オソマツながら、先日誕生日が過ぎた。此処まで来ると、自分が何歳であるかも定かでない。日本人男性の平均寿命は確か77~78歳だったので、其れは越えた。正に馬齢を重ねた感じだ。
子供の頃はよく扁桃腺炎になり38度以上の高熱を発して母親に氷枕を造って貰って4~5日ねていたものだ。それが、敗戦によって、アメリカからペニシリンがどっと入り保険適用薬になって、すぐ治るようになった。
家は一応小地主のいえであったが、戦後の改革で「農地解放」で安い値段で農地を国家に買い取られ、しかもその代金は25年払いの市価を下回る安値。あれは、一種の革命であったと思われる。
僕は次男で都会へ出てサラリーマンを夢見ていたが、兄が国立大学の工学部を出て大阪の会社に就職した。その会社の寮に入りそこから通勤することになった。ここで騒ぎ出したのが僕の両親で、誰か家に残って農業をしながら両親と同居してくれなかったら、年老いた親はどうするんだ?というわけだ。母親は僕にお前は学校の先生か市役所に勤めて自宅通勤でとにかく、親の面倒を見て呉れなければ、年寄りは自殺するしかなくなる。と騒ぎ始めた。僕が高校3年のときである。
そこで、僕は教員養成系の大学へ進み、大学生の時どうせ教員になるのなら、高校の教員がいいと思い始め、国立の教員養成系の大学の数学科に入った。大学の数学を学んで腰が抜けるほど驚いた。当時工学部系の数学は微積分が中心で計算力がものを言ったが、理学部系の数学は、新しい空間の提示により新しいルールによる計算を少しするだけで、その空間内でどんな定理が成り立つかの研究が中心だったからである。
その頃兄は工学部で難しい微積分や、微分方程式を解く計算を盛んにしていた。僕が学んだ大学は、偏差値が高い大学ではなかったが、先生には恵まれ、世界確率学会の機関誌編集委員をしておられる先生にもお世話になり、大学院への進学を勧められたが、勧められた大学は東京か京都か広島であったので、親に相談するまでもなく辞退した。高校教師になってからは、進学やろうと呼ばれる教師だった。
大学進学を希望する生徒のために早朝補修をし夏休みも始業時間早めての補修を引き受け、福井県の松原海岸から一の宮まで、車を走らせて補修をやった。英語や理科はよくできるが、数学だけつまずいて有名国立大学に入れないという生徒を僕が数学の面白さを教え、彼らを夢中にさせ3月に見事合格して喜ぶ生徒の顔が忘れられなくて夢中になっていた。あのころはよく酒も飲んだ。
当時の高校教員は日教組と呼ばれる教職員組合に入っていた。掉尾は「べ平連」とか「原水禁」と云う組合運動が盛んで。僕はそれぞれの団体の機関誌に目を通していた。あるとき、組合の幹部が、アメリカの原水爆実験には反対するが、ソ連の実験には反対しない!」と云い始め呆れた。彼らを「思考停止野郎」と名付けてバカバカしくて議論さえせずその組織を脱退した。当時の日教組は宗教活動のようであった。それにしても、頭のよくない僕がいい友人と素敵な先生に恵まれたことは正に不幸中の幸いであった。今思い出しても友人や先生方には、心からお礼を申し上げたい。(T)
夕日に映える雪山
きっと大野さんの人柄や授業に魅かれ 生徒さんの中には立派な数学者も生まれているのではないかと思っています。大野さんの言われる通り数学科の数学とそれを応用している他の学科が使う数学とは数学そのもの以外に数学に対する考え方 期待の仕方も違っています。したがって数学科では非常識と思われる数学の使い方もしているように思います。