硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

消去。

2015-03-24 08:18:52 | 日記
学校の教諭が子猫を生き埋めにしてしまったというにニュースが流れている。嫌な気持になりつつも少し考えてみる。

目の前に自分に対して不都合な事がある。今後の事を考えると困りごとが増え不快に思うと感じる。その時、人はどのように考え不都合を乗り越えてゆくだろうか。

たとえば、不都合な事に対して真摯に向き合い粘り強く対峙してゆっくりと解決策を見出してゆく事が最善であるように思うけれど、正解とは言えないと思う所があります。なぜなら、人は様々な考え方を持つものだからその人が生きてきた環境の中で培ってきた感性が大きく左右するので、人によっては全く的を射ない考え方になるからです。

また、此処の処、行動を短絡的に決定してしまう事件が目につく機会が増えたような気がしますが、現在は情報社会であるから小さな事柄まで拡散されるので耳や目に留まる機会が増えたのかもしれないけれども、それでも、老若男女が短絡的に不都合で不快なものに対して消去という選択をとることに違和感を感じずにはいられません。

勿論そこに至るまでには葛藤があったのかもしれないけれど、消去という結論を導き出したその後の想像がどうしてできないのか疑問に感じるのです。不快感さえ取り除けば幸福になるという感覚はどうして生まれるのでしょうか。確かに不快感が取り除かれればその瞬間は気が晴れるかもしれないけれど、多くの場合、その後に起こる自身への反動の方が想像以上に重たいものである事が多いのに、どうして消去する事を選んでしまうのでしょう。

しかし、ある意味衝動とはそういう心理なのかもしれません。

それでも、行動を起こす前に、感情的になる前に、もう一度、自身の不快と思っている感情を取り除き、客観的に対処法を考えることが大切であるように思います。

そして、情報が溢れている環境にどっぷりと浸かっている以上、自身が起こした社会的問題も拡散される可能性が高く、ネットワークに上がれば「不快な他者を消去する以上に」消去することは困難になり、今後の人生が生きにくくなるというリスクがついて回るのに、消去を選択した人々はそのリスクについて希薄なような気がするのです。