FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

経済物理学はどこまで発見されたか ~ ポートフォリオ理論が通用しなくなる日

2014-10-30 00:23:55 | 経済・金融・ビジネス

 最近いろいろな本を読んで考えたことを、あくまで断章的に書いておこうと思う。

■伝統的経済学に代わるもの  

 これまで資格試験も含めてあれほど勉強してきた伝統的経済学や金融工学の内容が通用しなくなると、いったい何を勉強してきたのかと思う。行動経済学や経済物理学のことだ。 

 まず、行動経済学が伝統的経済学(標準的経済学)にとって代わるというのは大げさで、それは誤っているだろう。双方に長所と短所、限界があるので相互に補っていくべきものだと言われている。しかし、それにしてもファンドマネジャー、エコノミスト、経済評論家があれこれ理論武装していろいろ予測しているが、結局、モダン・ポートフォリオ理論では予測なんて当てにならないということだ。 

 そういってしまうと元も子もないし、かといってこうした理論なくして予測されたり、それにより運用されたりも困るものである。あくまで理論は理論として基本は押さえたうえでの運用は必要であるが、ことさら以上に過信するものでもないということになる。このことは、ポートフォリオ理論を学べば学ぶほど、感じることである。 

 今のポートフォリオ理論が当てにならないとなると(?)、つまるところ、運用については個々の株式やアクティブファンドなどよりも、インデックスファンドやETF(上場投資信託)だけで運用した方が気が楽だし、なにより余分な手数料を掛けなくても済む。 

 経済物理学(エコノフィジックス)の理論が本質に最も近いのであれば、現在、運用会社での理論づけは、まったく意味がなくなることになるのではないだろうか。リスクとリターンの関係、すなわち、標準偏差と正規分布の考えは意味がなくなるとまでは言えないが、今の運用理論の根拠を失う。 

正規分布の幻

 リスクは正規分布に基づいて計算してきたのに、正規分布では説明できないことが起きている。たとえば、正規分布では、σ2(シグマ2)で全変位の95%が占められるのだが、為替レートではσ20くらいの大変動が1週間に1回くらいは起きているという(『経済物理学の発見』高安秀樹著)。

  もっとも、正規分布にしろ、ベキ分布にしろ、過去の統計値を取ったものだから、未来の数値を予測することなどできない。しかし、ベキ分布によって、より正確な分析が可能であるならば、株式市場などでの株価予測もより正確にできるようになり、金融リスクも把握しやすくなる。それによって、リスクを軽減して利益を得やすくなり、金融商品の売買もしやすくなるということだ。 

 トレンドの捉え方も変わってくる。サイコロの同じ目が5回続いた後、同じ目がこの後も続いて出る可能性は統計的にはあくまで1/6である。しかし、経済物理学では、5回以降も同じ目が続いて出る確率は過去のデータでは、かなり高くなっている。そしてこれが、トレンド(暴落・暴騰)につながる。 

 株式市場は、単に物理学的に説明できるものではなく、投資者心理が大きく反映している。株価の変動をもたらす要因を分析する方法としてはファンダメンタル分析とテクニカル分析がある。ファンダメンタル分析派からすると、テクニカル分析派は、邪道でまったく意味がないという。確かに長期的な分析となると、企業の財務分析や経営方針によって、株価が変動する要因となることが多い。 

 しかし、行動経済学や経済物理学によれば、単に、サイコロの目が出る確率以上の変位が起こる。つまり、トレンドが発生するのだ。短期的な株価の動きを見ると、やはり、トレンドはある。テクニカル分析派は、そのトレンドを分析しているので、一概にその方法を否定することはできないが、その方法がすべてであるとは思えない。罫線(チャート)の分析は、結局は過去の動きに当てはめているだけで、そこには投資家の人間としての心理、経済物理学でいうところの群集心理の分析が見られない。 

■「ただ飯」は食えるか 

 伝統的経済学では、裁定取引は発生しない(フリーランチは存在しない)ことになっている。うまい偶然 に行き当たってタダ飯を食うことはできない。しかし、エコノフィジックスでは、わずかな時間の「スキ」に、「タダ飯」を食うことが可能であるという。しょせん、株式市場は、企業の財務・経営力でも、株価の過去のトレンドだけでは将来の動きなど把握できるものではないのだ。 

 エコノフィジックスによっても、その「スキ」を、ヘッジファンド中心に狙っている。一般の投資家がその「スキ」に乗じて、儲けを得ることは至難だろう。ただ、行動ファイナンスや、エコノフィジックスによって、リスクの研究がもっと進むことによって、一般投資家がもっと気軽に投資できるようになることはいいことである。 

 もっとも、その場合は大きなリターンを得るというよりは、長期的にそこそこの、かつての預金利子(5~6%)が稼げる程度になれば万々歳である。預金利率が1%以下という状況であるから、一般投資家はあまり知識もなく、運用利率を求め、したがってリスクを知ることもなく、リスクのある金融商品に手を出してしまう。市場が伸びている時はよいが、市場がいつまでも投資家のご機嫌をとってはくれない。どこにリスクが発現し、リスクに無知な人を陥れるかわからない。 

 やはり、リターンに対するリスクの所在をよく知っておく必要がある。ファンドの評価にしても、シグマやシャープレシオは金融工学での正規分布を前提としている。その前提が大きく変わってしまったら、投資の方法も評価も、考え方も大きく変わっていくだろう。

 

 

 

 


立花隆氏と臨死体験 ~ 「知の巨人」が探る脳科学 

2014-10-24 00:18:44 | 哲学・宗教・思想

■知の巨人とは、「知る巨人」である 

 東京小石川に「猫目ビル」といわれる建物がある。外壁に巨大な猫の目が描かれている。「知の巨人」、立花隆氏の書斎専用ビルである。テレビで特集していた細長い4~5階建ての建物だ。ビルというより、縦長の大きな箱で、その中は、それこそ資料だらけ、本だらけである。図書館並みの本が棚に並んでいるというより、無造作に積上げられているといったほうがいい。身内であっても棚の上、机の上にあるものは一切触らせないというし、それでも本人にはどこに何の本があるかすべてわかっている、何万冊ある中でだ。

 あれだけの著作を次から次と出す人だから、本の数もすごいだろうと思っていたが、それ以上だった。おそらく何年かのうちには次のビルを探さなければならないだろう。これは、作家やジャーナリストの宿命みたいなものだ。「巨人」と言われるだけあって、読むほうも「読む巨人」である。 

 テレビのインタビューの中で記憶に残ったのが、「1冊の本を書くのに500冊は読む」という言葉だ。やはりそれくらい読まなければ本など書けるものではない。いや、書いてはいけないのだ。わずか2~3冊のタネ本を読んだり、ネットで記事をかき集めて来たところで、本物など書けやしない。ましてや、人の書いた文章をコピペしたところで、作品になるはずがない。 

■「脱魂」は快感だ

 立花氏はまた、「脱魂(だっこん)」という言葉を使っていた。本の中の真実に魂が奪われてしまう、すなわち「魂が抜けてしまう」ということらしい。この楽しみは、「射精」(テレビでこんな言葉使っていいの?)よりも快感であるという。これだけの書物を読んで、あれだけの書物を書いている立花氏でも、真理というものがいまだわからないという。わからないから知る、だから楽しみということなのだろう。真理というのは追いつめても追いつめても、そして追いつめれば追いつめるほどわからないその先にあるものらしい。

 宇宙、哲学、性、生態文明、サル学、物理学、IT、ガン、脳死、臨死体験、政治、裁判、天皇、ジャーナリズム、・・・、ざっと知る限りでも立花氏の守備範囲(というより攻撃範囲)はこれだけ広い。興味深いのは、氏が老年となり、ガンの治療にかかるようになってから、死というものを強く意識し始めたということである。死を迎えつつ、自身を思考の実験台として真理を究明していく姿、そして今後そこからどのような本が書かれるかということがひじょうに興味深い。

 ■臨死体験と脳と意識

 NHKスペシャルで、立花隆氏の「臨死体験」についてのレポート番組があった。20年前、立花氏が書いた「臨死体験」の本を読んだことがある。臨死体験というのは、脳がつくりだしたもので、臨死からの覚醒直前に起きる夢のような意識であるという説もある。しかし、それでは自らが臨死状態にある時に現実に起きていることを認識できていたということを説明できない。

 例えば、本人が病室のベッドで死の淵をさまよっている時の室内の様子を、あたかもビデオで撮っていたかのように本人自身が蘇生後に詳細に語っている。死に瀕しても声だけが意識の底で聴こえていたのだろうとは、わけが違う。身内が泣いている様子や医師と看護師たちがあわただしく話したり蘇生術を施している光景を映像として記憶しているなど、その場に居合わせて知覚していたという以外にありえない。病室という「密室」で体外離脱して、本人の意識(魂)が上から室内を見下ろしていたということになるし、多くの臨死体験者も同様のことを体験している。 

■臨死によって宗教観は変わるか

 もし、死の間際に人が絶対的な存在(真理、神、仏)に出会い、至福の状態になれるよう脳が仕組まれているのならば、人はどんなに苦しい人生でも死を恐れることなく、死を迎えることができる。立花氏は、そのように語る。それは、たぶんそうだろうと思う。宗教というのは、そういうところから生まれたのだと考えられる。どのような人にも、臨終の時には阿弥陀仏が菩薩たちを伴い、あの世へのお迎えに来てくれる。これほど人々の救いになることはなかっただろう。(念のために、立花氏は宗教についてはいっさい触れていない。あくまで脳の仕組みについて言っているのであり、僕もそれを前提としている。) 

 しかし、一方で最初からそれを見込んでいる悪人は、どうなんだろう。どうせ死ぬ時には善人も悪人も最期はお迎えが来てくれて、至福な意識を持ってあの世に行けるとしたら、死の間際の悔悛というものはいらなくなってしまう。宗教では、そういう者は地獄に堕ちるのだが、脳が最初から誰でも死に際して光悦を得られるように仕組まれていたら、地獄というものはなくなってしまう。

 それとも、あの世に行く時の光悦は、どんな悪人も死に際して、その生前の生き方に応じて強い悔悛を求められて、それによって光悦度(ランク)も変わってくるのか。浄土宗や浄土真宗では、極楽へのお迎え待遇ランクが生前の生き方に応じて変わってくるという。あるいはまた、親鸞の「悪人正機説」のように、悪人こそ救われる度合いが強いのだろうか。これとても、もとより悪人である者はなく、生きるために大罪を犯さざるをえなかった人間の業を救うための方便である。 

 こうなると、臨死の体験というのは、脳科学と宗教という意識の問題にも関わってくる。立花隆氏は、2度目のがんの発症によって、自身の死を強く意識して、臨死における脳の働きを強く知りたいという欲求をもったという。おそらく、病と年齢による残された時間を考えると、この壮大なテーマが立花隆氏にとって最後の(?)著作となるのだろうか。

 


よさこい踊りの女 ~ 真夏の日の美

2014-10-20 02:09:11 | 文学・絵画・芸術

 夏の暑い盛りにおさな子たちが遊ぶ「じゃぶじゃぶ池」を、この日は水を抜いてコンクリートの底を土台にしたやぐら舞台で、女8人が踊った。フェスティバルの「よさこい」踊りのおんな衆が、青・赤・黄・緑の鮮やかな大漁旗にも見える衣装の片肌脱いだ姿で、一斉に太鼓の音とともに動き出す。曲と歌声とが混じる中で、女1人が舞台から踊り降りてくる。

―― よさこい、よさこい。

 降りてきて観衆に交じり、踊りましょ、と色のある眼で声を掛けながら体をリズミカルに動かす女の斜めの顔が、艶やかに光る。眼元や唇は踊り用のおしろいとメイクで派手に見栄え、濃い睫の奥は黒光りするようで、横顔の鼻すじはきれいに伸び、赤すぎる唇がにっこり笑い人を誘う。

―― さ、一緒に踊りましょ。

 そういう彼女の顔が、すい、とこちらを見た。そして眼が合った。眼は一瞬、僕を見て止まったが、すぐまたもとに向き直って、踊り続けた。

 背を見せる彼女の身体は、まるで後ろ姿で僕を見ているように揺らいでいる。指の動きと腰つき、白い腕や伸びた脚の緩やかなしなり、躍動的にリズミカルに、くるり、くるりと宙を妖しく回転して動くようなさまに、僕はずっと心を取られていた。そして、踊りながら時々身を翻してこちらに向ける顔に、僕は何度もはっとした。もちろん、あんまり美しかったからだ。

 このとき僕は、あの小説の一節を思い出した。

 「美――。美とは恐ろしく、おっかないもんだよ。なぜって、美にかかったら、何もが杓子定規にいかないからなあ・・・・」(「カラマーゾフの兄弟」)

 美。美は人を狂わせる。美の前では、倫理も思想も理性も知性も関係ない。美の前では、すべて無力だ。

―― 美女は、なにゆえ美しいのだ。

 黒い髪を高く髻に結いあげ、睫を厚くし、白い化粧に眼元がくっきりと映える。踊り衣装がはだけ、上半身を顕わにした体の線を際立たせる純白のシャツと、柔らかく自在に動く腕。あくまでしなやかに踊る女の下半身の衣装は艶やかな色で彩られ、裾をたくし上げたふっくらとした腰回りにまとわりつく。揺れる腰とともに衣装が踊っている。

 激しく揺れる手脚の動きは、女の生であり、何か生の源から溢れ出る力であり、性の意志でもある。

 白い足袋が、さ、さ、と交互に出て、引っ込む。そのリズムと手の指先の微妙な翻(ひるがえ)りに、僕はひとときも眼を動かさず、音と音の隙に彼女と眼が合うたびに、少年のようなときめきと恥じらいを感じるのだった。 


ドストエフスキーの「ニニンガシ」とマルクスの「2×2=4」 ~ 世の中は数式どおりにはいかない

2014-10-18 06:46:21 | 経済・金融・ビジネス

 社会に出て経済学を勉強し始めたとき、文学漬けだった僕にはどうにも違和感があった。ドストエフスキーの作品で、登場人物が「この世の中は、“ニニンガシ”みたいにはいかないんだ」というようなことを言っていた。“ニニンガシ”というのは「2×2=4」のことである。つまり、人間の心は公式のように合理的にはできていないということである。このセリフを読んで、社会的未熟な僕は、なるほどその通りだと思った。 

 だから、良い意味でも悪い意味でも個人主義(自己意識)にかぶれていた僕は、経済学でいくら「ニニンガシ」と言われても、「いや、そんなことはない」「人間はニニンガサン(2×2=3)、ニニンガゴ(2×2=5)だってありうる」と思ったものである。そんなだから、経済学はちっとも面白くなく、身につかなかった。資格試験の勉強をしていた時もずっと苦手だった。 

 学生時代、独学でマルクス経済学を少しかじった時も、ちんぷんかんぷんで、せいぜい「労働者は資本家に搾取されている」程度のことしかわからなかった。もっともこのことは、マルクスの「2×2=4」によって共産主義国家ができたのだからかなり重要なことだったのだけれど。せめてもの救いが、マルクスもあまり経済学は好きでなかったということを何かで読んだことである。マルクスは好きでない経済学を好きな哲学と結びつけた時、「これだ!」と思って、嬉々として邁進したという(『経済学哲学草稿』)。 

 もちろん僕なんか、マルクスと比較するまでもないが、そのマルクスが革命的な経済学の体系を築いたのだから、僕も大いに励まされた。もっとも、マルクスくらいの大天才になると、何が真実であるかどうかというレベルでものを考えているわけであって、この学問が好きだ嫌いだというレベルを超えているわけであるけれど。 

 行動経済学は、経済学と心理学を結びつけている。心理学者がノーベル経済学賞を取るくらいだから(2002年ダニエル・カーネマン受賞)、これは面白いらしい。それだけではない。現在、経済学の範疇は、物理学との関連(経済物理学)、脳神経学との関連(神経経済学)の分野まで拡がっている。こうした研究が進むと、「じゃあ、これで投資して儲けられるわけだ」と思われるかもれないが、そこは、「ニニンガシ」とはいかないらしい。


スタンダール『赤と黒』 ~ 心理小説と「神の眼」

2014-10-11 12:33:55 | 文学・絵画・芸術

■  「神の眼」の視点

 スタンダールの『赤と黒』は、前から読もうと思っていた。スタンダール、バルザック、フローベールと19世紀のフランス文学の三大小説家の流れを汲み、一方でドストエフスキー、トルストイの19世紀ロシア小説の流れと合流して、日本の近代小説の一つの流れが生まれた。 

 それで、フローベール、バルザックと読んで、スタンダールを読んだわけだ。最近、大岡昇平の『武蔵野夫人』を読んでみて、それがスタンダールの心理小説の手法を汲んでいたということもあった。心理小説というのは、これまで僕が読んできた小説とはどうも違うらしい。 

 スタンダールは人物の肉体の殻を剥ぎ取って、というより透かして、神のような眼で「上から」人物の心理を見ている。神だから、作者には人物の心の内が透け透けに見えている。しかも主人公だけでなく、その場で相対する人物も透けている。人間存在の境界(肉体)を取っ払って、行動も心理も見下ろしている。しかも複数の人間を同時に。

  当時はこれが画期的だったのかもしれない。しかし、20世紀小説ではご法度である。すなわち、恋人A(男)と恋人B(女)が、互いに相手の心情を諮りながら恋を語らい合う時、そこに純粋な恋心があれば問題ない。男は、「お前が好きだ」と言いながら『この女をどのように俺のものにしてやろうか、それによって俺は出世街道を昇って行くのだ』と思いつつ、女は、「あたしもずっとあなたから離れないわ」と言いながら、『この人はあの女にも近づいている。私より身分が低いくせに、この男が私に夢中になるなんて私の自尊心が許さない』と思っている。例えば、ジュリアンとマチルドのように。こんな場面は、しょっちゅう出てくる。

 ■人物の自由な意思

 人物の自由な意識ということからすると、Aの内部に入って、同時にBの内部に入ることを、サルトルは「フランソワ・モーリヤック氏と自由」で批判している。人物の心の自由、行動の自由が制限されてしまうからだ。つまり、想像力を制限することになる。人間の意思の自由は想像力であるとするサルトルの哲学からすれば十分わかる。 

 主人公ジュリアンに寄り添って読んでいて、「次はどうなるんだろう」と思っていると、恋の場面であっさり相手の恋人の心の内が見えてしまう。例えば、事件の取り調べがあったとしよう(この作品にはない場面)。刑事と容疑者の表面上の言葉と裏腹に双方の心の中がすべて描かれてしまったら、その取調べのやりとりの醍醐味がなくなってしまう。

 刑事: 「お前がやったんだろう」(もしかしたら、こいつは犯人じゃないかもしれんな)

 容疑者:「やってませんよ」(やばい、ばれてるかな、どうやってしらをきるか) 

 こんな取調べが合ったら、ミステリーではなくなってしまう。『赤と黒』も、こんな感じで男女の愛が描かれている。ジュリアンの気持ちでいたければ、ジュリアンが恋を抱いている時、恋人マチルドの気持ちを読者が分かってしまうのはつまらない。表面上つれなくしていても、マチルドはやっぱりジュリアンを恋しているのだろうか、と一緒になって主人公の意識をもって感じる。これが登場人物の「自由」なのだ。意識の自由を持っているということである。こういう描き方が20世紀では主流になってきたが、このような「神の眼」の視点を排除する方法は、逆に人物の描写を委縮させてしまうという批判もあった。 

 心理描写の代償として、スタンダールは外景描写を極力省略している。それはクライマックスとなるジュリアン・ソレルの処刑場面でもいえる。フローベールなら、処刑日の太陽の照り具合、処刑場に集まった群衆、処刑執行人、受刑者の様子、処刑直前の顔つきなどに数十行、いや数ページを費やすことだろう。なにしろ、小説のクライマックスなのだから。しかし、『赤と黒』では、淡々とわずか数行で終えてしまっている。しかも、注意して読んでいないといつ処刑があったのかさえ見落としてしまう。

  とはいえ、スタンダールの手法は当時にあってはかなり斬新だったようだ。人物と人物の外景を細かく描写していくフローベール風な手法に対し、人物と人物の内景をこと細かく描いていくという方法は、これはこれでありかなと思う。人と人はなにも外と外でぶつかり合っているわけではない。内と内でもぶつかり合っているのだから、そのやり取りを描写するのも一つの方法なのだ。 

 ストーリー的には、前半のジュリアンとレナール夫人の純粋な(?)恋のやり取りの方が興味深かった。むしろ、こちらの方の場面は「神の眼」を排していたから、僕には普通に面白く読めただけなのかもしれない。

 


定年年齢に掛かるアンカリング効果 ~ 「碇(いかり)付け」の意識 

2014-10-05 08:27:15 | シニア&ライフプラン・資産設計

 ■  年齢にかかる「碇」

 行動経済学で「アンカリング効果」というものがあります。人は、ある数字や言葉が意識に刷り込まれていると、それが碇(いかり)が沈むように意識に引っ掛かって、その数字なり言葉を新たな基準として行動を決めるものです。こういうことは日常でよくあります。 

 30歳になったら結婚しなければもう結婚できない、35歳までには子どもを生まなければ初産がたいへんだ、40歳までに家を買わないとローンが払えなくなる、45歳までに部長職についていないとその先の出世はない、60歳までに○○千万円貯めないと老後人生は破滅だ、遅くても○○までに○○しないと・・・・などなど。 

 確かに、そのとおりにできれば豊かな人生が送れるかもしれない、でも・・・・。アンカリングは自分の環境や制度に左右されてしまうことがあります。「なんとなく」その歳までにそうしなければならないと「手遅れ」になる、と世間でも見られているように思い込んでしまっています。これを「年齢のアンカリング」とでも呼びましょうか。 

 さて、60歳には何の「碇」(アンカー)が掛かるのでしょうか。まさしくそれは「定年」です。これは社会的制度でもあり会社の制度でもあります。本人が意識せざるをえない「碇」です。60歳というのは、例えば「年齢不問」で求人カードを見て「定年年齢」を見ると、「60歳」とあります。年齢不問なのに定年が60歳であれば、その時点で60歳前後は最初から採用予定がないことがわかります。求人上、年齢に定めをおいてはならないので「年齢不問」としてあるだけです。年齢不問とするくらいなら、定年も不問(定年なし)とでもしてくれれば気が利いていますが、先方に採用する意思があるとは限りません。 

 60歳というのは、高年法(高年者雇用安定法)が施行され65歳まで雇用延長されても、やはり現役と引退の区切りとして「碇」が掛かっているのです。これは実際に会社側の制度として定着してきたので、それに会社員も完全に意識を固着させています。再雇用となる会社でも、世間の会社で再就職する場合でも60歳は「引退」として「碇付け」(アンカリング)されています。

 ■  「碇」をはずすために

 60歳以降は正社員では雇わない、正社員でも月給は現役時代の半分、というのが一般的です。例えば、月給40万円もらっていた人は20万円もらえば万々歳、賞与はなくてもこれだけもらえればありがたいほうです。「だって、退職金も年金ももらえるんだから、それでもいいじゃん」と思われているのかも知れません。体力も気力も向上心もなく、先もない、そんなふうに「60歳」は思われ、本人たちもそういうものと意識づけられています。

 でも、そうでない人が多いのも実態です。正規職に就けなくて所得も平均以下、退職金なし、したがって年金も少ない、再雇用もない。再就職するにも60歳を基準に年齢が増えていくにしたがって、就職条件が悪くなっていくのを意識せざるを得ません。「60歳」・・・、この数字は重く碇を下ろしていきます。 

 国のデータでは完全雇用に近いといっても非正規労働者がほとんで、失業率改善といっても60歳以上の人は今までの経験を活かせない労働にしか就けていません。例えば、「中高齢者歓迎」の求人にしても、パート、アルバイト、若者が就きたがらない介護や調理補助、ビル管理、清掃の仕事などです。しかも、こういうものでも「経験者優遇」ですから、サラリーマンをしていた人は経験のない仕事ばかりです。残るは、非正規の肉体的作業です。肉体的作業といっても、若者ほど体力を使えるものではありません。 

 政府がいくら高齢者が働ける社会と言っても、現実がそうなっていないからどうしようもないのです。「60歳」というのは、本人の気持ち以外に、社会全体が制度として碇を下ろしているので厄介です。結局、「自分はもう60歳だから」といって、自分で自分の心に碇を下ろさざるを得なくなってしまうのです。 

 碇を上げて行動するには、現役の時以上にエネルギーが必要となります。社会全体に碇が下ろされているなら、それを個人で引き上げるのは相当な労苦です。では、どうすればいいでしょう。社会の「碇」を外すのが難しければ、まず個人レベルで、自分の「碇」をずらしていくことです。「碇」が60歳に掛かっているなら、それを前や後ろにずらす。「自分の定年は55歳」と決めたなら、その「碇」に合わせて早めに準備する。「65歳までが現役」なら、その歳まで現役並みに働けるよう知力・体力を蓄えておく。

 定年前に何をしておかなければならないか、それに向かって動くことがたいせつです。貯蓄や資産設計、働き方の準備、健康、人脈などいろいろあります。「碇」の意識を変えなければ、「定年は突然に」やってきます。


バルザック『ゴリオ爺さん』 ~ 貧困と出世の経済的人間模様

2014-10-03 06:43:23 | 文学・絵画・芸術

 この作品を読んでいくうち、主人公のラスティニャックは、ジュリアン・ソレル(『赤と黒』)とダブってイメージが浮かんでくる。出世欲にとらわれた野心家であること、自信過剰、自意識が強く、自己を正当化する青年像である。

 青年ラスティニャックは、パリの社交界で自分の野心と女を武器に出世することを人生の目標としている。といっても、真から悪人ではなく、内心は優しい青年である。このへんはソレルに共通している。この青年がパリで、自分の人生で出世の頂点に立つのかどうか。

 ―― さあ、今度は俺とお前との勝負だ。

 パリの街に向かって叫ぶこの青年の言葉で小説は終わる。「お前」とは、もちろんパリの社交界である。 

 バルザックは膨大な作品を書き、その小説群を「人間喜劇」として集大成した。作品に出てきた人物は、彼の他の作品に何度も再登場する。ラスティニャックがパリで成功するかどうかは、バルザックの他の作品を読まなければわからない。このやり方は、後に出る作家フォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」に取り入れられている。 

 ゴリオ爺さんの存在は重い。いまは貧困層の下宿に住むゴリオは元事業家である。年老い、くたびれた姿は下宿人仲間にも蔑まれている。彼はパリの上流社交界に嫁がせた2人の娘に全財産を吸い取られ、いまも病の身体から絞り出すように金目のものを娘たちに与えようとしている。それがゴリオ爺さんの幸せなのだ。そこまで与え尽くし、極貧のうちに最期を遂げようとしても、娘2人は臨終に姿を見せない。野心家のラスティニャックもさすがに、この爺さんには優しく接する。 

 親であれば、子からどれだけ吸い取られても、自分が病になっても子に尽くしたいと思う。娘たちの生き方は良いとは言えないが、ゴリオにはそんなことはどうでもいいのだ。一種、神のごとく大きな存在か、あるいは大馬鹿の哀れな爺さんにしか見えない。ただ、親であれば財産がなくとも、いや財産があればよけいに、やはりゴリオ爺さんと同じ生き方をしていると思う。今でいえば、贈与とか相続の話と同じである。親にしてみれば、自分が愚かとか哀れであるとかいうことは関係ないのである。 

 そもそもバルザックを読む気になったのは、「人間喜劇」という壮大なテーマとともに、社会に渦巻く人間模様がどのように描かれているかに興味があった。そして、特別富裕でもない若者が、どのように世界にのし上がっていくか。その欲望と悲哀とは。富と貧困は。今の経済小説といわれるものを読むよりは、バルザックの小説を1つでも読んでみると、人間の経済生活が少しでもわかるというものだ。 

 経済といっても、この21世紀ほどに19世紀当時は複雑な社会ではなかったにしろ、人間の本質はそうそう変わらない。いまバルザックを読むことは、そういう意味で面白く、意味のあることかもしれない。