もしかしたら、10年ぶりくらいでフィギュアスケートをじっくり見た。
娘が小学校からやっていて、高校2年か3年で止めるまではどっぷり浸っていたけど、それ以降、大会すらあまりみなくなっていた。
伊藤みどりとか、カタリーナ・ビットの頃とは、女王のスター性が小粒になってしまったからかな。
鈴木がV、五輪代表内定 浅田は3位 フィギュア全日本:朝日新聞デジタル
そんな中、ちょっとオタクな感想を書いてみる。浅田真央は伊藤みどりと同じ山田コーチの元で育った選手。山田コーチは、それまで佐藤コーチとか東京勢が中心だった中で、名古屋から伊藤みどりをいう逸材を擁して、一石を投じた挑戦者だった。門奈コーチというのも浜松出身で有名だった。娘は足土コーチだった。
門奈裕子 - Wikipedia
浅田真央 - Wikipedia
山田コーチの育てた選手は、当時足をまいてジャンプする一派だった。伊藤みどりも足をまいてジャンプしていると思った。しかし、これは減点の対象らしかった。足をまかずに伸ばしてジャンプする一派が佐藤コーチの一派だと思った。山田コーチはジャンプを中心に指導し、佐藤コーチらはきれいなエッジの深いスケーティングを中心に指導する派だった。そして、昨今、ジャンプより佐藤コーチらの基本に忠実なきれいなスケーティング、正しいごまかしのないジャンプの方のウエイトが高くなってきた。だから、点数の出ない浅田真央は佐藤コーチの指導を仰ぐこととなった。
村上佳菜子も山田コーチ。樋口コーチも10年以上前から山田コーチとともに名古屋のリンクにはいつも一緒にいた。
そして鈴木明子は長久保裕コーチ。
鈴木明子 - Wikipedia
長久保裕コーチは千葉や仙台のクラブ所属だったようだ。娘がやっていた頃、インターハイやインカレなどで見かけたような気がする。下に書かれているように、コーチが場所を変わると、選手も親ともどもコーチのもとに引っ越すのが当たり前の世界である。
長久保裕 - Wikipedia
フィギュアスケートも、これらの知識を頭に入れると、マニアックに楽しめます。しかし、こんなこと抜きに、「綺麗」「美しい」というだけで楽しんだほうがいいかもね。私は、残念ながらそうはいかない。だから、最近10年位見なかったのかな。
娘が小学校からやっていて、高校2年か3年で止めるまではどっぷり浸っていたけど、それ以降、大会すらあまりみなくなっていた。
伊藤みどりとか、カタリーナ・ビットの頃とは、女王のスター性が小粒になってしまったからかな。
鈴木がV、五輪代表内定 浅田は3位 フィギュア全日本:朝日新聞デジタル
フィギュアスケートの全日本選手権最終日は23日、ソチ冬季五輪の最終選考会を兼ねてさいたま市のさいたまスーパーアリーナであり、女子のショートプログラム(SP)で2位につけていた鈴木明子(邦和スポーツランド)がフリーで1位となる144・99点を出し、合計215・18点で逆転での初優勝を決め、ソチ五輪代表に内定した。
そんな中、ちょっとオタクな感想を書いてみる。浅田真央は伊藤みどりと同じ山田コーチの元で育った選手。山田コーチは、それまで佐藤コーチとか東京勢が中心だった中で、名古屋から伊藤みどりをいう逸材を擁して、一石を投じた挑戦者だった。門奈コーチというのも浜松出身で有名だった。娘は足土コーチだった。
門奈裕子 - Wikipedia
静岡県浜松市出身。浜松市内のスケートリンクでスケートを始める。選手時代は愛知県名古屋市の短期大学に進学し、小塚光彦指導の下、名古屋市を拠点に活動を行っていた。短期大学卒業と同時に選手を引退する[1]。
浅田真央 - Wikipedia
2000-2001シーズンからグランプリ東海クラブに所属し、山田満知子・樋口美穂子両コーチに師事[3][36][37]。小学6年生の時に特例で出場した全日本選手権で不完全ながら3回転-3回転-3回転のコンビネーションジャンプ(3回転フリップ-3回転ループ-3回転トウループ)を跳び[38][3][39]、「天才少女」と呼ばれた。
山田コーチの育てた選手は、当時足をまいてジャンプする一派だった。伊藤みどりも足をまいてジャンプしていると思った。しかし、これは減点の対象らしかった。足をまかずに伸ばしてジャンプする一派が佐藤コーチの一派だと思った。山田コーチはジャンプを中心に指導し、佐藤コーチらはきれいなエッジの深いスケーティングを中心に指導する派だった。そして、昨今、ジャンプより佐藤コーチらの基本に忠実なきれいなスケーティング、正しいごまかしのないジャンプの方のウエイトが高くなってきた。だから、点数の出ない浅田真央は佐藤コーチの指導を仰ぐこととなった。
2010-2011シーズンは6月から9月頃まで長久保裕をジャンプ専門のコーチにつけ6種類全てのジャンプの矯正に取り組む。9月から佐藤信夫コーチに師事し、ジャンプの矯正も続けた。
村上佳菜子も山田コーチ。樋口コーチも10年以上前から山田コーチとともに名古屋のリンクにはいつも一緒にいた。
そして鈴木明子は長久保裕コーチ。
鈴木明子 - Wikipedia
6歳のころスケートを始めた。名古屋の荻野正子の指導のもと、ノービス時代から頭角を現し、1997年の第1回全日本ノービス選手権Aクラスで3位に入った。
2002年荒川静香の仙台時代の指導者である長久保裕の師事を仰ぐべく東北福祉大学へ進学。
長久保裕コーチは千葉や仙台のクラブ所属だったようだ。娘がやっていた頃、インターハイやインカレなどで見かけたような気がする。下に書かれているように、コーチが場所を変わると、選手も親ともどもコーチのもとに引っ越すのが当たり前の世界である。
長久保裕 - Wikipedia
競技を引退してからは千葉・新松戸で指導者となる[1]。1988年から仙台市の「泉DLLアカデミー」のコーチとなる[1]。この頃、仙台には及川史弘がいた。その後、長久保に師事すべく各地から有望選手が集まり、1998年長野オリンピックには本田武史、田村岳斗、荒川静香、荒井万里絵と4人の教え子が出場した[2]。
2006年4月、仙台のリンクが閉鎖するのに伴い、名古屋市にあるスケートリンクの専属コーチとなる。仙台で長久保に師事していた有望選手数人も、長久保とともに名古屋市に移住した。
フィギュアスケートも、これらの知識を頭に入れると、マニアックに楽しめます。しかし、こんなこと抜きに、「綺麗」「美しい」というだけで楽しんだほうがいいかもね。私は、残念ながらそうはいかない。だから、最近10年位見なかったのかな。