いま歴史書でベストセラーになっている中公新書の『応仁の乱』(呉座勇一著)を読みました。帯に「なんと35万部を突破!!」とあります。読んでみると内容が深く専門性の高い本です。歴史好きの人は多いにしても35万人という数字は凄いです。京都では先の戦乱と言えばこの応仁の乱(1467~1477)のことと言われていますが、個人的にはほとんど興味なくこの歳まで生きてきました。
さて前置きはともかく、7月のガイド先は大船にある玉縄城祉ですが、この城跡とかかわりある伊勢宗瑞(北条早雲)という人物は応仁の乱の戦乱を生き抜き、この後100年ほど続く後北条家の礎を築きました。調べてみるとなかなかの人物です。家柄も室町幕府8代将軍足利義政の側近だった伊勢貞親の一族であり、父親の盛定も申次衆の一人だったと言われています。一介の素浪人から成り上がったというより、近年ではこの説が有力になっています。
この玉縄城祉。以前から砦としてあったようですが、あの上杉謙信をして「当国無双の名城なり」と言わしめ、伊勢宗瑞にはじまり、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝の6代城主が支配した100年近く間に一度も落ちることの無かった難攻不落の名城です。今は城の本丸跡に学校があり、周りは住宅地でマンションも建ち想像するのは難しいですが、諏訪檀とか太鼓櫓、七曲坂などがあった場所で往時の偲ぶことが出来ます。
応仁の乱が終わり、世の中は新秩序を求め、混沌とした時代となります。諸大名が覇を競う戦国時代となり、徳川家康が幕府を築くまでの130年間に鎌倉幕府から続いた中世の旧秩序が徹底的に破壊されました。その間、100年近くも続いた後北条家の基礎をつくった伊勢宗瑞の先見性とその手腕の一部を玉縄城にみることができます。
写真は七曲坂下から玉縄城址の諏訪檀を写したもの。