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●27-①対策としての文章題、森鴎外「伊沢蘭軒」も今回で終了です。少しでも文章題訓練のお役にたてたとすれば幸いです。
●文章題の回答訓練のポイント・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
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●鴎外歴史文学全集 第6巻~第8巻 「伊沢蘭軒」(史伝:蘭軒とその二子の生涯を細叙)より。
●伊沢 蘭軒(1777年~1829年) 江戸時代末期の医師・儒学者。備後福山藩医の子として江戸の本郷に生まれた。儒学・医学・本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山や学者の頼山陽・作家の大田南畝・書家の亀田鵬斎・考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。
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<文章題その23>
(その二百三十九)
・・・わたくしは京水本系図の来歴より
泝(さかのぼ)って水津本系図の来歴に及び、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女の手にわたつたことを言つた。
・・・ 京水は水津本を重視し、これを
藉( か )り来つて錦橋本の愆り を
繩(た だ)さうとした。水津本は記載素樸にして
キョウショク(矯 飾) の痕が無い。京水の重視したのも尤もである。しかし水津本と雖も、多少の疑ふべき所がないでもない。池田氏は信重より霧渓晋若くは京水に至るまでが六世、水津氏の信重の兄信武より斎藤平蔵に至るまでも亦六世である。然るに後者の水津官蔵に至るまでは九世である。今その各世の寿命の
シュウタン(脩 短) を細検せむとするに、歿年及年歯の記註不完全なるがために能はない。しかしわたくしは強ひて深く此等世系の問題に立ち入ることを欲せぬのである。・・・
わたくしは最後に水津官蔵の女の薄命と、その京水との奇遇を一顧して置きたい。京水の文に由つて、
キリョ(羈 旅) の女の語つた所を窺ふに、女の父官蔵が早く既に
センメイ(舛 命) の苦を閲し尽したらしい。そして其女に至つては実に言ふに忍びざる悲惨の境に沈淪したのである。・・・わたくしの京水自筆の巻物中より得た資料は概ね此に尽きた。わたくしは最後に此に附載するに黄檗山の錦橋が碑の事を以てしたい。・・・(注)キリョ:流浪の身にあること(原文注)。センメイの苦:境涯がままならないこと・「セン」は、そむくの意。(原文注)
(その二百五十四)
・・・阿部家では榛軒を目附格に進め、禄卅石を加増した。従来百二十石であつたので、此より百五十石になつた。医官に禄を与ふることが多きに過ぎて、其技術の低下を見るは、当時武家の
ツウカン(通 患) であつた。それゆゑ阿部家の如きは特に医官の禄を微にしてゐた。榛軒の百五十石は最高の給額であつたさうである。
因(ちなみ) に云ふ。岡西玄亭の家は百石、森枳園の家は三十人扶持であつた。 榛軒は既に目見医師の班に加はつたので、登城することとなつた。其供廻の費は阿部家が供給したさうである。・・・(注)ツウカン:共通の悩みの種(原文注)。広辞苑もほぼ同義。
(その二百七十二)
・・・曾能子刀自は二人の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた。交代時刻は辰の刻であつた。然るに枳園は来なかつた。榛軒は退出することを得ずに、午餐を喫した。枳園は申の刻に至つて纔かに至り、深く
ケイカン(稽 緩) の罪を謝した。
榛軒は帰途に上つて、始めて此日徳川将軍の「お成(なり)」のために交通を遮断せられたことを聞き知つた。枳園は罪を謝するに当つて、絶えてこれを口に
上(の ぼ) せなかつた。・・・(注)ケイカン:遅刻(原文注)。(とどこおってぐずぐずすること。)
<コメント>「ケイカン」・・・ヒントつきなのでなんとかなった人もいるかも・・・。その人はハイレベルです、たぶん(^^;)今回で、一応、文章題訓練は終了させていただきます。お付き合いいただいた方はお疲れ様でした。ありがとうございました。お互い、さらに精進していきましょう。
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