「おいとまを、いただきますと、戸を閉めて出てゆくようにいかぬなり、生は」(斉藤史)と云う記事を朝日だったか毎日だったかの短歌欄で見つけたとき雷に打たれたように母のことを思い出しました。
当時兄は大阪の大手金属会社に就職していて社宅住まい、妹は東京へ嫁いでいて、僕だけが家から勤めに出るという生活であった。当時の母は、
生涯で一番のんびりした生活を楽しんでいて僕と父の食事を用意していてくれていた。
そのころから、女学校時代の友人との会合が多くなり昔の恩師《国語》を囲んで「源氏物語」を読む会とか「短歌の会」とかによく出かけていた。源氏物語も「葵の上」だったか、を女学校の国語で習ったようで、その時の先生が「他の章は、皆がもっと大人になったら読みなさい」と云われたとか。それを覚えていた友人がその先生に話を付け友人を集めて「女の怨念」を描いた部分を読んだりしていたようです。
短歌の方も当時私立高校の国語の先生を指導者に招いて「歌会」を定期的に開き母は皆出席だったようです。
短歌にはいろいろな流派があって、母が習っていた先生は長野に本部のある何とかいう流派でその大先生が斉藤史先生だと聞いていました。
斉藤先生はお医者様の奥様で定期的に歌会を主催され、その歌会には全国から参加者が集まり皆が詠んだ歌をみんなで合評し合い最後に斉藤先生が講評されるといううた会のようでした。
母もそこに参加させてもらい、斉藤先生のアドバイスが実に的確でチョットこう直されるとよかったですねおっしゃる赤ペンがすごくよく、感動的だったと云っていました。
その斉藤先生がご存命で新聞の短歌の選評者を務めておられると知って母が生きていたらキット切り抜きを造って教科書のように大切にしたことでしょう。そのことを思い出して改めて母の冥福を祈りました。(T)
(追記)母が所属していた短歌の会は確か「しるべ会」とか言っていました。
) 晩秋の散歩道で。
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