木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

陣屋って何だ?~奥殿陣屋

2008年09月13日 | 大江戸○×クイズ
問い:陣屋とは、大名が泊まる宿屋である。 ウソ? 本当? (答えは、文末に)

陣屋とは、現代に残っていない言葉の一つである。
江戸時代、原則として一万石以上の所領を与えられた武士を大名と呼ぶが、大名の居住地及び政務取り扱いの場がいわゆる「城」である。
だが、どの大名も城を持てたわけではない。経済上の事情や、「一国一城」の法令などにより、城を持てない大名もいた。
ここで、陣屋が登場する。
城殿輝雄氏の簡潔な説明によると、
陣屋とは、無城の大名の館。または、代官や領地の支配のための屋敷や役宅を指している。
とある。
具体的に、三河奥殿藩一万六千石の陣屋の例を見てみたい。
奥殿藩は、一二松平と言われた松平家の系統、大給松平家が治世した藩である。
大給松平家は、代々大給城を拠点としていたが、六代家乗の代に、上州那波(なわ・現群馬県伊勢崎市)に城を築いて一万石取りの大名となった。天正一八年、家康が関東に入国した年である。
このため、大給城は、廃城となり、領地は天領となった。
家乗には、二つ違いの弟である真次がいて、真次も那波城に従った。その後、武勲があり、秀忠より上州に三千石を与えられた真次は、故郷である大給の地に所領の地を換えてもらうことを願い許された。
真次は、七千石取りまで出世するが、城を建てることは叶わず、大給に陣屋を建てた。
真次の実子である乗次は、一万六千石までになり、三代乗成(のりしげ)の時には、大坂定番の任を命じられる。
更に四代乗真(のりざね)の代になると、三州四千石、信州一万二千石の所領となり、大坂定番の任を解かれる。その際に、大坂に在住していた家臣たちが、大給陣屋に戻ってきたが、手狭になったため、奥殿へ陣屋を移動し、奥殿陣屋は完成する。
奥殿藩となった藩士の構成を見ると、藩士236名(うち師弟勤務32名)のうち、

江戸藩邸  82戸
奥殿陣屋  47戸
田野口陣屋 73戸
京都      2戸

となっている。田野口というのは、信州の陣屋である。
奥殿陣屋の平面図を見ると、山を背にしているものの、三方を田に囲まれた平屋で、武力的な効果という点では、かなり低い。
大給松平家でも、城を持ちたいという悲願があり、文久三年(1863年)には、信州に五稜郭建設を願い、幕府から許されている。翌年から建設を始めたものの、完成を待つ前に明治維新を迎えてしまった。
同じ五稜郭でも、函館のものは有名であるが、佐久の五稜郭は、あまりにも知られていない。

答え:×(大名が泊まるのは、本陣である)


園内には、小規模ながら花火資料館も併設されている。金鳳亭では、季節の炊き込みご飯なども食べることができるが、人気があり、早目になくなってしまうことが多い。

中では、奥殿藩ゆかりの茶道裏千家の玄々斎のビデオがある。立派な庭園を見ながら、抹茶を飲むこともできる。

園内にあるバラ園は見事。隣接した畑にも季節の花が植えられ見ごたえがある。

(参考文献)奥殿陣屋 城殿輝雄

奥殿陣屋HP

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