FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

思考を停止させる「近道判断」の心理的行動  「投資の行動ファイナンス」(4)運用ポートフォリオ

2023-04-02 12:47:28 | シニア&ライフプラン・資産設計
ヒューリスティクス



●ブランドや権威で思考停止?
ここでは、投資運用のポートフォリオについて考えてみます。例えば金融機関や運用会社等で提示されるポートフォリオは、どこまで個人の資産運用にマッチしているか。「あなた用」のモデルポートフォリオ(年齢・収入等、個人の一般的な条件によって定型的に構築されるパターン化されたポートフォリオ)は、いくらでもあるとも言えるし、そんなものはないとも言えます。そこで惑わされるのは、行動経済学で「ヒューリスティクス」(Heuristic)と言われるバイアスによるものです。

退職金を一括でもらった退職者は、「一流」ファンドマネジャー、「トップ」成績のアナリストやファンドマネジャー、「最高」のリターン商品、「最新」理論とAIテクノロジー等々、これらブランドや権威に眩まされて「あなた用」に提示された運用商品に身を委ねてしまいがちです。この心理的行動が、「ヒューリスティクス」です。

権威っぽいものなら深く考えず、あるいは思考を停止して納得し、浅い自己の経験則から短絡的に判断し任せてしまいがちです。それが最短最良の判断(近道)であるとする心理によって起こる行動です。金融機関等のものが最初からダメということではなく、金融機関等だからすべて安心という思考停止の回路のことを言っています。

●将来予測は確実ではない ?
ヒューリスティクスは「近道判断」とも言えるもので、権威や実績、経験値などから優良商品として代表されそうなもの(代表性)、高リターンが可能となりそうなもの(利用可能性)が選択判断の基準となってしまいます。そこでは判断は停止され、手間も時間も省け、一般投資家にとっては便利な手段となります。しかし、「あなたのため」に出されたポートフォリオは、権威とブランドと過去の実績のきらめきほどには将来の結果に反映しないものかもしれません。

ポートフォリオ自体に意味がないのではありません。運用における将来予測には確実な方法はなく、また個人にとってもあいまいな将来予測はそれほど重要ではないと知るべきです。

過去の平均を元にいくら精緻な設計通りにつくられたポートフォリオでも、それに迷わされることに意味はありません。それよりも個々のライフプランから個別のリスクを取り出して、個人の生き方や希望を反映した「自分なり」のポートフォリオを作った方が良いということがわかるでしょう。

意識に掛かる「心の錨」(いかり)にとらわれる心理的行動 「投資の行動ファイナンス」(3)賃金格差 

2023-02-23 11:01:18 | シニア&ライフプラン・資産設計
アンカリング(意識の錨掛け)



賃金格差

●大企業との賃金格差は3000~4000万円?
人は定年までにどれだけのお金を稼ぐのでしょうか。そこで統計資料に基づいて調べてみると、大企業と中企業との生涯賃金差はざっと3000万円超、大企業と小企業との差は約4200万円です(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」平成29年度資料をもとに作成)。これらの賃金差がどこまで実感できるかは人それぞれです。平均というのは、単に個別をならしたものだからです。

しかし実際には、人の金銭的価値観は統計的な指標にしばしば捉われがちです。上に挙げた大企業、中企業、小企業の「平均」賃金レベルが、意識のどこかで錨(いかり)のように引っ掛かってしまうからです。これは行動経済学でいう「アンカリング」(Anchoring)です。アンカリングというのは「錨を掛ける(係留する)」という意味で、意識の中でその錨を掛けた所で他人と比較してしまうわけです。

大企業・中小企業にかかわらず、会社の社員は、自分と他人との賃金差は個人の持つ「能力・技能差」によるものだという錯覚があります。じつは、「賃金差の50%は、個別の労働者の技能水準によるものではなく、働いている企業次第である」ということを、行動経済学者も述べています。勤労者が転職したときの賃金は、たとえ技能水準が同じ人でも転職先の企業によって異なってくるというのは転職経験者ならおわかりでしょう。

●「心の錨」を取り払うには
これが現実であって、大企業に入れなかった者は生涯どの時点においても企業規模による賃金差は挽回できないことになります。では、個別的なライフプランを考えるにあたって、「平均」という錨を取り払うにはどうしたらいいでしょうか。

1つは、平均的数字は単なる目安として割り切ったうえで、個人のライフプランの現実を正しく認識することです。収入の多い人もいれば少ない人もいる、支出も多い人と少ない人と多様です。そういった現実からスタートするのです。

もう1つは、「逆アンカリング」という考え方です。人の意識に引っ掛かる(係留される)心理は逆にも応用できます。老後設計においては、まず自分の老後に必要な金額をはじき出し、次にその金額を自分自身の意識に自分から錨を掛けることで、常にその目安に向かって行動するようになります。それが自然に心の錨となって、次第に無意識に定着します。


目の前の現金を衝動的に使いたくなる心理的行動  「投資の行動ファイナンス」(2)退職金

2023-02-11 13:18:13 | シニア&ライフプラン・資産設計


メンタルアカウンティング

●ギャンブルで儲けたお金は残らない?
人は、目の前に思いのほかの大金を一度に置かれると、平常心ではいられなくなります。現金でなくても、銀行通帳に「30,000,000」という入金額を見たら、一時的にせよ舞い上がってしまうでしょう。言うなれば、この大金は尋常ではない、どこからか来た「僥倖」の褒美に思えます。

このように、僥倖的に手に入った金銭を「特別な勘定」と意識して行動することを行動経済学では、「メンタルアカウンティング(心の会計)」(Mental Accounting)と呼びます。心の中で、それ用の勘定科目を設定して帳簿記入するわけです。

例えばギャンブルで一儲けしたお金は、毎月の給与とは別収入として心の帳簿に勘定書きされます。ギャンブルでお金を手にした人は、一夜で使い果たして1円も残らないこともありえます。なぜなら、普段手に入らない特別なお金だから使い切ってもいいのだと心情的に錯覚するからです。

高額の退職金を受け取った人は、何かに使わなければもったいない、まだお金を使いきれていない、という強迫観念に迫られるのです。退職金をどう使うか途方に暮れた挙句、振り込まれた銀行の窓口に出向いて勧められるままに全額投資に回してしまいがちです。大金を減らしたくない思いと、どう使っていいかわからない思いからです。

●退職金は「特別な勘定」ではない?
退職金(一時金にせよ年金払いにせよ)は、老後に計画的に支出すべきお金です。計画的な支出ができないのは、心の中にある「特別な勘定」に支配されるからです。もらった分の残高がなくなるまで使い込んでしまいたいという強迫観念を生むお金になっていくわけです。

退職金は、「僥倖的な」お金ではありません。それは勤労の一部の対価が後からまとめて支払われたにすぎません。ローン返済、リフォーム、退職旅行など、一時的な支出に回すほかは、「通常生活費」として計画的に回るべき勘定としておくことが大事になってきます。

年金を今もらうと得するという心理的行動 「投資の行動ファイナンス」(1)年金

2023-02-01 00:12:38 | シニア&ライフプラン・資産設計


■現在バイアス

●年金は早くもらうと得?
代表的な行動経済学の理論の中に「現在(志向)バイアス」(Present Bias)があります。現在バイアスとは、人は将来得られる利得より、現在得られる利得をすぐに欲したがる、というものです。

これに関連して、公的年金の繰上げ・繰下げについて考えたいと思います。現行制度での公的年金は、本来受給が65歳です。65歳より早く受給したい人は、60歳まで前倒しで早くもらうことができます(年金は減額)。これが「繰上げ受給」です。一方、65歳以降75歳まで後ろに倒して遅くもらうこともできます(年金は増額)。これが「繰下げ受給」です。

繰上げの場合、「早く受給する方が得」と思うのは、利得が目前にあればあるほどその効用は大きくなるからです。つまり、60歳でもらえる年金額は65歳でもらうより、本人にとってはるかに満足度が高い(経済的効用が大きい)ものなのです。

●遅くもらうとどうなる?                               
繰下げの場合、最大の問題は、当たり前ですが受給の開始時期まで年金がもらえないことです。65歳でもらえる年金を例えば70歳まで繰下げたら、その期間は無年金になります。そのうえ、繰下げしたときの受給総額が65歳から受給したときの受給総額を上回る(82歳)まで生きられるかというと、自身の寿命の保証は誰もありません。

将来の方が多くもらえるとわかっていても先のことは分からない、だから今もらえるものは今もらう。繰上受給者(受給者全体の34.1%)に比べ繰下げ受給者(同1.4%)の方がはるかに少ないのも、実際の損得や生活の逼迫性は別にしても、現在バイアスと同じ心理からでしょう。

逼迫した生活者にとっては、減額されても目前で手にできるお金の効用は大きい。単に生活費として必要というだけでなく、減額の大きさよりも本人の効用の大きさの方が確実に上回るからです。逆に、将来の増額分が本人の効用(心理的満足度)より下回れば、繰下受給する人はいないでしょう。                                       

現実問題としては、この増額率・減額率の大きさと効用の大きさを冷静に分析して選択することが重要になるかと思います。

差別発言は、「ダッコちゃん」現象の根と同じ 

2016-11-12 17:45:55 | 政治・社会・歴史

 

 意味も分からず口にしていた「土人」
沖縄のヘリパッド移設の反対デモ警備で、大阪府警の機動隊員が「土人」という言葉を吐きました。当の本人はあとで「差別的な意味があるとは知らなかった」と言っています。あの時に「コラ、ボケ」などと見下した言葉も発しており、それ自体が差別意識の現れであることを本人自身が自覚できていないようです。この差別感覚は、50年も前に大流行した「ダッコちゃん」現象と根は同じだし、むしろより根は深くなっているようです。


「土人」というのは、私が小学校の頃、意味も分からずに使っていた言葉です。低学年の私たちがその言葉の意味や由来を知る由もなく、少年漫画などで仕入れたちっぽけな知識で、漫画に出てくるアフリカ土着民の黒人を指して無邪気に言っていた気がします。

その頃の漫画に出てくる黒人は、ほんとうに顔、手足、胴体も真っ黒に塗りつぶされており、私たちは見たままで「土人」とか「黒んぼ」などと言っていたのです。今から思えばまったくの差別用語ですが、十歳に満たない子どもたちは、色の黒い日本人の子にもその名で呼んでいました。

「ダッコちゃん」は黒人蔑視だった
「ダッコちゃん」が登場したのもその頃でした。初代「ダッコちゃん」(1960年発売)は、目も口もまん丸で、耳もドーナッツのように丸い穴があいた真っ黒の人形でした。これが人の腕にコアラのように両腕、両足を巻き付けてダッコするのです。全身裸で、相撲取りのまわしに付けるさがりのような蓑だけが腰に巻き付いていました。

これが子ども心にも可愛くて、大人までも腕にダッコさせて、爆発的に売れたのです。今省みると、人形をダッコさせていた人たちは皆、無意識的な差別行為をしていたことになります。実際、販売されて二十数年後には、アメリカの団体から黒人蔑視の人種差別であると抗議を受け、製造販売の中止に追い込まれました。

その後の復刻版は、黒人というデフォルメを廃し、形や色を変えて単にダッコできるキャラクター人形としたものです。復刻版は初代ほど売れませんでしたが、「ダッコしたい」「ダッコされたい」というのは、人間の(特に女性や子どもの)本能的快感をくすぐるもので、今も根強く生き延びているのでしょう(アトムやドラえもんの「だっこちゃん人形」など)。

無意識的感覚が差別行為を生む
当時の「ダッコちゃん」現象から見えるのは、造る側、売る側、そして買う側が無意識的に持っていた感覚自体が、アメリカから抗議のあった人種差別感覚とは違っていたということです。製造・販売業者は、人種差別につながるなんて思いもよらなかったでしょうし、購入者も、ただ無邪気な感覚で「可愛い」と思って自分の腕にダッコさせていたにすぎなかったのです。

ただ、単に可愛いからと腕にダッコしていたのは、黒人の子どもをペットのように巻き付けて飾りつけていたのと変わりありません。「土人」という言葉は、それと全く同じ感覚と意識構造により生まれたものです。少しでも黒人人種についての知識が付けば、それが差別行為だということは容易に理解できたはずです。

幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルの人たち
差別というのは、無邪気な感覚から起きるのだからといって許されるものではありません。そこには成熟した大人の意識が欠けています。許されるとしたら、本当に無垢無知な幼児だけです。幼児には、正常な世間知的な意識が芽生えていないからです。しかし、幼児的な感覚を持ったままの大人がいることも事実です。

少しでも知恵を付けた子どもですら、何が人を差別するかを教えられます。まして知恵を持ったはずの大人が差別する言葉や行為は、許されるものではありません。「ダッコちゃん」現象は、当時の日本人全体が幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルにあったと言うことでしょう。

「おチビちゃん」「おデブちゃん」―。職場などにおける女性へのこういった言葉は、愛称のつもりで言われていることもあるでしょう。しかし、身長が低い、あるいは太っているという本人の立場に思いやれば、言う側がいくら愛称のつもりであっても口にはできないはずです。外見だけで他人を選別し、美醜でランクづけすることになるからです。それは障害者を身体的レベルで差別することにもつながります。

抑圧がなければ抗議行動は生まれない
冒頭の話題に戻ると、「土人」発言(というより罵詈雑言)について大阪府知事は、当の機動隊員の表現を不適切としながらも「一生懸命職務を遂行しているのが分かりました、出張ご苦労様」とツイッターで擁護する投稿をしたとのことです。権力側についている者が、権力の下について動いている者を励ますのは勝手です。しかし、それはそれ、差別用語を発したことを直視せずに、むしろわきによけて慰労にすり替えていること自体が問題です。この知事が、意識して言ったのなら政治家として全く不向きであるし、意識せずに言ったのなら機動隊員と同じ程度の感覚と意識レベルにあるということです。

この騒動については、反対派も暴言を浴びせたり、横暴な行為をしたから仕方ないと権力側を擁護している声があります。反対派が、法に触れるほどの行為をしたり、近隣の生活に迷惑となることをしているのなら取締りもしかたありません。しかし、誰でも抑圧されなければ抗議行動に及ばないものです。権力側の行為が不条理であり、自分たちの利害が侵されるから抵抗するのだということを考えなければなりません。

権力ある側と権力なき側との力の差
権力ある側と権力なき側とでは、その力の差は「100対1」あるいはそれ以上であることを知ってほしいのです。逆に言えば、権力を持つ1人の者は、百人、千人、1万人、それ以上の権力なき者を押しつぶすことだってできるでしょう。権力者が反権力者をつぶすには、たった1つの言葉で足りることもあります。

差別というものが力のある側から生じるとなると、政治の世界だけでなく学校や職場でも起こるのは不思議ではありません。「ダッコちゃん」現象のように、幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルから生じる単純な差別から始まって、自己の利益を守るために生じる他者への差別へとエスカレートしていきます。この段階になると、より複雑で陰湿となり、ハラスメントや格差、過重労働となって深刻化します。

そういう場合、自分より身体、力、地位、経済的に下位に属する者を貶め、いたぶり、排除することで、自己の利益や快感をわがものにしようとする欲求が起こります。ハラスメントをする側は、えてして本人に差別意識がないものです。これは差別される側、ハラスメントを受ける側の人間の心に対する想像力が欠如しているからです。

差別を受ける者は、抵抗の意思を持ち続けている
職場では、経営的にも法的にも差別行為やハラスメント対策についての指導が行われているはずです。大阪府警という職場ではこれが全く機能していなかったことが露呈しました。というより、権力主体が大きくなればなるほど本能的に、幼児的感覚、世間知的無知の意識、自己利益による他者排除という心理的欲求が膨張してきて、それが集団化すると、弱者、下位者へのいたわりや想像力がまったく働かなくなるのかもしれません。

差別を受けている者は、常に心の中で抵抗の意思を持ち続けているものです。このことを権力側の人間には忘れてほしくありません。不幸にして自らの死をもたらすことになるかもしれない行為でさえも、抵抗の意思によるものでありうるのです。

 


『死の島』は若き頃の自分だ

2016-08-31 00:54:17 | 文学・絵画・芸術

若き日の小説

僕が今よりずっと若い頃、つまり20代に読んでいたら、かなり夢中になった小説だろうと思う。この頃は、野間宏『青年の環』や埴谷雄高『死霊』などにかなり夢中になっていたし、前衛的な小説作法にも敏感だったから。それにベックリンの名画「死の島」のイメージがどうしようもなくついて回っていたからだろう。 

なにしろ、あの頃は『死の島』(福永武彦)は文庫でもなかったし、単行本も古本屋では見かけなかったと思う。全集か作品集は出ていたかもしれないが、とんとお目にかかっていなかった。というより、当時自分の関心が文学どころでなくなったからだろう。きちんと収入を得なければ自分も家族も大変なことになる頃だったので。 

今では、福永武彦の名は一部の文学好きに読まれるくらいだろうか。まして『死の島』ともなると、どれだけの人が読むだろうか。とはいえ、一部の熱狂的なファンはいるのかもしれない。僕は一度、どこでも手に入らなかったこの小説を図書館で見つけて上巻だけ読んだ記憶がある。その時は内容が青臭い文学、小説好きの学生が書きそうな小説を読んでいるようで(それはつまり、かつての自分であったが)、なんとなく下巻まで読む気がしなくなったのを覚えている。 

■ふたりの女

主人公の相馬鼎という男(編集者)が、どうにも作家を目指していた自分に似すぎていて、小説の創作ノートをいつも持ち歩いたり、女性をすぐに好きになるわりには、なかなか先まで進展しない(進展できない)たちで、自分でもそうだが、はたから見たらかなりじれったくて青臭い若者なのだ。そんなところが、自分でも鼻に付いたのかもしれない。 

ところで数ヵ月前、よく通りかかる古本屋で初版本上下2巻合わせてなんと105円だったので買ってしまった(現在、この作品を買うには講談社文芸文庫で新本上下合わせて4千円以上もするのだ)。それで読み返してみると、やっぱり上巻だけ読み通すとあの頃の感想と同じだった。

改めて感じたのは、相馬が同時に愛する(恋する?)2人の女性は、若い頃の自分であったら、やっぱり夢中になってしまうタイプである。相馬のように、たいして親密に付き合ったわけでもないのに(つまり3人一緒に食事したり、芸術論ごっこしたりする程度の仲なのにという意味で)、2人の女が服毒自殺を図ったという電報を受け取ると、東京から広島まで仕事をうっちゃってまで駆け付ける。この小説の年代背景では、特急を飛ばしても一昼夜かかる距離でもだ。 

文学臭いこの青年のように、若い時の僕もきっとそうしたに違いない、身内の女たちでもないのに。一人目の女性画家は、被爆者で絶望を引きずっている。その陰りには美人であるから余計、同情っぽい、安い愛情を抱いてしまう。そういう女に会うと、すべて見透かされているようでありながら、その女のために死んでもいいから何かしてやれればいいと思ったりする。ところが、実際には現実にできることは何もないのだ。軽くて重みのない男の自分を感じ、恥じ入っているしかない。 

そしてもう一人、品の良いお嬢さんタイプで可愛らしい清廉な女性、実は突拍子もないことをやってしまう彼女にも魅かれる。普通の可愛いだけの女性ならそこまで思わないが、家出をしたり、風来の男につかまって同棲し捨てられ(捨てた?)たり、しまいには同居する女性画家に誘われて自殺まで図ってしてしまう。 

■小説の技法はどこへ行くのか

上下巻通して話自体は複雑ではないが、時制を前後させたり、現実と虚構(創作)を織り交ぜたり、内的独白を絡ませたり、方法的にかなり凝っているので、そういうことに興味があった若い時分の僕だったら、かなり夢中になっていたかもしれない、等身大の自分の反映としても。ストーリーだけを素直に時系列順に読んでいっても、十分楽しめる作品ではあるが、今となっては、そういう技巧的なところが鬱陶しく思えるところもある。時制を細かく前後させる意味や基準があろうとは思うが、それを探るまでの労力を取ってまで、今では読もうとは思わない。 

小説の方法も読んで楽しめるのは、せいぜいプルースト(『失われた時を求めて』)あたりまでかなと思う。フォークナーやマルケスあたりになると、すごいとは思うけれどちょっと疲れるところがあるし、これからの小説の方法というのはどうなるのだろうか。

 

 


『黒死館殺人事件』 ~ 日本の「三大奇書」を読んでみて

2016-08-29 05:29:19 | 文学・絵画・芸術

日本の「三大ミステリー」とか「三大奇書」と言われる作品を、これで一応全部読んでみたことになる。どれも推理小説とかいう枠内に入れて読むと、読み切るのが困難だと思う。僕の場合は、文章(文体)が読むに耐えられるかが大きな要素だ。いくら推理小説として面白そうな展開でも、文章が読むに堪えないと続きを読むのが苦痛になる。

■『虚無への供物』

『虚無への供物』(中井英夫)は、3作のうちでは最も惹かれる文章だった。ストーリーにもぐいぐい引かれるが、1つ1つの文章は魅惑的で、この作者の他の作品にもつい手が出てしまった。もうずいぶん前に読んだので、内容は全く覚えていないが、この3作のうちでは一番楽しく一気に読んだのを覚えている。なにしろ、これはミステリーとか奇書という以前に面白い文学、面白い小説と読めた。 

■『ドグラ・マグラ』

『ドグラ・マグラ』(夢野久作)は、当初これを読むと「精神に異常をきたす」とか「頭が狂う」とかここかしこで書かれていたので、まさかそれを本気にしていたわけではないが、遠ざけていたのも事実だ。というのも、しばらく仕事でストレスを抱えていた時期があって、気晴らしにミステリーでも読もうかという気になってこの本にぶつかったのだが、ストレスで落ち込んでいるときに、このうえ気がおかしくなったらたまったものじゃない、と思ったからだ。というより、元気になりたいのに、「精神がおかしくなるぞ」と言われたら、そんなものは遠ざけるのが普通だろう。 

その後、普通並みくらいに活力が戻り読んでみた。読んでみれば、精神病理や異常心理などをテーマとしているとはいえ、すごくまっとうな小説で、途中読むのに疲れるところがあったが、作者の文学的思惟(思想とまではいかないが)に支えられた文体も、めくるめく堂々巡り(「ドグラ・マグラ」というのはそういう意味らしい)で、結構読みごたえがあった。精神社会への、1つの内的告発と言えるかもしれない。 

■『黒死館殺人事件』

3作目が、この『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)である。正直言って、なんだかよくわからないで読み終わった小説である。やたらペダンチックで、いろんな分野の引用や注釈が出てきて、読むのを断念させるとよく書かれているが、僕にとっては、それはほとんど問題にならなかった。というのも、その文体がきちんと知識と学に裏付けされたものなので、むしろその文章そのものを楽しむことさえできたからだ。ただ、それゆえに文に装飾がありすぎて話の進行がちっともわからないところがあった。

そもそも誰が殺されていて、誰が疑われ、どういう手口であったのか、何が謎になっているのか、読んでいるうちに忘れ去られてしまうほどなのだ。こういうことだから、結局誰が真犯人だったか、殺害動機は何か、どういうトリックがあったのかなどどうでもよくなってしまう。つまり、作者が殺人事件をネタにどれだけの小説という伽藍を築きたかったのか、そこに落ち着いてしまう。だからと言って、駄作とは言わない。その伽藍が、どういう仕組みでどういう風に築かれているのか、それを楽しみたくてもう一度読んで確かめてみたいと思うのである。 

結論を言うと、3つの作品とも、1回読んだだけではよくわからない。できれば1回目はさわりとして大方のあらすじをつかんで、2回目にじっくり確認しながら読むと面白いのだろう。そうすると、どれも結構夢中になれる作品なんだと思う。

● 夢野久作 『ドグラ・マグラ』 ~ 潜在意識の遺伝と死美女の犯し


『不連続殺人事件』と『事件』~ 純文学者のミステリー

2016-07-16 11:38:35 | 文学・絵画・芸術

 ■『事件』の実在感と知的興奮

『不連続殺人事件』(坂口安吾)と『事件』(大岡昇平)は、ともに純文学作家が書いた推理小説で、両作品とも日本推理作家協会賞を受賞している。読みたいミステリー作品の上位に入る常連ということで、続けて読んでみた。 

先に読んだ『事件』は、かなり前に弁護士役が北大路欣也主演のテレビドラマを見た記憶があるが、細部も結末もほとんど忘れていた。しかし、これが面白くて一気に読んでしまった。この推理小説は、ストーリーを知っていても、結末を知っていても、十分再読に耐えられるものである。それは知的興奮をもたらすからだ。ほとんど全編、法廷が主舞台となっており、法廷での弁護人、検察官、裁判官、そして証人のやり取りに、どんどん吸い込まれていく。このような場面は、今となってはテレビドラマの事件ものではありきたりとなってしまったが、やはり、法廷での応酬は、1つの弁証法なのか、詭弁なのか、単なるほらの吹き合いなのか、とにかく引き込まれる。 

前に『カラマーゾフの兄弟』を読み返した時、最終に近い場面で主人公ドミートリ―の殺人罪の裁判がかなり長く書いてあったが、その部分が面白くて一気に読んだことがある。学生時代に読んだ時は、おそらく退屈で読み飛ばしていたところだと思う。再読の時は単なる推理ゲームではなく、人間の根源に迫るところにひかれたのだと思う。『事件』にしても、やはり純文学作家としての深堀があったからこそ、面白かったのだ。 

だいたいミステリーに純文学臭さを持ち込む必要があるかと言いたい人はいるだろう。推理ゲームとして面白ければいい、と。僕自身は、推理小説はほとんど読まない。これまで読んだのは、かなり前、十代にE・A・ポーの作品と、だいぶ大人になって『砂の器』(松本清張)、『虚無への供物』(中井英夫)、『緋色の研究』(C・ドイル)、最近になって『ドグラ・マグラ』(夢野久作)くらいで、驚くほど少ない。少ないなりに、どれも堪能した。『ドグラ・マグラ』などは、日本の三大奇書などと言われているが、これは純文学書、思想書の傑作と言ってもいいと思う。 

読み応えのある小説は、純文学とかミステリーとかの枠を超えている。それは、大げさかもしれないが、人間の根源に迫るからだ。人間が罪を犯すときは、必ず動機がある。動機が犯罪を生むのだ。その動機の重さによって、罪の実在感が出てくる。そこに、人間というものが現れる。 

■殺人動機に血の実在感がない

その点、『不連続殺人事件』は正直、がっかりした。坂口安吾の純文学作品はあまり読んだことがないが、純文学作家ということで『事件』のように、それなりの期待を持たされたのだ。作者自身、純文学の臭いを切り捨てて、推理小説の犯人当てに徹したというから、いわば謎解き推理ゲーム的なんものとして、本人も楽しんで書いたのかもしれない。実際、犯人当て懸賞を出して、発売後すぐベストセラーになったというほどだから、面白くは読める。 

しかし、それはゲーム的なストーリーの面白さであって、正直、僕にとって再読に耐えられない。殺人動機をはぐらかす方法にしても、その方法を断行するだけの人間の実在感が描けていない。作者自身がそのことを捨てたわけだからだ。犯行を犯す人物に血も肉も感じられないから、動機に重みがない。将棋盤の上で、この駒はこういう役が付いているからこう動く、というのと同じ感覚でもって次々と殺人が起こるから、本当の殺人動機にならない。だから、誰でも犯人になりうるし、逆に誰が犯人になるか、いくらでもはぐらかすことができる。今でいえばスマホアプリの画面上で、まさに推理ゲームの中で人間を動かすようなものだから、種明かしがわかっても、何ら面白みも知的快感もない。 

江戸川乱歩までが絶賛、ほかの名だたる推理作家も激賞しているが、残念ながら僕は落胆した。推理小説は、読んで面白ければいいわけで、人間の存在感などという面倒くさいことをいう方がおかしいと言われるかもしれない。面白いか、面白くないか。安吾は楽しみながら書いたというから、まあ、あまりムキになるほどではない。が、やはり人間がきちんと描けていないとなると、単なる2次元(小説原稿、将棋盤、ゲーム画面)上のものでしかなく、本当の動機にもならない。動機が本当らしくなければ、そもそも犯人が当てられるわけもない。そこのところが、作者の思うつぼかもしれないが。


40年目のアリ・猪木戦 ~ 刃物のごとき拳に立ち向かう真剣蹴り

2016-07-08 01:17:22 | 芸能・映画・文化・スポーツ

モハメド・アリ氏が亡くなって1ヵ月ほどになる。僕は今でも、アリ氏死亡の特集番組「アリ・猪木戦」を思い出す。

僕自身は、「アリ・猪木戦」をリアルタイムで見た世代だ。当時、どんな決着になるか興奮して見ていたものだが、試合結果は「世紀の茶番」とか「世紀の凡戦」とか酷評されたように、僕ら自身も正直、落胆させられた。いくらプロレス技封じのがんじがらめのルールにしても、アントニオ猪木なら派手な決着を見せてくれるだろうと、みんなが期待していたのである。

「猪木はチキン(臆病者)だ」というのも、そうなのかとさえ思った。なにしろ、15ラウンド、ほとんど寝てばかりいたのだから。試合後、アリは猪木の何十発ものキックを脚に受けた影響で入院、ヘビー級世界タイトルマッチも延期せざるをえなかった。猪木もつま先の骨にヒビが入っていたということで、その真剣勝負らしさは知ったけど、あれから40年間、もどかしさが残っていた。

そして、1ヵ月前の録画試合である。録画を見だしているうち、僕は背筋が凍る思いがした。確かにルールの縛りがあったのは再確認できた。しかし、アリのグローブを見て仰天した。グローブが、拳より少し大きいだけだったのである。これは、リアルタイムの試合では気づかなかったことだ。

プロボクシングのグローブというのは、どの階級の選手も風船のように大きく膨らんだものをはめている。オンス(重量)が大きいほど、風船のように大きく、したがってそれだけグローブの中がクッションとなって、当たってもダメージが小さくなる。しかしアリはこの時、通常、ヘビー級の選手がはめる10オンスのグローブではなく、4オンスのものをはめていたのだ。

これもアリ側のゴリ押しのルールだったのだろう。あんなに小さなグローブでは、ほとんど生の拳並みの威力があるだろうし、さらに両拳をぎゅうぎゅうにバンテージで固めていたという。まさに鉄の塊の拳というより、真剣の刃だ。ヘビー級のボクサーがこんな拳で振り回したら、かすっただけでも一太刀で斬殺されるほどのダメージだろう。

実際、猪木自身の解説によると、額をかすっただけで、試合後大きなコブになっていたという。僕は、これを知って、この試合がとんでもない真剣勝負だと悟った。猪木はあの寝技戦法しかなかったろう。アリにしても、猪木の技を警戒したからこそ、深入りしなかった。まさに一触即発、アリのパンチか猪木の技か、勝負は瞬間に決まるはずだった。

そういう状況で見ると、ハラハラ、ドキドキの迫力は並大抵ではなかった。誰が「茶番」だ、「凡戦」だと言ったのか。まったく勝負のすごさをわからない大人たちだった。僕はまだ少年だったから、ドンパチ、バタンキューの派手なプロレスこそ真剣勝負だと疑わなかったのだが、40年後の時間を経て、真剣の勝負に酔っているところだ。本当の勝負というのは、決して派手なものではない。

総合格闘技が日本でも興り始めたころ、あまりの地味さに最初は見る気もしなかったが、真剣勝負であることがわかってくると、その迫力にハマってしまった。「アリ・猪木戦」も格闘技を見る目が肥えていないと、地味でつまらない「茶番」「凡戦」でしかない。しかし、40年前のあの勝負は、一流の格闘家であれば誰でも、試合のすごさを思い知ったのではないだろうか。

今では、この試合の「名誉回復」がすでになされていることだけが救いだが、今初めて録画を見た人が、表面的な動きだけを見て、やはり「茶番」「凡戦」だなどと思わないでほしいと思うばかりである。


「若冲展」に思う ― 車椅子の人には至高作品を鑑賞できない日本の美術館

2016-05-24 00:59:14 | 文学・絵画・芸術

 「若冲展」は、前回開催(2009年・東京国立博物館)の時に見てきました。あの時も入館まで1時間以上待ちましたが、今回(東京都美術館)は平日でも3時間、4時間は当たり前ということで、開催は今日(24日)までだったのに諦めました。なにしろ前回、入館してからも満員電車並みで、前に進めないのです。係の女性が「止まらずに進んでください」と言っても、一番前が人で埋まっているので動きようがありません。仕方なく僕は、2層3層後ろのゾーンに下がって遠目で見て回りました。 

なんといっても、’白い正装の貴婦人’というべき純白の鳳凰「老松白鳳図」(ろうしょうはくおうず)のエロティシズムの極致に、くらくらとめまいがしたのを覚えています。女体でありながら鳥、鳥でありながら女体、その艶めかしさ・・・。 

当時の感想はその時のブログを読んでもらうとして、すごく気になったことがあります。前のブログにも書きましたが、観客の中に、車椅子で来られている人が何人かいたのです。健常の僕らでさえ、人の頭越しでしか見えないのに、車椅子の人の視線の高さでは、人々の丸腰の行列しか見えなかったでしょう。ここは日本を代表する博物館です。これでは、車椅子の人は作品を鑑賞することはできません。実際、その方々は展示作品の後方で諦めたように、ただ呆然として車椅子に座っていただけでした。 

若冲の作品だけではありません。この博物館では毎回、世界・日本中の最高レベルの芸術品を公開しています。なのに、いつも車椅子の人は、じっくり鑑賞できないのです。何か申し訳なく思いました。僕はよく美術館に行きますが、バリアフリーは当然として、せめて混雑時期には、障害のある方優先の一定の鑑賞時間帯(開場直後または閉場間際のわずか30分でも)をつくるなり、最前列に車椅子用の通行路(スロープなど)を設置するなりすればいいといつも思います。これは、ほかの美術館の人気開催展でも同じです。これで本当に日本の誇る美術館といえるのか・・・。 

ここしばらく上野の森に行ってないので、今はどうなのか? 変わっていないのだろうか? 世界でも最高峰の芸術を車椅子でも鑑賞できるようにしてもらいたいものです。

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