お昼の休憩をとるため休憩室に入りテレビをつけると、オウム真理教の後継団体の施設に公安が捜査に入る映像が映った。これはデジャヴなのではと一瞬目を疑う。
オウム事件から20年という時を経てもその真理が受け継がれているのかと思い、大変驚き、いろいろ考えた。
世間から否定された新興宗教が再び少しづつ信者を増やしていると聞いて、何故そのような事が起こるのか不思議に感じた。今朝の朝刊にも関連の記事が載っていたのでよく読んでみると、その理由としいて勧誘方法が巧みであると記してあったが、それでも、入信に持ってゆくには入信する人がその団体の崇める神を信じることが前提になるはずである。
そこで思うのが、長い歴史をかけて確立してきた様々な宗教ではどうしていけなかったのだろうかという事です。確かに判りにくいし、幸せを感じられるという意味でも体感できにくいとも思います。しかし、煩悩が多い私たちはそれが信仰なのだとわかるまでずいぶん時間が掛かるので途上で諦めてしまいますが、それでも、信仰に合う合わないという個人的な意思が介入している事に疑問を感じます。確かに思想ですから自身の考えにそぐわなければ身を投じる気にはならないというのもわかります。
だれも私の事をわかってはくれない。という気持ちを汲んでくれる他者が現れると確かに安心します。常に私を肯定してくれるのですから、たいへん心地よいと思います。
ようやく幸福が訪れた。心の支えができた。迷いがなくなった。と、思える瞬間も訪れるでしょう。
しかし、それは、ホストにはまる女性や、キャバ嬢にはまる男性に似ています。僕はホストやキャバ嬢に入れ込んでいる人の話を聴いて、それがこの人たちのロマンなのだと解釈したのですが、ドライに捉えるとその関係は利益が生じていてこそ初めて関係が保てているように思います。
しかし、逆説的に考えれば、金銭が必要なければ、人は何を信じてよいのか判らなくなってしまうのかもしれません。私を肯定してくれるものに対価を支払う。それが安心感につながるのならば、すべてを信仰する神に捧げる。その気持ちが信仰心を深めるのだと捉えられなくもありません。そして、肯定してくれない他者の言葉などに耳を傾けるはずがありません。
信じられるものがあるという安心感。それは何物にも代えがたい気持ちでしょう。誰もがその境地にたどり着きたいと思うでしょう。
でも、少しだけ考えてみてください。シッタールダは豊かな暮らしを捨て、真理を得るため苦行の旅に出ました。天使から神の言葉を授かったムハンマドは仲間と共に荒れ野であるアラビア半島を布教し巡りました。イエスは洗礼を受け、新しい神の言葉を布教する為、慕うもの達といばらの道を共に歩きました。
確かに、始まりは苦難の連続かもしれません。そこに新たな言葉があるかもしれません。しかし、彼らは誰も苦しめてはいないのです。自身が苦しんだのです。自身が苦しんだことで多くの人が救われたのです。
そこから考えると、本当に神や仏を信じ信仰するならば、自分が救われる事に欲するのではなく、誰かを救う事、他者に対して善を尽くすこと。つまり、生きている者の言葉ではなくて、祖の行いを真似ることが本来の信仰であるような気がするのです。
しかし、祖の真似をしていても、それでも人は迷い続けるのだとも思うのです。
オウム事件から20年という時を経てもその真理が受け継がれているのかと思い、大変驚き、いろいろ考えた。
世間から否定された新興宗教が再び少しづつ信者を増やしていると聞いて、何故そのような事が起こるのか不思議に感じた。今朝の朝刊にも関連の記事が載っていたのでよく読んでみると、その理由としいて勧誘方法が巧みであると記してあったが、それでも、入信に持ってゆくには入信する人がその団体の崇める神を信じることが前提になるはずである。
そこで思うのが、長い歴史をかけて確立してきた様々な宗教ではどうしていけなかったのだろうかという事です。確かに判りにくいし、幸せを感じられるという意味でも体感できにくいとも思います。しかし、煩悩が多い私たちはそれが信仰なのだとわかるまでずいぶん時間が掛かるので途上で諦めてしまいますが、それでも、信仰に合う合わないという個人的な意思が介入している事に疑問を感じます。確かに思想ですから自身の考えにそぐわなければ身を投じる気にはならないというのもわかります。
だれも私の事をわかってはくれない。という気持ちを汲んでくれる他者が現れると確かに安心します。常に私を肯定してくれるのですから、たいへん心地よいと思います。
ようやく幸福が訪れた。心の支えができた。迷いがなくなった。と、思える瞬間も訪れるでしょう。
しかし、それは、ホストにはまる女性や、キャバ嬢にはまる男性に似ています。僕はホストやキャバ嬢に入れ込んでいる人の話を聴いて、それがこの人たちのロマンなのだと解釈したのですが、ドライに捉えるとその関係は利益が生じていてこそ初めて関係が保てているように思います。
しかし、逆説的に考えれば、金銭が必要なければ、人は何を信じてよいのか判らなくなってしまうのかもしれません。私を肯定してくれるものに対価を支払う。それが安心感につながるのならば、すべてを信仰する神に捧げる。その気持ちが信仰心を深めるのだと捉えられなくもありません。そして、肯定してくれない他者の言葉などに耳を傾けるはずがありません。
信じられるものがあるという安心感。それは何物にも代えがたい気持ちでしょう。誰もがその境地にたどり着きたいと思うでしょう。
でも、少しだけ考えてみてください。シッタールダは豊かな暮らしを捨て、真理を得るため苦行の旅に出ました。天使から神の言葉を授かったムハンマドは仲間と共に荒れ野であるアラビア半島を布教し巡りました。イエスは洗礼を受け、新しい神の言葉を布教する為、慕うもの達といばらの道を共に歩きました。
確かに、始まりは苦難の連続かもしれません。そこに新たな言葉があるかもしれません。しかし、彼らは誰も苦しめてはいないのです。自身が苦しんだのです。自身が苦しんだことで多くの人が救われたのです。
そこから考えると、本当に神や仏を信じ信仰するならば、自分が救われる事に欲するのではなく、誰かを救う事、他者に対して善を尽くすこと。つまり、生きている者の言葉ではなくて、祖の行いを真似ることが本来の信仰であるような気がするのです。
しかし、祖の真似をしていても、それでも人は迷い続けるのだとも思うのです。