中辺路を歩いてきて祓殿王子を過ぎれば5分ほどで現代の熊野本宮大社に到着しました。大斎原より40m位高い場所にあります。現代のと書きましたのは、明治22年の大水害以前の熊野本宮大社はこの場所になく熊野川の中州、大斎原(おおゆのはら)にありました。筆者がこの熊野詣に来たかったのは、平安時代から現代まで何ゆえに熊野三山が信仰の対象として崇められたのか?その理由を知りたかったからです。上皇ですら遠く京都から深い山の中を歩き、本宮、新宮、那智の順に熊野三山を参詣しました。天仁二年(1109)に参詣した藤原宗忠は、「難行苦行、在るがごとく亡きがごとし。誠にこれ生死の嶮路を渉り、菩提の彼岸に至るものか」と書き記しており、馬などに乗っては御利益がないと考えていたようです。これはまさに修験道の世界を自ら体感し、大願成就を祈願したと思われます。
まず熊野本宮大社のホームページ、『神話のおへそ』(神社検定公式テキスト)、『熊野古道』(小山靖憲著・岩波新書)を参照して、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建された経緯を、その縁起・神話でみてみましょう。
天火明命(あめのほあかりのみこと、天照大御神から三代目、番能邇邇芸命の兄弟)は、古代、熊野地を治めた熊野国造家の祖神で、その息子である高倉下は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」(奈良石上神社蔵)を献じて迎えた。時を併せて高御産巣日神(たかみむすひのかみ、別天つ神五柱=万物の生産の神)は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導いた。 第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟の巨木に、三体の月が降臨した。天火明命の孫にあたる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてきたのか」と尋ねた。するとまん中の月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って斎(ゆ)き祀れ」と答えた。※斎は「ゆ」と読み、天照大御神が邇邇芸命に「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」を下したと記されている。
以上の縁起・神話をみれば、初代神武天皇のゆかりの地であれば、平安時代歴代の上皇がこぞって参詣した理由の一つだと理解できます。しかながら後白河上皇34回(1年に1回)、後鳥羽上皇28回(10カ月に1回)という参詣頻度の多さは説明できません。これは次回の祭神と本地仏で探ってみたいと思います。
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