ヒトがリンゴを見ているとする。
デカルトは、りんごそのもの(客観)と、
見えているリンゴ(主観)が一致すると。
カントは、リンゴそのもの(客観)の世界は、
認識しえないと。しかし、見ているリンゴ(主観)の
経験については、多くのヒトが共通の経験をすれば、
正しい認識ではないか?と。
ヘーゲルは、あくまで、見えているリンゴを出発点として、
リンゴそのもの(客観)を作り出していくのは、ヒトの成長によって
磨かれる理性ではないか?といったのだろうか?
この3者の背景には、正しい世界認識への渇望があって、
その渇望は、神学とか、僧侶とか、宗教が、それを独占してきた歴史から
うまれたんだろうな。
マルクスは、ヘーゲルをまっこうから否定して、
人間に理性があるなら、理想的な社会になるはずじゃないかと。
しかし、貨幣や資本によって、そういった理性とか、倫理とか、
がぬけおちてるではないか?と。そこで、正しく世界認識すれば、
資本家と労働者の対立があり、それこそ問題だと。
上記のような背景があって、理想社会なんか作れないという、ニヒリスティックな
現代思想の先端(デリダとか)まで
たどりついたと。
でも、竹田先生は、現代思想の向こう側へ行く道があり、
いつでも社会を変えることが出来る可能性があると。
それは、まだ読みかけなので。
デカルトは、りんごそのもの(客観)と、
見えているリンゴ(主観)が一致すると。
カントは、リンゴそのもの(客観)の世界は、
認識しえないと。しかし、見ているリンゴ(主観)の
経験については、多くのヒトが共通の経験をすれば、
正しい認識ではないか?と。
ヘーゲルは、あくまで、見えているリンゴを出発点として、
リンゴそのもの(客観)を作り出していくのは、ヒトの成長によって
磨かれる理性ではないか?といったのだろうか?
この3者の背景には、正しい世界認識への渇望があって、
その渇望は、神学とか、僧侶とか、宗教が、それを独占してきた歴史から
うまれたんだろうな。
マルクスは、ヘーゲルをまっこうから否定して、
人間に理性があるなら、理想的な社会になるはずじゃないかと。
しかし、貨幣や資本によって、そういった理性とか、倫理とか、
がぬけおちてるではないか?と。そこで、正しく世界認識すれば、
資本家と労働者の対立があり、それこそ問題だと。
上記のような背景があって、理想社会なんか作れないという、ニヒリスティックな
現代思想の先端(デリダとか)まで
たどりついたと。
でも、竹田先生は、現代思想の向こう側へ行く道があり、
いつでも社会を変えることが出来る可能性があると。
それは、まだ読みかけなので。