さっき郵便受けを見に行ったら、放送大学から「入学許可書」と「入学者の集いのご案内」というお便りが届いていた。
4月8日(日)の午後、渋谷で(私の所属学習センターが渋谷なので)「入学者の集い」なるものがあるとのこと。
学習についての注意や学習センターの利用のしかたなど、学生生活を過ごす上での必要事項を説明するので参加してください、とあった。
それって入学式みたいなもの?
どんな格好で行けばいいんだろ。
こわいなあ。
いよいよ始まる、と思ったら、急に胃が痛くなってきた。頭もがんがんする。
私に学生が務まるのか。
早くも逃げ腰。
どんどん下降していく感じの中にいる。
自分の部屋のベッドで寝ることに新鮮味がなくなったら、何も楽しいことがなくなった。
掃除も片付けも一生懸命やってたのに、どうでもよくなってしまった。
革のペンペースとカステルの素敵な鉛筆を買ったけど、届いてみてもわくわくしないし。
クラスが終わってしまった。しばらく出かけるところもない(お医者さんとか銀行とかスーパーとか以外)。
人に会わないって、こんなに何もかもがどうでもよくなるものか。
友達に困った出来事が降りかかって、その解決を手伝った。
すごく喜んでもらえて、役に立てたことがうれしかった。
友達が「タラさんは優しい、本当の心遣いのできる人」と言ってくれた。
私は優しいだろうか、と考えている。
クラスでも、「優しい」と言ってもらったことがある。
誰かが困っているとき、悩んでいるとき、私に何ができるか、どうしたらいいのか、すごく迷い、悩む。
できることは何か、どうしたら相手は楽になるか。頭がいっぱいになる。ある意味、夢中になって助けようとする。
そこが私の個性でありいいところ、と、主治医の先生が言ってくれたこともあった。
私は優しいだろうか。そして、それは本当に長所であるだろうか。
私が優しい人間でないことを一番よく知っているのは私だ。
人が悲しい気持ちになると、自分が悲しくなってしまう。その自分の悲しい気持ちを解消したくて必死に動いているにすぎない。
自分が楽になりたいだけなのだ。
そして、人の悲しみがそのまま自分の悲しみになるということは、私の問題点であり課題だと思っている。
私は正直、本心ではそういう「人のことを自分のことのように感じる自分」が好きだ。
でも、それがとても危険だということ、本質的には正しいあり方でないということを知っている。
多分、今のもやもやは、そのあたりなんだろう。
午前中、気分転換に少しコラージュをやって過ごした。画用紙に好きな写真やイラストなどの切抜きをただ思うままに貼っていく作業。スクールで2度ほどやって、はまった。
表現することで気分は楽になる。文章を書いたり絵を描いたり歌を歌ったり楽器を奏でたり、何でもいいのだけど、コラージュは「へたくそ」と自分を責めなくてすむ方法だし、気軽に取り組めるという点で気に入っている。
画用紙がなければ手帳の空いているところにちまちまとお気に入りの雑誌の切抜きを貼ったりすると、後で見ても楽しいし、手帳にその分、愛着も増すし。
27日、一日遅れで母の誕生祝いを子どもたちも誘ってすることになった。
祝いたい気持ちがないではないし、プレゼントを選ぶのも楽しかった。ただ、集まって食事をするのが正直めんどくさい。気が乗らない。
そう言ってプレゼントだけ送ればいいのだけど、楽しみにしている母のことを思うと、とりあえず私が我慢して行けばいいんだから、と思ってしまう。あーあー。これまでのパターンじゃないか。進歩ないなあ。
まあ、そんなふうに、さえない気分の中で暮らしているけれど、なんとかこの重苦しさを打破しようともがいてもいる、というところです。
ではまたね。
ごきげんよう。