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大通寺は東寺から少し南に下ったすぐ近くにあるお寺です。なぜ大通寺に行ったかといいますと、このお寺は鎌倉と関係が深く、源実朝やその妻の本覚尼、阿仏尼とも縁があるからにほかなりません。中に入れていただければよかったのですが、残念ながら非公開でしたので、門前にある京都市の案内文書を写してきました。
◇◆ 大通寺(遍照心院) ◇◆ 清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。その後、二百六十余年を経た貞応元年(1222)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したといわれる。後に「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。
足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に努め、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。明治四十四年(1911)には旧国鉄の用地となり六孫王神社だけを残して現地に移転して逼塞した。
本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚寺置文二巻、阿仏尼真蹟、阿仏尼塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。
案内文に書いてある通り、このお寺は清和源氏の菩提を弔うお寺であることが分ります。源満仲の孫が源頼義であり、その子が八幡太郎義家。ここまで下れば大通寺と鎌倉との関係が理解できました。京都で勤務していた会社は六孫王神社の近くにあり、この神社の境内で花見をしたこともあります。その当時は神社の由緒などには全く興味ないまま過ごしていたのですが、いまこうして振り返ると不思議なご縁で繋がっていました。
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