先月のブログで「知は感情を納得させることが出来ない」というテーマで、一石講じてみましたが、それ以来、「なぜなんだろう」という疑問を払しょくさせることが出来ないでいました。
しかし、う~んと考えていると、不思議なもので思わぬところで思い浮かぶものです。
其の時のブログには「学術会議も分科会も何故その英知を発揮しないのか」という疑問を提起したものですが、思考が伸びたきっかけは、「福島原発事故」の今を考えていたときに、震災以前に、防波堤の高さについて、意見を出されていた人がいたという事を思い出した時でした。
おぼろげは記憶では、問題提起された方の意見は、決定権のある人達に問題とされなかったという結末だった様に思います。
そこで、研究者という仕事をされている人は、皆が皆、問題を解決したいという情熱がないわけがないはずであるから、学術会議の中にも、分科会の中にも、「何とかしたい」という気持ちを持った人がいたはずであるし、「防波堤」の問題を提起した人がいたように、問題提起をした人がいるはずである。
もし、それが真実なら、それを、「問題としない」と判断した人物がいたという事である。
問題をなんらかの理由で問題としないと決定した人達こそ、「知は感情を納得させることが出来なかった」という事になるのではないかと思ったのでした。
しかし、う~んと考えていると、不思議なもので思わぬところで思い浮かぶものです。
其の時のブログには「学術会議も分科会も何故その英知を発揮しないのか」という疑問を提起したものですが、思考が伸びたきっかけは、「福島原発事故」の今を考えていたときに、震災以前に、防波堤の高さについて、意見を出されていた人がいたという事を思い出した時でした。
おぼろげは記憶では、問題提起された方の意見は、決定権のある人達に問題とされなかったという結末だった様に思います。
そこで、研究者という仕事をされている人は、皆が皆、問題を解決したいという情熱がないわけがないはずであるから、学術会議の中にも、分科会の中にも、「何とかしたい」という気持ちを持った人がいたはずであるし、「防波堤」の問題を提起した人がいたように、問題提起をした人がいるはずである。
もし、それが真実なら、それを、「問題としない」と判断した人物がいたという事である。
問題をなんらかの理由で問題としないと決定した人達こそ、「知は感情を納得させることが出来なかった」という事になるのではないかと思ったのでした。