オソマツ君は10年ほど前友人のSさんに誘われてネパールを訪問し2週間ほど滞在したことがあります。その時知り合ったネパールの若い人たちは無事だったろうか、ご家族にけがはなかっただろうかと、一人ベットの上で心を痛めています。Sさんは京都大学のご出身で、犬山のモンキーセンターで、サルの社会における各種のルールを研究しておられる研究者でした。
そのSさんに、大学の恩師からあるミッションが与えられたと云います。それは、最貧国ネパールを何とか救えというミッションだったと云います。ネパールの貧困が続くと、そのうちに、中国から毛沢東派と名乗る武力革命集団がやってきて、暗躍し始めヨーロッパを始め日本やアメリカからヒマラヤ山脈を愛する登山家がネパールを訪問したとき襲われたりするようになり、人類の歴史にとってマイナスの時代になってしまう。それを事前に食い止めたいと恩師はお考えになられたといいます。
発展途上国の援助で一番悪いのがお金を時の政府にあたえることだそうです。悪徳商人が甘い汁を吸い取るだけで、国民が潤わない。
二番目に悪いのが、建設機材を贈ることだそうです。たとえばブルトーザーを何台も贈与しても、メンテナンスができないので、数年で鉄くずになってその辺に放置されることになってしまいます。
一番いい援助は現地の若者とともにいい事業を起こし、若者に複式簿記を教え、事業計画や、資本金の集め方を教え、責任者の決め方や、責任者の権限を教えて、若い人が自国の発展に立ち上がるためのノウハウをおしえてあげることだといいます。今風に言えば、現地の若い人たちに実践を通して「簿記とコーポレイト・ガバナンスを教えることだ」ということになります。
Sさんたちは実際に現地の若い人たちとお金を出し合い小さな株式会社を立ち上げ、皆に喜ばれるものを生産し、みんなが買える値段で販売し、従業員を雇い、給料を払い、株主配当も支払う一切の規則や会計処理や企画、経営を若い人たちに教えたといいます。
最初に興した会社は山を歩き、いい粘土の取れるところを探し、そこから粘土を掘り出し、その粘土を型にはめて、土管の形にして、それを焼いて土管を造り、次の会社でその土管を使って各家庭のかまど(竈)に煙突を創る工事をすることにしたそうです。ネパールの各家庭には土で作った竈が家の中にありましたが、煙突はなく湿った薪を焚くとすごい煙が出て、ネパールのお婆さんは眼が悪いか喘息など、呼吸器の悪い人が多かったといいます。Sさんたちが帰国してからも二つの会社は順調に大きくなり、雇用が生まれ給料が支払われ、家庭が潤い、彼らが企画する会社には株主になることを希望する人も多くなり、確実にネパールのGNPの拡大に貢献したといいます。
Sさんたちが帰国して数年が過ぎ、ネパールの若い人たちがSさんに遊びに来い!。会社を見に来てくれと再三のお誘いがあってSさんも行こうと思い立ち、ついでに親善民間交流と名前を付けてオソマツ君たちを誘ったというわけ。
ネパールで思い出すことは第一に村の子どもたちがはじめて見る私たちにもキチンと両手を合わせて「よく来てくださいました」と云う意味の言葉をネパール語で云ってあいさつしてくれたことです。ネパールは仏教国で、すぐに手を合わせます。手を合わせるのは感謝のいみだそうです。次に思い出すのは、何と言っても8千m級の山が連なる白銀の壁に朝日が当たって神々しく光る圧倒的な風景です。日の出前に展望台に立って日の出を待ちます。東の地平線から太陽の光が差し込んだ時の一瞬の感動は言葉にできません。天の一角からベートーベンの交響曲が聞こえてきた感じとでもいうのでしょうか。まさに壮大な地球の自転を見せて頂いた感じです。
ネパールの首都はカトマンズでオソマツ君たちが滞在していたのがポカラと云う町でした。まあネパール全体と云ってもいいと思いますが、ステキなお茶の産地です。標高が高いので毎 朝濃い霧が発生します。10時ごろには霧は晴れますが、紫外線は強いのです。これが、いいお茶をそだてるのだそうです。お茶と云えばインドのダージリンですが、ネパールもダージリン(インド北部の地名)もおなじ気候で、ネパール産のお茶もダージリン茶のブランドで売られているといってもいいような、状況です。ネパールの農産物はお茶とトウモロコシとジャガイモといったところです。コクのある美味しいお茶をみんなよく飲んでいます。
出発前にSさんから連絡が入りました。「引き出しをひっくり返しそこから出てきた文法具ーボールペンやシャープペン、シャープペンの芯や消しゴム、三角定規や分度器。コンパスや小さな定規、全部持って行って子供たちへのおみやげにしましょう・同じように、各家の道具箱をひっくり返し、使われくなった、ドライバーや金槌、切れなくなった折り畳み式鋸やくぎ抜きや鑢などを持って行って、青年たちへのお土産にしましょう、と。事実、とても喜んでくれました。針金一本でもアルミ線でも銅線でもステンレスせんでも、ネパールでは貴重です。ノートやメモ用紙でもそうです。日本は、物を粗末に扱いすぎていると思います。
私たちは、山小屋のような小屋で寝泊まりしていて、連日Sさんが育てた若者たちが女の子を連れて訪ねてきて、料理を作ってくれるので、キャンプ生活のような食事と散歩を楽しみました。会話は、怪しげな日本語と英語、他とは身振り手振りです。日本語の上手なこもいました。あのよく笑った若者たちは怪我がなかっただろうか、多くがいいお父さんやお母さんになっていることだが、その家族に怪我はなかっただろうか。とおもうばかりです、もし彼らが日本に来たらうちへ泊めてやってもいいし奈良の大仏ぐらいへ連れて行ってやりたいが、こんな体になってしまって自分が車いすでは、何ともなりません。
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