図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

真経津鏡(まふつの かがみ)

2013-03-10 13:29:14 | 日記

『日本書紀』には八咫鏡(やたのかがみ)の別の名に真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されています。
真の経の寄せる鏡とはいい名です
仏法的に言うならば、明鏡止水の心境でしょうか
神社にはご神体として鏡が祀られています。
カムナガラにいたるには、心のかがみの中からがを取ってかみになる。

神道の大事な思想のひとつに「中今」(なかいま)
というものがあります。
今を懸命に生きることが神の道、
というあたりまえのことなのですが、
ここでいう今とは、過去と未来を内包して、
永遠に続く中心点ととらえます。
過去は過ぎ去った今、未来はこれからの今、
人は常に瞬間の、今しか生きることができません。

「中今」(なかいま) のわかりやすい解説と思います。
ただ、目に見える世界を優先する時代の答えのように感じます。
日月神示のなかに生前生後死後は一連の存在とあります。
目に見えぬ世界から目に見える世界が生まれるとするなら
先祖の想いがあり、今の自分の想いがあり、子孫の想いが産まれる。
この一連の存在を弥栄えるには今の自分が弥栄えること。
さらに先祖の想いの奥底には命の親の想いがある。
今を懸命に生きることのために
天地自然に想いを巡らしているでしょうか
先祖の想いに想いを巡らしているでしょうか

目に見える世界は目に見えぬ世界からうまれていることに気づかぬから
震災がおこり、風が暴れ、雨が暴れ、雪が暴れ、太陽が暴れ、天に星が輝き、大地が動く
目に見える世界だけの価値感で大地に感謝をささげても
形を変えてヒズミが現れるように感じます。

岡本天明氏は、天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、
社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こりました。
天の日の寄せる神社という名もいいですね。

八咫鏡(やたのかがみ)をブログに書こうとしたころから
同じ場所で駐車すると同じ烏(?)が車に寄ってきます。
あまりに続くので八咫烏を調べてみました。
八咫烏と金鵄は、しばしば同一視ないし混同される。
黒の烏と金のトビ正反対の色が同一視されるとは不思議。
そのころ久しぶりに山の上神宮へ参拝する長い幸い坂を登っていると烏の鳴き声
バタバタと音がするので烏に狙われたかなと思ったら
鳩が7・8羽寄ってきました。
気にせず上っていくと飛んで追いかけてきます。
立ち止まると足元に7・8羽寄ってきます。
不思議に思って眺めていると
鳩の首の羽毛は風や位置の角度の変化で色相の反対に近いピンクと緑に変わることに気づきました。
なんとなく同じものが反対の意味を持つという気持ちになりました。
「山も友ぞ、川も友ぞ」であれば森羅万象が友。
よくひふみ神示のなかにかかれている立体的に考えること、
初めは辛いなれど、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなる
などと連想しました。

日本に息づく神道、古神道は経典もなく戒律もなくとも深い深い内容が伝えられているように感じます。
聖書は克明に記録されていますが、キリスト自らはなにも記録していません。
お釈迦様は経典は作るなと伝えたのに
何百年後に如是我聞として仏典が作られます。

古への神殿では神を祀ることが一番大切であったこと。
ピラミッドは太陽神を祀る場であったこと。
目に見えぬ日と月の運行を大切にしていたことが
ストーンヘッジ、ストーンサークル、マヤ暦として残されています。

目に見えぬ世界を大切にした古への世界への回帰を日月神示は伝えています。

目に見える世界だけの価値から

目に見えぬ世界と目に見える世界を結んだ価値感へ


本当に大切なのは自らの中にある内なる神の声を聞くこと。

真経津鏡(まふつの かがみ)はそう語りかけているようです。


神のこころにかようこそ

人のこころのまことなりけれ

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