確保に一段の焦点
政府当局者は強い余震や津波に対する福島第1原子力発電所の安全確保にますます焦点を絞っている。ここ1週間以内の2つの大きな余震により原発で生じた問題のために、さらなる大災害への備えが不十分な現状が浮き彫りになった。
経済産業省の原子力安全・保安院は12日、福島第1原子力発電所の事故の評価を、国際基準に従って最悪の「レベル7」に引き上げることを決めた。レベル7は、1986年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故の評価と同レベル。
福島県で12日、ここ数日間で2回目となる大きな地震が発生し、福島第1原発が直面する潜在的な脅威があらためて喚起された。マグニチュード6.3と推定されるこの日の地震では津波は発生せず、東北地方の原発にはいずれも損傷などの被害は生じなかった。3月11日には東日本大震災に伴う津波が福島第1原発での被害の大半の主因だった。
福島第1原発での制御不能な核反応のリスクは現時点では可能性は高くないが、政府当局者は福島第1原発の損傷の激しい原子炉の安全確保に一層焦点を絞り始めている。3月11日の東日本大震災以来、福島第1原発の各原子炉は停止されているが、燃料棒は破損し溶解しており、温度の再上昇と原子炉の損傷拡大を回避するために冷却の継続が必要となっている。
菅直人首相事務所の当局者の一人は、現在直面する最大の脅威が余震と津波であることは疑いの余地がないとの見方を示した。
同当局者は、目の前の差し迫った脅威は以前は原発での大爆発を回避することだったと言及。しかしその後、状況が幾分安定化し、われわれの評価では現在、最大の脅威は余震と津波だとの見方を示した。
3月11日に観測したマグニチュード(M)9.0の地震以来、M6.0以上の地震発生件数は61回に達した。
今月11日午後に福島県や茨城県で発生したマグニチュード7.1と推定される地震では、福島第1原子力発電所1~3号機の原子炉への注水作業が約50分間停止した。また、今月7日夜に発生したM7.1の地震では東北地方の大半の火力発電所が停止するとともに、他の3つの原発への電力供給が最大10時間にわたって中断された。
経済産業省原子力安全・保安院の西山英彦審議官は、今後の津波の脅威から福島第1原発の安全が完全に確保されているわけではないとの認識を示している。
西山審議官は12日の記者会見で、3月11日の大災害を繰り返さないことが政府の最優先事項だと明言した。
同審議官は、政府が先月30日に国内の電力各社に対し、それぞれが運営する原発で外部電力が失われた場合でも運転を継続できることを確実にするよう指示した、と明らかにした。その上で、原発の事業会社は月末までに一層包括的なバックアップ電源システムを整える見込みだと語った。
非情な選択迫られる被災地職員
4月11日2時46分、東日本大震災からちょうど1カ月が経過した。だが、大規模な余震は依然続いている。東北沿岸部各地で黙とうがささげられ、過去1カ月の復興の進捗や依然目の前に立ちはだかる難題について被災者が思いをはせるなか、さまざまな思いを抱えたまま再建を指揮している人たちがいる。
岩手県陸前高田市では、家族と自らを選出してくれた市民のいずれを優先すべきかで苦しむ戸羽太市長はじめ、多くの市職員が困難な状況のなかで過酷な選択を余儀なくされている。
その一人が、同市や市長に関する報道機関からの相次ぐ問い合わせに対処する村上知幸さん(40)だ。陸前高田市職員の村上さんは、広報担当としてほぼ毎日臨時庁舎の外に立ち、しつこい報道陣に我慢強く、丁寧に対応している。
村上さんは、尋ねられれば津波で流された建物が以前建っていた場所を地図上で指し示したり、津波が町を飲み込んでいく様子を市長や他の職員と見つめていた市庁舎屋上の詳細な図を描いたりしてくれる。だが、その笑顔と明るい態度の裏にはつらい心の内が隠されている。
村上さんの母親と祖母、そして6歳の息子の祐太君は震災で亡くなった。祐太君の遺体はまだ見つかっていない。分かっているのは、地震の直後、村上さんの母親が祐太君を保育園に迎えに行ったということだけだ。二人の姿が目撃されたのはそれが最後。彼らが荷物を取りにいったん自宅に戻ったのか、あるいは車で津波から逃げる途中で立ち往生してしまったのか村上さんには分からない。
村上さんは先週6日、よく晴れた暖かい春の気候の中、折りたたみ式のイスの背もたれによりかかり、太陽の日差しを浴びるように空を見上げ、深いため息をついた。今日は本当なら祐太の入学式で、いい天気だねと言っていたに違いない、と村上さんはつぶやいた。
母や祖母は長生きしたが、祐太はたった6歳だった、と村上さんは言った。その後、誰に言うでもなく、「たった6歳だった」という言葉を繰り返した。村上さんは携帯電話の画面に写った祐太君の写真を見つめていた。祐太君は、ウルトラマンの仮面をかぶり、片方のヒザをついてポーズを取っていた。祐太がウルトラマンになって戻ってきてくれたらいいのにと思う、と村上さんは言った。
それに比べれば新築の自宅が津波で流されてしまったことさえも、村上さんにとってはどうでもいいことに思える。村上さん一家は震災の約3カ月前に海岸から1キロメート余りの場所にある新居に引っ越したばかりだった。
3月11日に地震が襲ったとき、村上さんは揺れが弱まり始めるとともに、市庁舎から出て、通りに様子を見に行った。村上さんが市庁舎の2階で災害対策本部の立ち上げ準備を始めていたとき、津波警報が聞こえた。村上さんは、津波が防波堤を越えて流れ込んでくるとは夢にも思わず、たとえそうなっても、町までの距離は十分あると考えていたという。
最悪でも、市庁舎が多少浸水する程度だと思ったという。だが、防波堤を乗り越えるとともに津波は勢いを増し、がれきを飲み込みながら市庁舎に向かってきた。村上さんは、通りにいた住民に避難を呼び掛けた。自身も避難しようとしたとき、おばあさんがよろよろと歩いているのが見えたため、背負って歩き始めた。
その時点で津波は市庁舎の1階まで流れ込み始めていた。さらに多くの波が流れ込むなか、村上さんはおばあさんを背負って階段を上っていった。だが、波は急速に迫っており、村上さんは階段を駆け上らなければ間に合わないと判断した。
おばあさんをそこで下ろすしかなかった、と村上さんは言った。ごめんね、おばあちゃん、とだけ言い残したという。村上さんに、おばあさんは亡くなったと思うかと尋ねると、生き延びられたとは思えない、恐らくそれが自分の性格の弱さだと言った。
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