人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 英勝寺の蝉(せみ) ーー

2017-12-23 11:25:09 | 日記

さて本日のブログはクイズです。鎌倉の英勝寺については先日のブログで山門を紹介しました。今回は皆さんに出題させていただきます。英勝寺には写真のほかもう1匹蝉がいます。英勝寺を拝観する機会があったら、セミが何処にいるか捜してください?

ヒントは、まず、「せみ時雨」という言葉があるように蝉がたくさん鳴きたてるとうるさく、礼拝の妨げになります。蝉がいる場所は毎日礼拝する建物外のどこか。英勝寺には国の重要文化財に指定されている建物が五つあり、その建物のどれかでしょう。次に、蝉の大きさは実際のセミと同じ位の大きさで、銅製の落とし鍵の飾りのようにも見えます。3つ目、英勝寺は江戸時代に創建された水戸徳川家の御姫様が住職を勤める尼寺。どの建物も鎌倉の地でお姫様が寂しくないようにしゃれっけのある工夫がされています。この蝉は、「神聖な堂の中に入ったら静かにせよ」の戒めを、毎回扉を開けるときに覚らせているようにもみえます。最後に、蝉は長い間地中にいて、やっと地上に出てきたのにその命は1週間で終えてしまいます。せみは世の無常さを表現したものとの説もあります。どの見方が正しいかは、みる人の感じ方次第。まず見つけてください。

建物のなかは、正面に阿弥陀三尊、そして板壁の美しい絵の数々。小壁の鳳凰、飛天、柱の上の金襴巻の文様、仏の後にある来迎壁の蓮の花、どれも絵の具の色が美しく、これを造った人の思いが伝わってきます。小窓をあけて堂内の阿弥陀様を拝む女のひとが多い素敵な建物です。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい東京駅と丸の内

2017-12-18 21:18:47 | 日記

新しい東京駅と丸の内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この国のすがた ーー 東京駅 ーー

2017-12-18 17:08:26 | 日記

12月15日。新装になった東京駅に行ってきました。丸の内口の駅前広場が完成し、歩行者が自由に歩けます。駅の反対側には皇居があり、東京駅を背に振り返れば皇居までの広い空間が広がっています。おそらく世界で一番綺麗なステーションでしょう。

初代の東京駅は大正3年(1914年)に辰野金吾の設計により完成しました。その後、第二次世界大戦の空襲により、一部が破壊されましたが、その後部分的に修復された後、数年前に往時の姿に蘇りました。私は昭和50年(1975年)に社会人となり、東京駅をよく利用しましたが、その当時は駅前がこんなに変貌を遂げるなんて想像もできませんでした。丸ビルも新丸ビルも石造り。今のオアゾのある場所は国鉄の本社ビルで、御世辞にも綺麗といえず、中に入るのが躊躇われるような建物でした。

40数年の間に、これほどまでに街を変えたのかと、これを計画した人たちや停まることなく建設工事を進めた人々に敬意を評さずにはいられません。平成が始まって数年後にバブルが崩壊し、この国は30年近く停滞した時期を過ごしました。その間にどれだけのおカネを無駄にしたことか。

いま東京駅の前に立ち、周りを見渡すと、後世に残せるインフラの整備がいかに大切なことなのか、改めて思いました。それに携わった方々に感謝です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 英勝寺の山門 ーー

2017-12-17 09:00:15 | 日記

鎌倉駅西口から今小路を寿福寺方面に歩いて7~8分位。その寿福寺の先に英勝寺があります。そのまま進めば化粧坂や亀ヶ谷坂。鎌倉時代は山ノ内に抜ける道筋で賑やかな場所だったと思います。英勝寺そのものは創建が寛永一三年(1636年)、水戸徳川家にご縁のある浄土宗の尼寺です。江戸時代の鎌倉といえば、往時の賑わいはほとんどなく、鶴岡八幡宮寺、建長寺、円覚寺、光明寺などを除いた諸寺は寂しい限りであったと、水戸光圀の鎌倉日記に書かれています。そんな中、創建以来、水戸徳川家の御姫様が住持を勤めた英勝寺は鎌倉でも異色の存在でした。

英勝寺と水戸徳川家の関係はと言うと、徳川家康から100年余り前、上杉家の家宰であった太田道灌に遡ります。英勝寺の場所は太田道灌の屋敷跡。その家康は関東支配に際し、没落した関東の名家の救済に力を入れ、そのひとつが太田家。道灌5代の重政、その妹のお八が家康の側に仕えることになりました。寵愛を受けたお八はお梶と改名し、その後は「お勝」と名のりました。その「お勝」は家康の子供、水戸頼房の養母となり、8歳の頼房を育て上げ、家康逝去後は出家して英勝院となり、太田家ゆかりの土地に寺を開いたわけです。

その英勝寺の山門の運命も波乱にとんだもの。関東大震災で倒壊し、仏殿、祠堂、鐘楼などの建物は修復されましたが、山門は直すお金がなく二束三文で焚き付けとして売られることになりました。そこに現れた救いの主が三井銀行の役員を退任したばかりの間島弟彦氏という篤志家。小町の自邸に2,000円という巨費を投じて復元。一時、他の人の手に渡ったものの壊されることもなく、平成13年に英勝寺に返還、平成25年には国重要文化財に指定されました。

山門をご覧いただくと分りますが、小ぶりながら、随所に細工が施され部材の数も半端な数ではありません。このバラバラになった部材をレゴを組み立てるように復元する技の凄さと労力、それとそれを我慢強く援助した篤志家がいたこと。文化財や芸術・芸能を後世に残そうとするパトロンの存在は大きかったですよね。40年も経たないビルを簡単に壊してしまう人たちの神経が分りません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 夢窓疎石(国師) ーー

2017-12-13 10:12:52 | 日記

夢窓疎石は1275年の生まれ、出身は伊勢です。宋からの渡来僧と思っていましたが違いました。留学もしてませんから、彼の修行は建長寺や円覚寺で蘭渓道隆の弟子の住持に参ずること、さらには無学祖元の弟子である高峰顕日を慕って那須の雲巖寺や鎌倉や甲斐の諸寺で行われました。蘭渓道隆が来日し建長寺を創建したのが1253年。夢窓疎石が修行していた13世紀後半には、これだけの名僧を育てる環境が国内に整備されていました。

さて夢窓疎石の生涯をみると、その人生は1333年の鎌倉幕府滅亡までの時期、そのときすでに60歳近い年齢です。それからは1351年に76歳で亡くなるまでの時期に大きく分けられます。なによりも後醍醐天皇や足利尊氏・直義兄弟と関係した建武政権樹立後の20年間の京都での活躍が目立ちます。一方、鎌倉では北条高時の招きで浄智寺、円覚寺の住持になり、瑞泉寺では写真にある庭園を造ったり、徧界一覧亭でのサロン的交わりを『徧界一覧亭記』をまとめ、後世に遺しています。

もう一つ。『夢中問答』という問答集。夢窓国師が、足利直義の問いに答えた法話を記録したものですが、岩波文庫版の校訂者佐藤泰舜氏によれば、「全編九十三の問答は、各独立しながら前後脈絡を存し、しかも浅深の次第をもって、攘災招福の俗信より仏教の正信正智の問題に進み、中程よりは専ら禅門の法義に転じ、懇切平明に禅の極致を談じて余蘊なきの感がある。」と解説しています。いささか難解な文章ですが、雰囲気は伝わってきます。またここに出てくる足利直義は歴史上は後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害した悪漢ですが、この問答集を読む限り、後世に悪評が残されているのが気の毒な気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする