ある年齢に達してから、僕はお正月だからと言って特別な感慨を持つことが少なくなったような気がする。
例えば、「初詣は行きましたか」と問われることもあるけれど、たまたまその年に初めて行ったお宮が初詣ということで、さあ、これから初詣に行くぞ という意識で出かけたことは最近は記憶にない。
そんな僕だから、お正月はお店も休みということをつい忘れてしまう。
一昨日、ちょっと買いたいものがあって百円ショップに行ったらお休みだった。
街道沿いの百円ショップなので、歩道に自動車を乗り上げてそのさきの駐車場のチェーンが下りていたからああ休みやと気づいた。
歩道を高校生の女の子が自転車で走っていて、僕の車が歩道に乗り上げたのを見て自転車を停止させて「何やってるんや、このおじさん」という感じの顔をしていた。
高校生の子に手を合わせて「ゴメン」という合図をしてそのまま歩道を隣のお店の駐車場まで自動車で走って、そこで方向転換してまた車道に出た。
隣のお店も休みだったけれど、駐車場にチェーンがかかっていなくてよかった。
昨日は年中無休のドラッグストアに夜、行ったけれどがらすきでお客はほとんどいなかった。
まあ、それが正月三が日の世間並ということなのだろうか。
今日、お店に並んでいる食材を見ると、もう特にお正月という気はしない。
やはり、食材コーナーがもっともお正月モードになるのはクリスマスから大みそかにかけてだなと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日の新聞に、岐路の資本主義というタイトルの見開き2ページの記事がある。
その記事の中にバブル期を象徴する小説の文章として、村上春樹さんの「ダンスダンスダンス」という小説からこんな一説が引用されている。
「誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだよ。簡単だよ、情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスですってね」と。
ダンスダンスダンス 懐かしいな。
僕もバブルのころというよりも少し遅れて90年代初頭くらいに読んだ気がする。
人がものを使い捨てていけばいくほど、経済がよく回転するんだ というような言葉もこの小説にでてきていたような気がする。
だれもが思っていても、なかなかうまい言葉で言い表せないことを春樹さんはさらっと語ってしまうことが得意なようで、僕も春樹さんの文章を読むと胸がすっとすることが多かった。
「誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだよ。簡単だよ、情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスですってね」、、、。
本当に、ロレックスとかBMWとかそういう情報を真に受けて
「女は男のどこを見てるかお前知ってるか? それはな、時計と車や。そこだけはしっかりしとかなあかんで」とお酒が入ると後輩に説教したりしていた困った先輩もいたりして、、、。
まあ、確かに僕のように、時計のベルトを交換したら時計本体の値段よりも高かった みたいな時計をしているとそれだけで馬鹿にされたこともあったけれど。
(これからもあるかも知れない)
中古の軽自動車を買ったとき、たまたまその隣に置いてあった10年落ちのぼろぼろのBMWの値段よりも軽自動車の値段の方が高かったので、その話を会社の先輩にしたら、ことあるごとに「ナカシマさんの軽はBMWより上ですから」と言われたこともあった。
でも、「情報によって誰も必要としていないものが必要なものとしての幻想を与えられる」って、今のほうがその傾向が強くなっているかもしれない。
高齢者を狙った掛け捨ての保険。サプリ。そして、お店のアプリなども、本当に必要なのか、情報によって必要なものと思い込まされているのかわからないなと思ってしまうことも多くなった。
いろいろと自分なりに気を付けていきたいものだなと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・
高校サッカー選手権の季節にかこつけて、数年前の高校サッカーの応援歌だった、家入レオさんの「それぞれの明日へ」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。
聴いていただければ嬉しいです。
家入レオさんは、かれこれ10年近く前にEテレを見ていてそこに出演していたレオさんの話が面白いなと思ったときからちょこちょこ聴くようになりました。
テレビに出演した時の話も面白かったし、レオさんのブログもそこそこ面白いと思います。
どこが面白いか具体的に説明できない種類の面白さだと思います。
例えば、「初詣は行きましたか」と問われることもあるけれど、たまたまその年に初めて行ったお宮が初詣ということで、さあ、これから初詣に行くぞ という意識で出かけたことは最近は記憶にない。
そんな僕だから、お正月はお店も休みということをつい忘れてしまう。
一昨日、ちょっと買いたいものがあって百円ショップに行ったらお休みだった。
街道沿いの百円ショップなので、歩道に自動車を乗り上げてそのさきの駐車場のチェーンが下りていたからああ休みやと気づいた。
歩道を高校生の女の子が自転車で走っていて、僕の車が歩道に乗り上げたのを見て自転車を停止させて「何やってるんや、このおじさん」という感じの顔をしていた。
高校生の子に手を合わせて「ゴメン」という合図をしてそのまま歩道を隣のお店の駐車場まで自動車で走って、そこで方向転換してまた車道に出た。
隣のお店も休みだったけれど、駐車場にチェーンがかかっていなくてよかった。
昨日は年中無休のドラッグストアに夜、行ったけれどがらすきでお客はほとんどいなかった。
まあ、それが正月三が日の世間並ということなのだろうか。
今日、お店に並んでいる食材を見ると、もう特にお正月という気はしない。
やはり、食材コーナーがもっともお正月モードになるのはクリスマスから大みそかにかけてだなと思う。
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今日の新聞に、岐路の資本主義というタイトルの見開き2ページの記事がある。
その記事の中にバブル期を象徴する小説の文章として、村上春樹さんの「ダンスダンスダンス」という小説からこんな一説が引用されている。
「誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだよ。簡単だよ、情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスですってね」と。
ダンスダンスダンス 懐かしいな。
僕もバブルのころというよりも少し遅れて90年代初頭くらいに読んだ気がする。
人がものを使い捨てていけばいくほど、経済がよく回転するんだ というような言葉もこの小説にでてきていたような気がする。
だれもが思っていても、なかなかうまい言葉で言い表せないことを春樹さんはさらっと語ってしまうことが得意なようで、僕も春樹さんの文章を読むと胸がすっとすることが多かった。
「誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだよ。簡単だよ、情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスですってね」、、、。
本当に、ロレックスとかBMWとかそういう情報を真に受けて
「女は男のどこを見てるかお前知ってるか? それはな、時計と車や。そこだけはしっかりしとかなあかんで」とお酒が入ると後輩に説教したりしていた困った先輩もいたりして、、、。
まあ、確かに僕のように、時計のベルトを交換したら時計本体の値段よりも高かった みたいな時計をしているとそれだけで馬鹿にされたこともあったけれど。
(これからもあるかも知れない)
中古の軽自動車を買ったとき、たまたまその隣に置いてあった10年落ちのぼろぼろのBMWの値段よりも軽自動車の値段の方が高かったので、その話を会社の先輩にしたら、ことあるごとに「ナカシマさんの軽はBMWより上ですから」と言われたこともあった。
でも、「情報によって誰も必要としていないものが必要なものとしての幻想を与えられる」って、今のほうがその傾向が強くなっているかもしれない。
高齢者を狙った掛け捨ての保険。サプリ。そして、お店のアプリなども、本当に必要なのか、情報によって必要なものと思い込まされているのかわからないなと思ってしまうことも多くなった。
いろいろと自分なりに気を付けていきたいものだなと思う。
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高校サッカー選手権の季節にかこつけて、数年前の高校サッカーの応援歌だった、家入レオさんの「それぞれの明日へ」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。
聴いていただければ嬉しいです。
家入レオさんは、かれこれ10年近く前にEテレを見ていてそこに出演していたレオさんの話が面白いなと思ったときからちょこちょこ聴くようになりました。
テレビに出演した時の話も面白かったし、レオさんのブログもそこそこ面白いと思います。
どこが面白いか具体的に説明できない種類の面白さだと思います。