日本漢字能力検定(漢検) ブログランキングへ
●27-①対策として、森鴎外「北条霞亭」につづき、「伊沢蘭軒」で、文章題の実践問題を作成してみました。これも10回程度連載する予定です。ご感想やご意見もぜひお寄せください。
●文章題の回答訓練にお役立てください・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●鴎外歴史文学全集 第6巻~第8巻 「伊沢蘭軒」(史伝:蘭軒とその二子の生涯を細叙)より。
●伊沢 蘭軒(1777年~1829年) 江戸時代末期の医師・儒学者。備後福山藩医の子として江戸の本郷に生まれた。儒学・医学・本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山や学者の頼山陽・作家の大田南畝・書家の亀田鵬斎・考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<文章題その19>
(その百十五)
・・・わたくしは此に今一つ言つて置きたい事がある。それは八瀬小原の狂歌がわたくしに 斎の相貌を教へたことである。此歌より推せば、 斎は一箇の
ハン( 胖 ) 大漢で
ベンベン(便 々) たる腹を有してゐたらしい。しかし三村清三郎さんは 斎が美丈夫であつたと云ふことを聞き伝へてゐるさうである。然らば所謂かつぷくの好い立派な男であつたのだらう・・・(注)ハン大漢:太って恰幅の良い男。ベンベンたる腹:肥満して突き出た腹。広辞苑所載。
(その百三十四)
・・・春夏の交に阿部侯正精は病気届をしたかとおもはれる。次の年の蘭軒の詩引に、「客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職」云云と云つてあるからである。正精は文化元年に奏者番にせられ、三年に寺社奉行を兼ね、十四年に老中に列した。渡辺修二郎さんはかう云つてゐる。「正精閣老たること殆ど七年、公正廉潔を以て聞ゆ。時に同僚水野忠成
クンチョウ(君 寵) を得、権威を振ひ、専ら事を用ゐ、
セイタク(請 託) 公行す。正精忠成が行ふ所を見てこれを是とせず、意見相
協(か な) はず、因て病と称して職を辞す。」忠成は沼津の城主水野出羽守である。正精は病と称したとは云つてあるが、事実上にも身体に多少の
イレイ(違 例) があつたことは、下に記す如くである。正精の
カイジュ(解 綬) は冬の初に至つて纔かに裁可せられた。
八月朔の蘭軒が覚書に阿部侯の病の事が記してある。「八月朔日、殿様御不快中拝診被仰付候に付、爰元御門並丸山表御門刻限過出入共定御移被下候様、岡西玄亭を以及御達候処、勝手次第と被仰聞候。」
爰元(ここもと) は西丸下の老中屋敷、丸山は中屋敷である。尋で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の
イレイ(違 例) は甚だ重くはなかつたと見える。・・・(注)セイタク公行:権力者に私事を頼み込み、賄賂などが公然とやり取りされること。(この熟語も含め、この項の熟語は、すべて広辞苑所載。)
(その百四十二)
・・・壮遊の興は此に至つて未だ尽きなかつた。わたくしは凹巷の詩に就いて、二人の
アイコン(鞋 痕) を印した道を
ツイジン(追 尋) することとする。詩にはかう云つてある。・・・
・・・二人は北上川に沿うて北し、文治の故蹟を高館に訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川を隔てて琵琶の柵の址を尋ね、一の関に至つて方に纔かに踵を
回(め ぐ) らした。琵琶の柵は泉の城の別名である。・・・
(注)アイコン:通ったあと。足跡。
(その百四十四)
・・・霞亭は文化七年三月六日に、伊賀の広岡の家を訪うた。そしてこれは郷里的屋に帰つて若干日を経た後であつた。上に略した文に、「数歳にして郷に帰り、爾来、簡牘の往来、
ヒヒ(比 々) として絶えず、先生数予が命駕を促す。予も亦
チョボウ(佇 望) 已に久し」と云つてある。霞亭は七年の春早く的屋に帰つたかとおもはれる。・・・(注)ヒヒ:頻繁なさま。
(その百四十六)
・・・その林崎を去つた時は文化八年二月である。樵歌に「辛未二月 予 将に峨阜に
ボッキョ(卜 居) せんとす、社友諸君に留別す」の詩がある。霞亭は林崎にあつて恒心社を結んでゐた。社友とは此恒心社の同人を謂ふ。・・・
・・・移居当時の事は、樵歌に「予 峨阜に
ボッキョ(卜 居) す、宇清蔚、
偕(と も) に来りて事を助く、
適(たまたま) 、井達夫、都に在り、亦た来訪し、留宿すること三日、二月
ネンイチニチ(念一日) 、修営
粗(ほ ぼ) 了わる」と云つてある。想ふに早く二月中旬の某日に行李を卸して、二十一日に屋舎を修繕し畢つたのであらう・・・
(注)峨阜(ガフ)=嵯峨の丘陵のこと。ネンイチニチ:二十一日。(ネン:日数をあらわすとき、「廿」の字の代わりに用いるー広辞苑ー)
<コメント>「ハン大漢」の「ハン」の字が「シンコウタイハン」とかの四字熟語などから連想できたら占めたものです。「ヒヒ」と「ベンベン」の畳語がもしかしたらやや難でしょうか・・・。「ネン」は知らなくても当てずっぽうでも出来そう・・・。
👋👋👋 🐑 👋👋👋