見出しの言葉は、中国から来た言葉ではなく、日本人が造った言葉だと思われます。そして今が正しく「麦秋」です。住宅型有料老人ホームの五階から眼下の田畑を見下ろすと、煙霧の下に黄金色に染まった田畑が見えます。この時期の黄金色は麦が実って輝いている色です。勿論秋の黄金色はお米が実った色です。
此処で気になることは「麦秋」と云う言葉を知らない人にはこの景色はどうみえるだろうか?ということです。唯物論哲学の基本命題は実態が先か言葉が先か?でしたね。
2~3歳のころ母親から路傍の草花を見て「きれいね!」と話しかけられた子は大人になって路傍の草花を見つけ「綺麗だ!」と感動する人になる。夕焼を見て母親から「綺麗だねえ!」と話しかけられた子供は、「夕焼けは綺麗だ」と思うようになるという考え方だ。「実存が概念に先行する」と云う世界観である。これはこれで立派な世界観で論理的にどこかで破綻することはないとおもわれます。
ところで、実存が概念より先行するという考え方を「人間」にあてはめるとこの地球上に「人間と云うものはこういうもの」と云う概念があって、我々はその概念の通りに考え、感じ、行動しなければならなくなります。でもよく観察すると犬はいつも犬の通りに行動しているが、人間はどうもそうでもないらしい。人間だけが絶対自由のようなものを持っている。
だから、人間はいつも「人間とはこういうものだと云うことを主張していることになる。全ての人間は自分の行いを通して「人間とはこういうものだ」ということを主張していることになる。その主張は勿論責任を伴う。「親が死んで子供が泣けば、そのこどもは、人間とは、親が死んだら泣くものだ」ということを主張していることになる。つまりそれはそれで人間に対して責任を負うことになる。かくして、サルトルの実存主義へと導かれる。麦秋から酷く脱線しました。まあ学生時代友人と夢中でこんな話をしていたことが懐かしく思い出されます。シツレイシマシタ。(T)
五月雨と麦秋
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