硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

歪んだ思い込みは人を幸せにするのだろうか。

2014-06-10 10:50:00 | 日記
朝刊に目をやると、殺人未遂等のほう助の罪に問われている菊池被告の裁判で検察側は菊池さんに懲役7年を求刑したとあった。

振り返って見ると、あの頃の僕は宗教感は家の仏壇や神社で手を合わす事位だったから、あの出来事は漫画をみるような不思慮な感覚であったように思う。

しかし、至らない知識ではあるけれども宗教と言うものが少しずつ理解出来てゆくと気づくことが増えていき、今改めて考えると、宗教団体の思想は普遍的な宗教思想からは逸脱しており、菊池さんはその被害者だったのではと思った。もちろん、彼女のした事は直接手を下したわけではないけれども人を傷つけた現実からは言い逃れは出来ないが、より良い生き方を目指して信仰の道に生きようと志した結果がこの事件を引き起こしてしまったのだとしたら、宗教が示す普遍的な思想よりも、生身の人間の言葉を信じ込んでしまったと言えるのではないでしょうか。

残念な事に神の言葉を都合のいいように解釈し己や団体自身を信仰するように仕向ける行いは、多くの宗教でも見られるように思う。

歪んだ世の中で生きてゆくのが辛いから、宗教によりどころを求めたが、その宗教自身も実社会の中の一部で歪んでいた。しかし、心のよりどころであるがゆえに、その歪みに対して盲目になってしまったのかもしれない。

生きる事は辛い。正しく生きようとすればするほどつらい。かといって自堕落にもなれない。自身と社会との間にある得体の知れぬ怪物におびえながら日々を生きてゆかなければならない事は他者には理解できぬことであろう。そこに宗教と言う光が手を差し伸べてくれるのであるから、信じて盲目になって行く事は自然であると思う。

あの宗教は何を目指したかったのであろうか。日常をそれぞれに生きている人々を無差別に殺める事件を起こしてもなお、形を変えて継続してゆこうとする人々が後を絶えないのは、そこに人を引き付ける何かがあるからであるが、信仰は人の力ではどうにもならない事に対して畏れ敬う事でしか生まれないのだとしたら、どんな宗教でも事の始まりは小さなサークル活動のように生まれたかもしれないが何百年、何千年という時と人の命を掛けて構築してきた宗教に対して突然打って変われるような新興宗教が素晴らしいものであるとは考えにくいと思うのです。

宗教を語る事は難しいかもしれないけれど、「思いやり」と言う気持ちを欠いた歪んだ思い込みは人を幸せにしないと思うのです。