木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

水野忠邦③~奢侈禁制

2008年11月24日 | 江戸の人物
株仲間の解散は、一部の商人の特権を剥奪し、自由競争力を高めることによって物価の安定を図ろうとするものであった。
この大鉈が振るわれたのには、問屋仲間が生産地の商人などの仲間外商人たちに流通ルートを攪拌され、弱体化したという背景がある。弱まった力を回復しようと問屋仲間は、幕府の命に反しても、買占めや値待ちなどの物価騰貴となる行為を繰り返さざるを得なくなっていたのである。
さらに、忠邦は銭の公定歩合を引き上げて、物価の安定を狙う。金利の引き下げ、最低賃金の制定なども併せて法令化する一方、町民にはありとあらゆる奢侈禁制の足かせをはめた。
たとえば、女性の髪結い禁止や、縁側での将棋禁止(火事のおそれあり)、寄席の縮小、薬湯の禁止など、微に入り、細に亘るものであった。
収入源である年貢でも、幕府は苦戦している。
延享元年(1744年)には180万1855石であった年貢収納量は、天保七年には103万9970石にまで減少している。
これには、天保期が記録的な不作の年が多く、離農者も多かったことにも起因しているが、農民の積極的な抵抗力が強化されたことが最大の原因である。
経済市場の発展の前には農村も無関係ではなく、多くの情報も流れ込んできていた。
農村近郊での地場産業には、農業に従事しているよりも有利な賃金を得られる場も現れ、離農者も多く見られるようになった。また、在農者であっても米以外の作物を作ったり、内職により農産物以外の商品を作って販売を行う者も見られるようになった。年貢供出にあたっては各地での米の値段(石代)がそれぞれ制定されたから、農民の中には、自分の土地での石代よりも安い産地の米を購入し、その分を納入することも行われた。
この農民層の節税対策とも言える努力の成果あって、たとえば河内若江郡小若江村などでは、天保十三年の祖率は表向き70%という高率であったのに、実際は26.8%でしかなかった土地もある。
また、天保期は、慶応に続いて江戸時代でもっとも百姓一揆が多かった年でもある。一揆の内容もこれまでの強訴中心のものから、打毀しなどより過激なものに変化していた。
天保期に入ると、年貢の取り決めも幕府が一方的に通達し得るものではなくなっていたのである。
忠邦退陣の直接的なきっかけとなったのは、上知令である。
上知令とは、江戸、大坂十里四方を天領にするという案である。利害が複雑に絡むこの案には代地の問題や、地元住民たちの反対が多く、幕府にも強引に押し切れる威厳はなかった。
反対者の多さに驚いた将軍家慶により、この上知令は撤回させられ、忠邦も老中の座を追われることになる。
天保の改革は、時代錯誤で甘い現状認識の上に立脚したものだと捉えるような論調もしばしば見かける。
井関隆子という旗本夫人は、忠邦に対して次のような意見を述べている。

政治に関わる人は、いくら金銀を積み上げても、うまくはゆかない。人々を慈しむ心こそ大切であり、人を思いやる心があってはじめて、従うものである。
それなのに、上の御為といって、人々を苦しめ、世の騒ぎになるようなことを企てるのは、むしろ罪人ともいうべきである。この人はそれほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは、多くの人々の恨みによるものであろう。


この文が旗本、いわゆる身内によって記されたのは注目に値する。「人々を慈しむ心」がある政治家などというのは、近年も含めていた試しがないと思うのだが、忠邦の政策には、強硬論ばかりで暖かさの欠片もないのも事実である。剛ばかりで柔がないと、息が詰る。これは、忠邦自身の生き方だったのかも知れない。
ただ、「我には性欲を律する克己心がある」と自慢した松平定信よりも、何人もの妾を囲っていた忠邦のほうが人間くさいような気がする。
また、忠邦は緊張すると吃音する癖があり、将軍に謁見する際も、人を通じて、自分の癖を事前に知らせている。小心なところのある忠邦としては、落ち目になった途端、手のひらを返すように寝返っていった人間を見て、随分と落ち込んだのではないだろうか。
方法論はどうあれ、幕末近くなり信念を持った武士が少なくなった中、忠邦が出色の人物であったことには、間違いがない。

忠邦は、一度、老中を罷免された後、翌年に再び老中に返り咲いている。
忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。
この頃の忠邦は開国派になっていたと言うが、真偽のほどは分からない。

水野忠邦 北島正元 吉川弘文館
日本の歴史18 北島正元 中央公論社
旗本夫人が見た江戸のたそがれ 深沢秋男 文春新書
江戸時代年鑑 遠藤元男 雄山閣

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