人間が仏になるための修行として白隠禅師は『坐禅和讃』で「夫れ摩訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり。 布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、その品多き諸善行、皆なこの中に帰するなり。」と、修行の根本は坐禅であると言っています。
もともと坐禅はインド発祥で、紀元前2800年から1800年あたりまで栄えたインダス文明の遺跡で、坐禅をしている男の像が発見されています。どうもそれはヨガをしているシバ神らしい。ということは、4000年以上も前からヨガ、その発展形の座禅が修行として実践されていたことになります。報国寺の座禅の指導者の方は、長い歴史が坐禅の良さを証明しているのだとおしゃっていました。たぶん間違いないでしょう。
さてその坐禅ですが、「調身(身体を調える)」「調息(呼吸を調える)」「調心(心を調える)」の三つから成り立っています。まず調身は坐り方ですね。基本は結跏趺坐。もっとも体が安定する坐り方です。次の調息は呼吸法。臍の下あたりの「気海丹田」と呼ばれる肚の底から、息を吐き出し、鼻から自然に息を吸い込む。これをゆっくり、ゆったり行うのですが、素人には意外と難しい。最後は調心ですが、この心の定義が分かったようで分かりません。禅語にも「心不可得(心は身体のどこを探しても、ありはしない)」という言葉がありますが、ありもしないものを調えるのは無理な話で、この調心がもっとも難しいと思いました。
この三つが調えれば禅定するわけです。なお坐り続けていると、自分の体が崩れているのではないかと気になり、意識してもとに戻そうとします。すると「動くな!」と一喝されました。「動く」ということは、脳から末端神経に電気信号による指令が出されることですから、それは良くないということのようです。報国寺では自ら警策を求めるのも良しとしないようです。
どうも正しく坐禅するということは、脳から発せられる電気信号をOFFにして、その状態を継続すること。たとえばコップのなかの濁り水も時間が経てば泥が沈殿して澄んでくると同じで、心身の安定した状態を長く保つことのようです。む、む、無・・・ですか?