今日の新聞の編集手帳にこんなことが書いてある。
“”
東海道新幹線の運転士が急な腹痛を起こし、トイレに駆け込んでいたことがわかった。
3分22秒の間、運転室には車掌がいたものの操縦資格はない。時速約150キロで7キロあまりの距離を走行したという。
運転士は熱海を通過したあたりから「究極の選択」を迫られた。次の停車駅の名古屋まで我慢するか。規定に従い新幹線を停止させて運転室を離れるか。JR東海は運転士と車掌を処分すると発表した。
が、こちらにもうなずけない部分がある。運行会社として、その他の選択を検討したことはないのだろうか。人の突発的な体調異変はもっと深刻な病気が原因の場合もある。
新幹線が原則一人の運転士で運行されていることを今回の件で初めて知った。
僕らの「超特急」にいささか、冷や汗を覚える。“”
僕、このニュースを昨日か一昨日知ったとき、まあ、新幹線も停車するときはともかく、駅間を走行しているときは航空機と一緒で、実質自動操縦になっているのだろうと思った。
それで、もうお腹が痛くなって、トイレ我慢できなくなって、車掌に頼む と言ってしまった。
車掌さんも駅間は実質自動操縦ということをしっていたから、まあ、引き受けてしまったのだろうと思った。
そして、僕は、このニュースを知ったとき、実は、それなら運転席に、おまる というか簡易便器をいざというときのために置いておけばいいのにと思った。
運転士ひとりなら、別に 簡易便器を使いながらでも乗客に見られることはないし、今はいろいろ瞬間的に固めてしまうような化学薬剤の入った簡易便器もあるだろうから、それで大丈夫なのではないかと。
しかし、運転士ひとりでは、腹痛以外のもっと重篤な体調不良の場合に心もとないという新聞の指摘を読むと、僕の認識が甘かったと思ってしまう。
とはいっても、JRもコロナで赤字の垂れ流しだろうし。
運転士二人雇う余裕はないかもしれないし、でも、一人では危ないし、と思うと堂々巡りになってしまう。
今の、世の中、本当になにかと堂々巡りだなと思う。
駅のコンコースなどに警察官や、ガードマンが露骨に立っている姿をみることも多くなった。
ああいうの見ると、抑止力になるのか、逆に、人の感情が刺激されて余計に、治安が悪くなるのか、これも、一概にはわからないなと思ってしまう。
もちろん、抑止力になることをひたすら祈っているけれど。
アプリなど、デジタル化を進めすぎたお店で、スマホが、うまくつながらなかったりフリーズしたりして、店員さんと若い子が険悪な雰囲気になっているのを見かけることも多くなった。
デジタルは、便利な面があることは否定しないけれど、ちょっと障害を起こしたときは、手に負えないような問題になってしまうことも多い。
そういう不安を抱えながら、お店や会社を守るというのもまた、大変なことであるように思う。
チャップリンが、映画、モダンタイムスに描いたように、人間が機械を支配しているのか、機械が人間を支配しそれに人が怯えているのか、わからなくなることがときどきある。
旧約聖書の知恵の書に
「賢者は身の危険を感じると身を隠すが、愚かなものは向かっていって罰を受ける」という主旨の記述がある。
本当に、ものごとに向かっていく勇気も大切と思うけれど、危険と思ったら黙って身を引く勇気も同様に、あるいは、それ以上に大切だと感じる。
そういう判断にしかるべき直感と慎みが働きますようにと心の中で願っている。
そういうのもふくめて、なるようになると心に言い聞かせて生きていきたいと思う。
一日、いちにち無事に過ごせますように、それを一番に願っていきたい。