木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

水野忠邦②~十組問屋の解散

2008年11月23日 | 人物伝
徳川の江戸時代は独裁政治だったと思っている人もいるかも知れないが、幕府の力は独裁を行えるほどは強固でなかった。武家社会においても藩の移封や改易は幕府が自由自在に行えるものではなく、他人が納得しうる理由付けが必要であった。商人に対して行われた棄捐令の類は問答無用の踏み倒しであるが、貸すほうにしても、そのリスクはある程度計算済みであっただろう。
支配者層と被支配者層という二元的な捉え方をするならば、この両者の利害はまったく対立する。戦国時代であるならばともかく、泰平の世が続いた江戸時代においては、商人にとって支配者層である武士は利用すべき存在に成り下がっていた。
支配者層というプライドがあるから、武士層も商人の力を肌で感じていても、その力を積極的に評価することができなかった。
水野忠邦にしても、同様である。
忠邦は、分限を越えた贅沢、奢侈が風俗の廃頽、物価の騰貴など諸悪の根源であるという信念を持っていた。
天保期に入ると、地震や火山の噴火などの天災が相次いで起きたが、とりわけ天保四年から続いた農産物の不作は、大規模な飢饉を招き、物価上昇を引き起こした。更には天保八年に大坂で起きた大塩平八郎の乱が、物価上昇に拍車を掛けた。
天保十二年十二月、忠邦は水戸徳川斉昭の意見を取り入れて、江戸の日用品を扱う株仲間である十組問屋を解散させた。
それまでも、忠邦は再三にわたって、諸価格の値下げを商人に命じていたが、商人たちが要請に耳を応じなかったためである。
幕府としても株仲間から入る冥加金には未練が残ったが、背に腹は代えられなかったのである。
(以下次回)
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