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『吾妻鏡』承元四年(1210)10月15日の条に、聖徳太子の十七条の憲法、ならびに守屋(物部)逆臣の跡の收公田の員数・在所、および天王寺・法隆寺に納め置かるところの重宝等の記、将軍家(源実朝)日来お尋ねあり。広元朝臣相触れてこれを尋ね、今日進覧すと云々。また同月廿二日の条には、御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。眞智坊法橋隆導師たり。この事日来の御願と云々。
このように源実朝は聖徳太子を研究し、政治に活かせようとした様子が垣間見えます。実朝の側に仕えた北条泰時も当然の如く聖徳太子の政治を学んだと思われます。十七条憲法も知っていたでしょう。それが20年以上経たのちに「御成敗式目」に活かされるとは、その時、誰も想像できなかったと思われます。最初の御成敗式目は51条で十七条憲法の3倍の条数をもっていました。泰時は意図してそうしたのではないかと、以前読んだ本に書いてあったような気がします。
さて写真は聖徳太子ゆかりの法隆寺の中門です。昭和47年(1972)に発行された『隠された十字架ー法隆寺論ー』(梅原 猛著 新潮社)にその中門のことが書いてあったのを思い出しました。梅原 猛は、「中門は怨霊を封じ込めるためにある」と書いています。この本の主題は、法隆寺自体が怨霊封じ込めのお寺であることです。その答えは、中門のまん中にある柱であると言っています。この柱のために中門は四間になっており、この四という偶数の数字が怨霊を弔うために選ばれた数字であると述べています。その真偽のほどはよく分かりませんが、梅原 猛ファンとしては納得せざるをえないでしょう。
この法隆寺を訪ねたのはいつのことだったでしょう。奈良には何度も足を運び、行くチャンスはあったのですが、ついつい行きそびれていました。この理由は単純で、これまでは近鉄線を利用することが多かったので、最寄り駅から行き方に不便を感じていたからです。今回はJR奈良線で奈良駅を利用しました。法隆寺の最寄り駅はJRの大和大路線の法隆寺駅。奈良駅から15分位で着きました。なんとも無知であることは恐ろしいですね。以前に法隆寺を訪ねたのは50年以上前だったかもしれません。コロナ禍で空いていたせいか、ゆっくりと法隆寺参拝ができました。
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