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●27-①対策として、文章題の実践問題を作成してみました。10回程度連載する予定です。ご感想やご意見もぜひお寄せください。
●文章題の回答訓練にお役立てください・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
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●鴎外歴史文学全集 第10巻&第11巻 「北条霞亭」(上・下)より。
●北条 霞亭(ほうじょう かてい):安永9年9月5日(1780年10月2日~文政6年8月17日)。江戸時代の漢学者。志摩的矢出身。
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<文章題その2>
●「・・・わたくしは霞亭のいかなる家庭に
キクイク(鞠 育)せられたかを知らむがために、此に墓表中より適斎(*霞亭の父)の人となりを抄する。
●「先生の
為人(ひととなり)は気宇爽朗、人の一善を聞けば
大賚(たいらい)を享けるが若し。 一不善を聞けば、失ふ所有るが若し。或いは古人の書伝を読み、前言往蹟を談じては、忠良に
カンシン(甘 心)し、姦佞に切歯し、
宛(あたか)も吾が眼前の事の如く、慨然として歎詑(タンダ)して措かず。性、酒を嗜むも、但だ独り飲むを喜ばず。日夕に客を
邀(む か)へて対酌するを、
率(おおむ)ね以て常と為す。其の飲量、人に過ぎ、老いて衰へず。・・・霞亭の父は
ヨウジン(庸 人)ではなかつたらしい。
わたくしは又墓表に拠つて、適斎の医にして儒であつたことを証することが出来る。「里中の弟子の嘗て字を問ひ書を学ぶ者は凡そ七十余人。」適斎は
リョリ(閭 里)にあつて人の師となつていたのである。適斎は後年其子霞亭をして
キソク(驥 足)を伸べしめむがために廃嫡した。・・・」
(注)大賚=大きな賜りもの
●「わたくしは初め霞亭南帰の年を以て、・・・文化庚午(七年)となし、次で・・・己巳(六年)となし、後には更に泝 つて戊辰(五年)に至った。わたくしは下の如くに思量した。・・・
剰(あ ま)す所は只五年戊辰あるのみである。是がわたくしの霞亭南帰の年を求めて戊辰に溯った最初の論証である。・・・しかし此等の証拠は皆未だわたくしの心を
エンヨ(厭 飫)せしむるに足らなかつた。わたくしの想像は霞亭の南帰を思ふ毎に戊辰己巳の間に彷徨していた。 (注)エンヨ=十分に満足すること。
以上わたくしは此問題の時間方面を語った。しかし問題は
啻(た だ)に時間方面にのみ存するのではない。・・・年月が既に数へ難く、旅程も又尋ね難い。わたくしはとつおいつして
輒(すなわ)ち筆を下すことを得なかつた。
・・・此時に方つて・・・。わたくしはこれを読みもて行くうちに、聞見詩文中に霞亭の「祭菊池孺人詩並引」を得た。そして此一篇が料らずも上の問題の時間空間両方面を併せて、一斉に解決の緒に就かしめた。霞亭が戊辰(五年)の歳に的矢に帰ったことは、此に由つて
略(ほ ぼ)スイキュウ(推 窮)することが出来る。霞亭が越後より江戸を経ずして的矢に帰り、然る後に伊勢に往ったことは、此に由つて明確に証することが出来る。」
<コメント>字は簡単ですが、「カンシン」が出てくるかどうか・・・しっかりと広辞苑にもありました。「エンヨ」は漢字は難しいですが、却って、こういう問題のほうが連想しやすいかも(「エンブンヨチョウ」の四字熟語から閃けば上出来ですね)。「スイキュウ」は原文では回答のとおりですが、「推究」のほうが現代的で一般的かもしれません。
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