このところ御霊神社の取材が続いていますが、ようやく村岡五ヶ村の総鎮守である宮前の御霊神社の参拝を果たしました。南向きに社殿があると思い、宮前の神戸製鋼所そばの小高い丘をを目指して行ったのですが、なかなか見つかりませんでした。ぐるっとまわり、丘の西側、西向きに建った御霊神社はありました。
御祭神は崇道天皇(光仁天皇第二皇子早良親王)、権五郎景政、葛原(かずらわら)親王、高見王、高望王の五柱ですが、平(村岡)良文 が京都の御霊社の崇道天皇を勧請したのが始めです。そのあと鎌倉権五郎景政が合祀され、北条時頼の時代に桓武天皇の子、孫、ひ孫の三親王も合祀されたとあります。京都の御霊宮(上御霊神社)は桓武天皇の時代、延暦13年(795年)に早良親王の怨霊を鎮めるために建てられました。
桓武天皇の子孫である平(村岡)良文が一族の繁栄を願うために御霊宮を勧請し、時代が下って勇猛な武将である鎌倉権五郎景政が合祀されました。その後、村岡氏が支配した五ヶ村13社に分社され、平安時代から現代に至るまで1000年近く、村の鎮守様として人々に崇敬されてきた訳です。
日本全国、村の鎮守様はどこにでもあり、必ず年1回の例祭が行われ、正月には初詣で老若男女が着飾って出かけます。なぜ廃れずに続くのか、これは1年間、災いが降りかからなかった無事をお礼し、新しい年も無事に過ごせるようにお願いする。やらないことで災いが降りかかるかもしれないリスクを避けたい訳で、まさに日本人のDNAに怨霊の怖さが刷り込まれているに違いないと思います。よく分りませんが、これは信仰や宗教とは別物でしょうね。