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ブログ武産通信(たけむすつうしん)2015年11月14日に
合気道武産道場に掲げてある開祖植芝盛平の写真。ハワイ・マウイ島の最高峰に立って瞑想する植芝盛平翁の姿が、ラグビーのワールドカップ(W杯)で活躍した五郎丸歩選手のキック前のポーズの
手の組み方「印」に似ている。
「自分の心を整えれるのは、自分の行動でしかない」 五郎丸歩
「武産合気とは、真武によって世界人類の和合をはかり、万有を普遍愛でつつみこんで行くものなのであります」 植芝盛平
時の人となった五郎丸選手と気の大家が同じようなポーズをする
なんとなく気になり植芝盛平氏に関する情報を見てみていました。
1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。この時も相手の木剣が振り下ろされるより早く「白い光」が飛んで来るのを感知して相手の攻撃を素手でことごとくかわし、将校は疲労困憊し戦闘不能に陥ったという。その直後盛平は井戸端での行水中に、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験に遭遇、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という理念的確信と「気の妙用」という武術極意に達する。(「黄金体体験」)
昭和13年(1938)に開祖が出された『武道』に『合気の鍛錬』の項があり、「合気は練習の徳に依りて自然に会得し得るものなり 詳細は口授す」と書かれています。
開祖は、惣角先生の指導から離れ、王仁三郎師から『言霊学』を学び、流儀名を『合気武道』として神人合一の武道を目指していましたが、その武技の根幹にはこの『合気』というものがありました。
前掲の『武道』にも「氣のみわざ たまの志づめやみそぎわざ みちびきたまへ天地の神」
「鍛錬のみのりにたまふ合氣の身 唯ありがたく稜威仰よ」
という道歌が載っています。
翁先生は、戦前は解らず力で稽古していた。今は力は不要。此れが武産合気じゃと申された。
そしてその訳を話してくださいました。
終戦の年、病で倒れ気が虚ろになり(天国に)行こうとすると、天女が私に火を吹きかけてきた。
それでも行こうとすると、一人の僧が出てきて帰れと言う。お顔拝見と言うとまだ早い、修養がたりないと語られた。
その後病が回復され、合気神社に参拝しようと思い参道を行くと白い人が見えた。
良く見るともう一人の植芝が木刀を構えて立っているから、打って行くと打たれた。また打つと打たれた。
今度構えていると、ぱっと消えた。この時から柔らかい技に変わった。其のとき『松、竹、梅』の剣法を会得した。
これが翁先生が武産合気の命名の由来だと申されました」
この白い人(白い幽体)との稽古は次のとおりで、終戦の年、2週間続けられました。
「最初はこれを私の錯覚かと思った。
自己のうちに天台(天の浮橋)をつくり、自分が天地と宇宙と常に交流するように心がけていた。 それでものを起こそうとする時、目の前に白い光ものの玉が現れ、その中に今一人の私が立っている。 そして私が扇子を持つと、相手の私も持つ、私が突いてゆくと、相手に突かれる。慢心など出来なかった。 それは錯覚ではなくて私の修行であり、これによって私は常に進歩出来ると思ったのです。
それは丁度、体の方では潮の干満のようなもので、波が来る即ち打って来ると波の花が散るように陽になって音を生じる。 息を吸い込む折には只引くのではなく、全部己の腹中に吸収する。 そして一元の神の気(愛の気)を吐くのです。
それが社会の上なれば、自分の宇宙にすべて吸収して、また社会を神の気で浄めるということになります。
霊の相手が突いて来る。突いて来る光にのって、光を捕えて、即ち突いて来る光に同化する。 それを光の架け橋として、今度はそれに向かって自分が進む。このような体験に私は日々あった。 だから日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満とこの四つの宝を理解せねばだめなのです。
もう一つ、澄み切った玉(真澄の玉)が必要です。 この五つのものが世界を浄め、和合させると思っている。(中略)
今日は魄(物質的)の上からもテレビのようなものが出来、遠隔の地のものごとが見え、そして判るようになりました。 それがもう一歩前進すると、精神の花が咲き、精神の実が結ばれた折には、全部の人は互いに個々の想いが絵のように己に映って来て、すべてが判るようになる。 その日のあることを確信しているのです。
合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。 つまり精神の引力の働きが進むのです。そしてこの世界を一目に見るのです」
戦後になって開祖の技が変わった。相手が近付くと、触れない前に宙に飛ばされるようになった。 気とか霊が見える人が見ると、開祖の体から金の線が出ていて、相手がそれに触れると飛ばされている、と言われるようになったのは、 この白い幽体との稽古の後でした。
「私の武産の合気は宗教から出てきたのかというとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内であります」
合気道は宇宙の真象そのものであるとの強い言葉です。宇宙の真象を掴み得た者のみが言える言葉です。 このことをしっかり認識しておく必要があります。
現在でも、科学的な用語で『気』を説明するのが困難なことを考えると納得出来ますが、宇宙の真象を誰にでも分かる言葉で説明することは難しいことです。 開祖にとっては、宇宙の真象を説明するためには、信じているままに概念がはっきりしている宗教的な言葉、神道的な言葉を用いるのが一番ぴったりしたものでした。 これ以外の方法としては、言葉ではなく合気道の技で示すしか手段がなかったことと思います。
「一霊四魂三元八力の大元霊が一つなる大神の御姿である。大神は一つであり、宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄の姿である。 すなわち天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ(ゝ)一つ忽然として現わる。
このポチこそ宇宙万有の根源なのである。
開祖が解明した宇宙の真象は、『我即宇宙』から発展して合気道の技にまで掘り下げられます。それが『三元の法則』と呼ばれているもので、これによって「天地と共に順調な歩みができる」とされるものです。宇宙根源の気(「主(ス)」の神)によって宇宙、地球、人間などが造られますが、その創造のエネルギー(言霊の力、気の力、愛の力)即ち産霊(むすび)の力による宇宙と人間創造の業が合気道になるのです。
「一霊四魂三元八力の大元霊が一つなる大神の御姿である。
大神は一つであり、宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄の姿(生成発展のエネルギー、天地創造の力)である」、そして「合気とは、言霊の妙用であります。 言霊の妙用は一霊四魂三元八力の分霊分身である」となります。
後年、開祖が、「私の真の姿を認めてくれたのは、五井(昌久)先生と出口王仁三郎聖師だけだ」と話されている
五井昌久氏は、ウィッキペディアによると
大戦終了後、日本のため、人類のために自分の命を捧げたいとの想いが湧き、宗教心が芽生える。岡田茂吉の霊線療法に興味を持ち、岡田の弟子に講習を受け病人の治療を開始する。また、生長の家の谷口雅春の教えに感銘を受け弟子になる。生長の家の講師として活動を開始するが、後には生長の家から離れることになる。
1949年(昭和24年)、厳しい修行の後、空の境地(悟り、正覚)を体得したとする。
1955年(昭和30年)2月、千葉県市川市に宗教法人「五井先生鑽仰会」を設立(なお、もともと「五井先生鑽仰会」は、五井を師と仰ぐ人々によって結成されたものである)。のちに「白光真宏会」と改称。
当初の活動は、人生指導や病気治療を主とした活動であったが、その根底にある思想は、人々の心が平和になることによる大調和世界(完全平和世界、地上天国)の実現であったとする。
出口王仁三郎聖師との関係では
「植芝は、私に入門したころは弱かったよね」
鈴木新吾という人は、確かにそう言った。じつは植芝盛平は兵役を終えたあと、和歌山の田辺で、この鈴木に柔道を習ったのだという。
「熱心なのはいいけれど、ヤブに肥桶を隠して稽古にくるから臭くってねぇ」
その後、植芝は武田惣角という人に習った(大東流合気柔術)。
そして再び、鈴木新吾のもとを訪れた。
「あのときもダメだったよね。大東流を習ってきたから負けない、なんて言いながら、やっぱり弱かったよね」
植芝は投げようとした瞬間に投げられたという。爪先でポーンと飛ばされ、腰をしたたかに打ちつけた。
「あのときは、一ヶ月寝込んだよね」
へんな昔話をされた植芝は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
一方、一緒に話を聞いていた藤平は驚いた。
--あろうことか鈴木さんは、私の目の前で植芝先生が「弱かった」と言われたのだ。それまで神格化されて伝えられていた植芝先生のイメージとは、あまりにもかけ離れたものだった(藤平光一『氣の確立』)。
小説などで植芝盛平は、戦争で敵の銃弾の軌跡を見切ったり、また北海道での開拓団時代には悪者たちを何人も叩き伏せたり、さまざまな武勇伝が描かれていた。
「でも、あのときには強くなっていたね」
鈴木の話によると、どうやら植芝盛平は大本教に行ってから強くなったらしい。
しかも、別人のように劇的に。
植芝自身、大本教の影響はよく口にしていた。
「修行が終わって、ぱっと水を浴びて歩いていたら、世の中が黄金色に変わっていた。見ると、自分の身体も黄金色になっていく。そのときに、虫の鳴き声、鳥の鳴き声がみんな聞こえた。天地の神々が紫色の煙になって入ってきた」
その体験からか、植芝は朝から晩まで祈っていたという。
「これをやらないと天地の神が来ない」
あげていた祝詞(のりと)は、神様の名前だけでも百八あった。
なにごとにつけても、開祖というものは神格化されやすい。
植芝盛平も然り。500mもの距離を一瞬にして駆け抜けたとか、大木を引き抜いたとか、壁を生身で突き抜けたとか…。
--困るのは、こうしたデタラメが幅をきかし、虚偽の人物像ばかりが一人歩きすることによって、植芝先生が実際にやられた偉大な功績まで、すべてが嘘だということになりかねないことだ。
--ただし、これはハッキリと書いておくが、植芝先生はとにかく強かった。押しても突いてもビクともしない。鋼鉄のような感じで、なぜこれほど強いのだろうかと、いくら考えてもわからないほど圧倒的に強かった。これは間違いのない事実である。その実力はまぎれもなく本物だったのである(藤平光一『氣の確立』)。
藤平光一は、知人の紹介で中村天風と出会った。
その頃の藤平は、合気道の師・植芝盛平との愕然とした力の差に、もがき苦しんでいた。
--あいかわらず植芝先生には、もの凄い力を感じていた。私がいくら先生に技をかけようとしても微動だにしない。いったい、この違いはどこからくるのだろうか? 一生懸命考えてもわからない。最後の壁がどうしても越えられないのだ(藤平光一『氣の確立』)。
そんな悩める藤平の前にあらわれた中村天風。
はっきりとこう言った。
「心が身体を動かしているんだ」
その一言に藤平はハッと気がついた。
「あっ! そうか」
それまでバラバラだったピースが一つにまとまる瞬間だった。
「こんな大切なことを忘れていたのか…!」
「心が身体を動かす」ということに気づいた藤平は、もう一度、植芝盛平の動きをじっくり観察してみた。
するとやはり、植芝先生は必ず最初に心を動かしていた。それから身体が動くのであった。先生は相手の気を導き、そして身体を導いていた。
相手の気を知るには、こちらが完全に力を抜いていなければならない。そうして相手の気を尊ばなければ、それを知ることさえできない。植芝先生は、完全な自然体で相手の気を導き、ポンポンと技を決めていた。
--そこに気づいてからというもの、植芝先生の教えが全部わかってきた(藤平光一)。
藤平光一氏は、昭和44年植芝盛平が亡くなる3ヶ月前に、公式に最高段位である10段を許される
昭和18年12月、昭和新山が噴火のはじまり
昭和19年6月 日月神示の自動手記のはじまり
終戦の年、万有を普遍愛でつつみこんで行く武産合気が産出される。
終戦当時、平和への鍛錬を積む精神があった。
今の精神世界の状況に鍛錬という言葉は探すのが難しいように思います。
五郎丸選手の活躍というのは、天地の心へ体を動し鍛錬せよ
と囁いているように思えます。
今年は、精神の鍛錬を実行してみます。
青蘊さんは勉強家なんですね。
しかし、良い写真ですね。
実業団に所属していた元日本代表の
ラグビー選手が知人に
いるのですが
五郎丸選手のポーズがワールドカップで
有名になったとき、この方に意味を
確かめたんです。
そのとき、ヨーロッパの選手がこれをやっていて
五郎丸選手が後からこれをやったような事を
聞きました。
ヨーロッパも歴史がある国が多いので
何か意味があるのかもしれませんね。
アイルランド系の選手であれば
必ず意味があるはずですが
どの国の選手がやっていたかまでは
知人も知りませんでした。
お知り合いならではのコメント、ありがとうございます。
ケルトといえば融合する紋様を思い出します。
ケルトの妖精神話は、八百万の神を崇めた自然崇拝と共通のものを感じます。
ケルトの世界を連想させるエンヤを、今でもよく私は聞いています。
合気とは、気を結ぶことで産みだされると書いてあったように思います。
天地を崇めて気を鍛錬してゆくと共鳴するものがあるのかもしれませんね。