映画『アンナ・カレーニナ』が来年、公開されるそうです。アンナ役にキーラ・ナイトレイ、夫カレーニン役にジュード・ロウ。『アンナ・カレーニナ』は、世界文学の名作中の名作です。トルストイの最高傑作は、誰もが知っている『戦争と平和』ですが、じつは『アンナ・カレーニナ』も「芸術として完璧な作品」と世界で賞賛されています。
トルストイの3大作品といえば、上記2作品に加え『復活』があります。どの作品もたびたび映画化されてきました。私は『戦争と平和』は完読しましたが、『アンナ・カレーニナ』は3分の2ほどでやめた記憶があります。トルストイの作品は、20代の頃はなかなか作品の中に入っていけませんでした。当時の私の関心は、人間存在の内部、特に心理・生理・思想面にありましたから、人物の内面にあまり入っていかない小説は退屈でした。だから、同じ19世紀のロシア作家でもドストエフスキーの作品に没頭していました。
それはともかく、文学作品の映画化というと、「観てから読むか」「読んでから観るか」というのがあります。私は、そんなことは、どちらでもいいと思っています。文学作品にしろ、映画作品にしろ、個別の独立した一つの作品としてみればいいのです。いくら文学史上の傑作といっても、映画になったら凡作というのはけっこうあります。逆に文学作品を離れて、独立した映画作品として傑作なものもあります。
以前からヴィヴィアン・リー主演の『アンナ・カレーニナ』のDVDを探していましたが、レンタルでありませんでした。このあいだ、書店で安く売っていたので買ってきて観ました。アンナ役には、ほかにグレタ・カルポ、ソフィー・マルソーのものもありますが、ヴィヴィアン・リーのものが定評はいちばんでした。
映画は1948年作のモノクロです。前に同時代の文芸映画『嵐が丘』を観ましたが、この頃の映画はほんとうに丁寧につくられています。セリフも饒舌に語らず、余韻を残して想像させます。ヴィヴィアンは、この上映の直前に、あの『風と共に去りぬ』の主役に抜擢されています。私は、今度『アンナ』を観ていて、どうしてもアンナと『風と共に』のスカーレット・オハラが同一人物に思えてなりませんでした。
当たり前じゃないか、演じているのは同じヴィヴィアン・リーという女優なのだ ― 、そう言われるかもしれません。そういう意味ではなく、演じられているアンナとスカーレットが人間として同じ女に見えてくるのです。同じ性格、勝ち気、それと同じくらい感情がもろい。愛を人一倍求めながら、愛を得られない。愛されようとしてかえって不幸の原因を自らつくり、愛を失っていく。他人を愛するより自分を愛することで、愛を失って悲劇になる。
ヴィヴィアン・リーは、そうした女を演じると、これほどぴったりくる女優はいない。もしやこういう女が彼女の地の本性かと思えるくらいです。これがすごい美貌(彼女のちょっとこわい美貌が個人的に好きになれないけれど)とくるから、映画では周りの男を恋に狂わせてしまうのです。それが自分自身の悲劇ともなるのだけれど。
『風と共に去りぬ』は小説では読んでいませんが、あの映画は小説作品を離れて映画史上の傑作だと思います。それで、今気が付きましたが、同じ女の性(さが)でも、アンナとスカーレットでは決定的に違うところがあります。アンナは愛を失って明日に絶望して投身自殺する。スカーレットは愛を失っても、「明日がある」と生きる望みをつなぐ。この最後の違いで、観た後の感慨がまるで違ってきます。帝政ロシアと開拓時代のアメリカ、そんな時代と国柄の背景の違いもあるのでしょうか。
「観てから読むか」「読んでから観るか」。小説の傑作が映画の傑作とは限りません(その逆も)。順番はどちらにしても、観て読んで、読んで観て、両方できればこれほど贅沢なことはないのでしょう。
今度公開される『アンナ・カレーニナ』は、どうでしょうか。