昨日は「論語の会」。正確にいうと、「順受の会」という。
21年も続いている勉強会。昔は各地に読み書きそろばんや手習い
を教える寺子屋があった。天真庵の住所・墨田区文花・・からとって
「文花的な寺子屋」と称して、いろいろな勉強会をやっているけど、
順受の会が、その真ん中にある。読み書きの「書き」が今日ある。「書をしよう会」だ。
天真庵の玄関横に風雪に耐え、古色蒼然たる建物と同化している看板の字
を書いてくれた貞本さんが、月に一度やってきて書を指南してくれる日。
論語の会と書の会の人は、二階の厠にいく時に、床の間の軸を見て
いろいろな感想をいう。
今年は申年なので、正月に中川宗淵老師の軸をかけた。
坊さんであり俳人であった老師の俳句が揮毫してある。
「申年の ひゆく人寿 無量かな」
人寿の二文字が真ん中にどーんと力強い。混沌とする世の中の真ん中に
泰然自若とした「人寿」 そうありたいものだ。
明後日は「福の会」 示す、とは、神棚の象形文字。田んぼで採れたお米、畑で採れた
野菜を、神に手向ける、のを「福」とした。そんな根源的な「ゆたかさ」を勉強させてもらっている会。
ちょうど、その日から「味噌作り」が始まる。口の中に入れるものから、命が紡がれていく。
その根本を大事にするには、ただぼんやりと「おいしいぼりぼり・・:とやっていってもだめだ。
米の一粒一粒、大豆の一粒一粒、そばの一粒一粒に、気をこめてみると、その一粒一粒の
命の輝きが伝わってくる。「粒々皆辛苦」という禅語も、読めば読むほど、米を噛みしめるような滋味
が感じられる。そんなことがわかってくると、酒がもっともっとおいしくなる。これも天地自然の理。
料理とは、その末席に鎮座する命のもとかもなんばん。