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●27-①対策として、森鴎外「北条霞亭」につづき、「伊沢蘭軒」で、文章題の実践問題を作成してみました。これも10回程度連載する予定です。ご感想やご意見もぜひお寄せください。
●文章題の回答訓練にお役立てください・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
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●鴎外歴史文学全集 第6巻~第8巻 「伊沢蘭軒」(史伝:蘭軒とその二子の生涯を細叙)より。
●伊沢 蘭軒(1777年~1829年) 江戸時代末期の医師・儒学者。備後福山藩医の子として江戸の本郷に生まれた。儒学・医学・本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山や学者の頼山陽・作家の大田南畝・書家の亀田鵬斎・考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。
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<文章題その15>
(その十九)
寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲が
イフ(姨 夫) 春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽が淹留期の後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。
此年九月
朔(ついたち) に吉田篁●(コウトン)が歿した。其の
ネンシ(年 歯) には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるに
遑(いとま) がなかつた。わたくしが篁●の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上蘭台の門に井上金峨を出し、金峨の門に此篁●を出した。蘭軒は
シショウ(師 承) の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田鵬斎の如く、篁●と偕に金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と
ケイガイ(傾 蓋) 故(ふ る)き が如くであつた人もある。わたくしの今これに言及する所以である。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁●は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。・・・(注)イフ:原文注では「妻の姉妹の夫」となっている。通常は「母方の姉妹の夫」の意。「篁●(コウトン)」人名。「トン」の字が反映しないので、「●」で代替表示しています。
(その二十)
・・・寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎に曾て山陽を
舎(や ど) したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば
ゲキリョ(逆 旅) の主人が
カカク(過 客) 中の貴人を数ふるが如くである。これは
晦(か く)れたる蘭軒の裔が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。 (注)ダアト:日付け(仏語)
これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て
セイシン(成 心) としてこれを斥ける。わたくしの目中の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである。・・・(注)セイシン:原文注では「他によらない自分自身の内にある考え(荘子・斉物論)」。広辞苑では「①前もってこうだと決めてかかっている心。先入観。②心中にもくろむところのある心。したごころ。」。
(その二十二)
蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。・・・次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしは姑く此詩中に云ふ所を此年の下に繋ける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、数試春衣二月天は七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは
サンビ(酸 鼻) に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其
コシツ(痼 疾) に悩まされてゐたのである。此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将斉朝の市谷門外の上屋敷が其
エキサク(易 簀) の所であらう。・・・
・・・享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四人は余常(よ、つねに)、
ジョジ(汝 爾) 之交を為す友也。・・・」・・・
<コメント>「イフ」は(注)があってなんとかというレベルか・・・こんな言葉、知らなかった。「ジョジの交」・・・通常覚えている熟語の並びが反対になっている言葉・・・良く漢検でもこういうの、出されますよね。あわてず、こういう語句は逆読みして軽く発想転換してみるクセをつけておくと良いかも。
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