小学校合併について妻と話をしていると、合併推進派の妻が、合併した方がよい理由を個人的な意見として話し出した。
そういう時の妻は話の途中の質問は受け付けない。だから。うん。うん。とただ頷く。
しかし、真逆な価値観を持つ妻の話は興味深く、色々考えさせられる。
妻は推進理由として、1学年1クラス15人未満の生徒数では、生徒間のコミュニケーションは意外と難しいのだと主張する。
それは教育者として働いていた頃の実体験を通しての結論でもあった。
それに対し、僕が小学生の頃は、1学年1クラス25人で6年間を同じメンバーで比較的のんびりと過ごせていたので、その考え方が上手く受け入れられなかった。
しかし、実際に、生徒数が15人くらいであると、きれいに2グループができ、どちらのグループにも上手く入っていけない児童は仲間外れにされていると思うようになってしまったのだという。
それに対し、グループ内でコミュニケーションを図れている児童達は、その児童を特別仲間外れにしたわけでも、イジメたわけでもなく、フラットな付き合いを続けていたそうであるが、どちらのグループにも溶け込めなかった児童は仲間外れにされているのだと勘違いを起こし、そのことを保護者に伝えたところ、過保護だった保護者は、学校に出向き、改善を求めるように訴えたそうである。
ところが身に覚えのない生徒たちは、「?」となり、教員も、他の児童の保護者もその状況に困惑。
そして、その家族と深く付き合うと後に大変になると思った保護者達は、その家族から少し距離を取ることになったそうであるが、そのことによってさらに状況をこじれ、その児童は転校してしまい、後味の悪い結果となってしまったらしい。
妻はその出来事から、生徒は沢山いた方が逆に孤立しにくくなるから、合併した方が生徒達にはよいと主張するのであった。
確かに妻の実体験から導き出した答えは妥当であると思う。しかし、生徒数が多くても、上手く溶け込めない児童は、活発な児童たちの中に埋没してしまっているだけになるのではと思った。
「なかよし」とは、周りが私に気を使い、私を仲間として承認しなければならないという立ち位置では、「なかよし」は成立しない。
仮に「なかよし」とは、「気を使わなくていい関係が自然に出来上がっている間柄」とするなら、それが理解できないと、どこに行っても孤立してしまうのではないだろうか。
もちろん、苛烈ないじめを受けている人には、居場所を変えることは生き延びる事であるし、その事によって人間関係を再構築できる可能性もあるので大賛成である。
しかし、被害者意識が強いことで、周りとの関係をこじらせてしまうケースは、当事者がそのことに気づかなければ、場所を変えても同じ躓きをしてしまう危うさを内包したままなのではないかと思う。
そして、保護者が過保護であり続けたならば、その児童は保護者から自立しない限り、不のスパイラルの中で悩み続け、社会に溶け込めず、いつか引きこもってしまうのではないだろうか。
はたして、小学校の合併問題は、そのような問題も考えた上で進められているのだろうか。
こんな身近な出来事ですら、分からない事ばかりである。
そういう時の妻は話の途中の質問は受け付けない。だから。うん。うん。とただ頷く。
しかし、真逆な価値観を持つ妻の話は興味深く、色々考えさせられる。
妻は推進理由として、1学年1クラス15人未満の生徒数では、生徒間のコミュニケーションは意外と難しいのだと主張する。
それは教育者として働いていた頃の実体験を通しての結論でもあった。
それに対し、僕が小学生の頃は、1学年1クラス25人で6年間を同じメンバーで比較的のんびりと過ごせていたので、その考え方が上手く受け入れられなかった。
しかし、実際に、生徒数が15人くらいであると、きれいに2グループができ、どちらのグループにも上手く入っていけない児童は仲間外れにされていると思うようになってしまったのだという。
それに対し、グループ内でコミュニケーションを図れている児童達は、その児童を特別仲間外れにしたわけでも、イジメたわけでもなく、フラットな付き合いを続けていたそうであるが、どちらのグループにも溶け込めなかった児童は仲間外れにされているのだと勘違いを起こし、そのことを保護者に伝えたところ、過保護だった保護者は、学校に出向き、改善を求めるように訴えたそうである。
ところが身に覚えのない生徒たちは、「?」となり、教員も、他の児童の保護者もその状況に困惑。
そして、その家族と深く付き合うと後に大変になると思った保護者達は、その家族から少し距離を取ることになったそうであるが、そのことによってさらに状況をこじれ、その児童は転校してしまい、後味の悪い結果となってしまったらしい。
妻はその出来事から、生徒は沢山いた方が逆に孤立しにくくなるから、合併した方が生徒達にはよいと主張するのであった。
確かに妻の実体験から導き出した答えは妥当であると思う。しかし、生徒数が多くても、上手く溶け込めない児童は、活発な児童たちの中に埋没してしまっているだけになるのではと思った。
「なかよし」とは、周りが私に気を使い、私を仲間として承認しなければならないという立ち位置では、「なかよし」は成立しない。
仮に「なかよし」とは、「気を使わなくていい関係が自然に出来上がっている間柄」とするなら、それが理解できないと、どこに行っても孤立してしまうのではないだろうか。
もちろん、苛烈ないじめを受けている人には、居場所を変えることは生き延びる事であるし、その事によって人間関係を再構築できる可能性もあるので大賛成である。
しかし、被害者意識が強いことで、周りとの関係をこじらせてしまうケースは、当事者がそのことに気づかなければ、場所を変えても同じ躓きをしてしまう危うさを内包したままなのではないかと思う。
そして、保護者が過保護であり続けたならば、その児童は保護者から自立しない限り、不のスパイラルの中で悩み続け、社会に溶け込めず、いつか引きこもってしまうのではないだろうか。
はたして、小学校の合併問題は、そのような問題も考えた上で進められているのだろうか。
こんな身近な出来事ですら、分からない事ばかりである。