FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

かぐや姫の物語 ~ 『竹取物語』に見る仏教思想

2013-12-30 00:40:08 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 『竹取物語』は、誰もが知っている物語である。学校の「古文」の授業でも読んだし、少年の頃の週刊漫画誌の特集でも宇宙人説として組み込まれていた。かぐや姫は宇宙人で、地球を偵察するために遣わされたのだと。最後にかぐや姫を迎えに来る乗り物は、じつは宇宙船(UFO)だったのだ、と。 

 高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』については、公開1週間で早くも絶賛の声が相次いだ。画面の余白を描かずスケッチのように白地を残す描画手法、筆描きによる人物の輪郭線の濃淡描写などは、確かに専門家の言うように斬新である。テレビ予告でも繰り返されている、かぐや姫が満開の桜の下で歓喜のあまり円舞する描写、月光のもと十二単を1枚1枚剥いで疾走していく場面は、これまでアニメでは見たことのない手法だ。 

 技術的には高畑監督自身が語っているように、現在のアニメ技術の極致、行き着くところまで来ているという言葉を信じていいかもしれない。それはそれとして、僕がこの作品を評価するとしたら、『竹取物語』をすっきりさせてくれたことである。高畑監督は、極楽浄土思想を持ってきたと僕は思う。月は、清浄澄明な極楽土であって、地球上の人間の魂は輪廻転生して、地球(地上)と月(天上)を循環する。地球は肉体と物質の制約を受ける世界で、月は純然たる魂の世界である。(ここから先は結末をある程度書いてしまいますが、映画の内容は『竹取物語』にほぼ忠実なので、ネタ晴らしにはならないと思います。)

 人間が肉体の死を迎えると、魂はいったん、この世である地球を離れ、天上界である月に還る。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道をめぐり、悟りを開くまで地球(地上界)と月(天上界)を往復する。ただし月に仮宿りする魂は、レベルの高い「天」以上であろう。かぐや姫は、のちに見るように地上界に未練を持つ魂であることから「人間」と「天」の中間の魂と思われる。「畜生」以下は月には行けず、地球の地下深く、地獄界や餓鬼界を経廻る。 

 清浄な魂を持ったかぐや姫であったが、まだ悟り切らず、前世である地球の人間界に未練を残していた。姫は月(天上)から地球(地上)を眺め、美しい山野風景の中でともに生き、笑い、泣き、遊び、走りまわった情感豊かな暮らしを懐かしむようになった。魂は、ひとたび地上の肉体を抜けると、その瞬間に前世の記憶を一切なくすのだが、前世の記憶が姫の魂の底にかすかに残っていたのだろう。 

 月の大王(阿弥陀仏と思われる)は、それを姫の「罪」として地球に堕とした。「天人」になりきれない「人間」を引きずった魂は、もう一度地上の世界で修行しなければならない。それが、かぐや姫への「罰」である。高畑監督は、ここまでは言いきっていない。でも、僕にはそのように理解できる。地上は、魂の修行の場である。自由への制限がある地球で、魂は「人間」という形をもって生き、やがて成長し天界へと昇る(還る)。姫は、かなた将来には衆生を救済する「菩薩」候補なので、父王(魂に父子関係があるならば)はあえてその修行を「契り」と課したのだ。

 幼少期のかぐや姫の生活は、確かに月から憧れていたように、笑い、泣き、食べ、歌い、走り、そして獣、虫、魚、鳥、草木、花とともに生きる。しかし、やがて「罰」がある。姫は美しく育ち、都へ住まわされる。御殿に引きこもった、退屈で閉塞した生活、言い寄る婿候補の貴族、そして帝まで。欲望と穢れの世界。あの頃の自然の暮らしは・・・。 

 「いやだ」――。帝に抱かれて、そう叫んだ。その言葉が、罰の解ける時だった。この世の不浄を悟って罰が解ける、それは嬉しいことのはずなのに、かぐや姫にとっては悲しい出来事の始まりである。この地球を去る時が来たのだ。地球を去る、それは地上の人間界での記憶を一切失うことである。 

 この世は不浄である。苦の世界である。煩悩があるから喜怒哀楽、四苦(生老病死)がある。そこから抜けたところに解脱(さとり)がある。仏教思想では、あらゆるものへの執着があるからこそ、それに捉われ、苦しみが伴う。かぐや姫は、その無常を悟ったのだ。悟ること、それが罪の償いとなったからこそ、月に還れる。ああ、この矛盾。地球で生きることが罰というなら、もっと罰を受けたい。翁や媼、帝への愛らしき芽生え、そして生きとし生きるものと、もっとこの地球で生きていたい。それがかぐや姫の矛盾となり、悲しみとなった。 

 高畑監督はおそらく、かぐや姫の美しさに象徴されるように、この世の生の深い歓びや哀しみにまだまだ捉われていたいのだろう。この作品をつくる意味がそこにあったように思う。作品の根本には「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)、この世の生きとし生けるものすべてに仏性が宿っているという法華思想に通ずるものがある。一見、浄土思想と違うともとれるが、この世そのままが仏土(浄土)になりうるという考えからすると、逆に、この地上で生きるものすべてを愛し、生を全うすることが生身の人間としての生きる意味なんだと。

 美しい、姫よ――、その感情さえ魂の捉われというなら、いくらでも捉われればいい。 

 天上に還るため羽衣を掛けられた瞬間、地上での記憶から解かれて「人間」の表情をなくし、「天人」となったかぐや姫。それでもかすかに地球を顧みる、その一瞬の眼が忘れられない。

 最終場面の「極楽来迎図」は、現代感覚からするといささか唐突に思われるかもしれない。しかし、『竹取物語』の時代背景として仏教思想が全盛だったことに照らせば、不思議はない。極楽往生(魂の昇天)は、人間の肉体の死をもってなされる。だからかぐや姫は、「月に還るくらいなら死んでもいい」と翁と媼に何度も漏らした。かぐや姫が肉体の死を遺さなかったのは、姫にとってこのたびの地上界は、いわば「追試」だったのだ。父王と交わした契りである「追試」だから、肉体の成長(再履修)も早かった。かぐや姫が天衣をかけられた瞬間、それこそ地上界での死であった。

 映画『かぐや姫の物語』を観た後、僕は口語訳で『竹取物語』を一気に読んでみた。そして、その思想の深さ、物語(小説)としての完成度に衝撃を受けている。『源氏物語』よりもはるかに短い物語ではあるが、今なお現代性を持っている。かぐや姫の昇天は魂の変遷の物語であり、現代においても宗教、超心理学のテーマとなっている。

 

 

 


猪瀬直樹氏 ~ 作家と政治家、その権力と凋落

2013-12-23 02:36:52 | 政治・社会・歴史

 猪瀬直樹氏の著作を最初に読んだのは、『ミカドの肖像』だったと思う。もうずいぶん前だが、「ミカド」(帝=天皇)という言葉に惹かれて読んだ。この著作については内容を忘れてしまったが、かなり知的好奇心を刺激されたのを覚えている。続いて、『天皇の影法師』も興味深く読んだ。

 最近(2~3年前)では、『作家の誕生』という新書を読んだ。月並みの作家論ではなく、文章の裏に膨大な資料読みがあることが窺われた。まちがいなく猪瀬氏は、ものを書く者にとっての1つの方向性を示してくれる作家だった。「だった」という過去ではなく、現在もそういう作家だと思う。だから、と言うとおかしいかもしれないが、猪瀬氏は「政治家」ではない。それゆえ、「傲慢に」権力を振りかざさなければ都政もうまくいかなかったのだろう。

 また、自分自身が「政治家としてアマチュアだった」から、今回のような失敗をし、醜態をさらしてしまったと言いたかったのではないか(辞任記者会見で)。僕は、アマチュア政治家だったなら、「5000万円借入れ」が発覚した時点で、すぐに都知事を辞めてほしかった。政治家として不慣れ(ずる賢いプロではない)なので、こんな重大なミスを犯してしまった、ごめんなさいと言ってさっさと辞めれば、こんなに本人も傷つかなかったろうし、都民、国民も政治的な迷惑を被らなかった(都政が一時的に滞ったという意味で)。

 仮に作家としての力と、政治家としての力が別物であるならば、すっぱり「腐れ」を切り離して(5000万円の説明責任は残るが)、作家活動に戻れば、猪瀬氏の今後はこれほどまでに悲惨にはならなかったように思う。「作家力」と「政治家力」を本当に区別できるかどうかというと、これはなかなか難しい問題ではある。真実を見極めてそれを追求し、行動することは、本来どちらにも共通するものであるはずだ。作家、政治家どちらかにとって、真実を見なくてよいというわけにはいかない。結局は、小手先の「力」ではなく、その人の人間性の「力」によるものだ。

 今となっては、猪瀬氏の著作がどこまで真実に基づくものなのか、文章の言葉の端々が怪しくなってしまう。そうなると、過去の著作も、これから書かれるであろう著作も、どれだけの人が読んでくれるかどうかもわからなくなる。猪瀬氏の場合は、虚構(フィクション)を書く作家ではなく、事実(ノンフィクション)を書く作家なのでなおさらである。そういう意味では、同じ作家でもこれまでの作家知事(青島氏、田中氏、石原氏など)のように小説家であるほうがまだ、フィクションという逃げ道があったように思える(何か不正を犯していたのでは?という意味ではなく)。

 猪瀬氏は当面、「5000万円」の真実を赤裸々に公表することで、かろうじて作家としての道をつなげられるのではないだろうか。僕は、猪瀬氏のノンフィクション作家、ジャーナリストとしての能力はすごいものだと今でも思っている。だからこそ、今度のことは残念でならない。作家はしょせん政治家なんぞには向いてないと世間に思わせてしまったこと(本当は個人の資質の問題だが)、著作に書いてあることなど結局は綺麗ごとの正論ぶったものでしかないと読者に思わせてしまうこと(本来、著作物は著者と切り離して評価すべきだが)、こうしたことが僕をすごく落胆させた。

 僕は、猪瀬直樹という作家がこういう形で今まで生み出してきた著作を無とし、作家活動を終わらせるのではなく(猪瀬氏自身、作家として再スタートすると言っている)、もう一度知的興奮を与えてくれる著作を書いてほしいと切に願っている。それが、作家を目指す者たちへの1つの道しるべになるならば。

 

 


ケネディ暗殺50年 ~ そして恐怖の「自由」が来る時代

2013-12-17 00:20:54 | 政治・社会・歴史

 小学校2~3年の頃から、自分の小遣い稼ぎのために新聞配達をしていた。その日、学校を終えて、いつものように夕刊の配達をする時間だった。「コ」の字型に家々に囲まれた路地の中央に置かれた折り込み台で、同じ小学生仲間が、めいめいに分担の新聞を受け取っていた。僕は自分の分を受け取ると、折り込み台で新聞の種類ごとに配達順に並べていた。のちに東京に出て新聞奨学生となった時、新聞1紙ごとに専売所があって驚いたが、地方(三島)では、その配達区域内の新聞を1か所で全部扱っていた。全国紙(日経、読売、朝日、毎日、産経)はもちろん、地元紙(静岡新聞)、そして全国スポーツ各紙。 

 その日は、特別だった。普段、新聞記事など、スポーツ紙以外まったく気にも留めず配達していた僕たちであったが、見出しが異常だった。 

 「ケネディ大統領暗殺」 

 どの新聞も一面、上から下までぶち抜きで、白抜きの大きな見出しが葬儀案内のように印刷されていた。そして、大統領がオープンカーの上で撃たれた瞬間の写真が生々しく載っていた気がする(「気がする」というのは、狙撃の瞬間が後でテレビで何回も映されたから、その日の夕刊にも載っていたと思うということだ。) 

 ジョン・F・ケネディが、政治家としてどういう人物なのか分かりもしなかったし、テレビや新聞などでアメリカの現職大統領ということ、その大統領が若くてかっこいい俳優のような人だというぐらいしか当時は知る由もなかった。

 「キョウダン」という言葉も、その時初めて聞いた。 

 音声だけで聞けば、小学生の僕には教室になじみの「教壇」ぐらいしか思いつかなかった。何度も繰り返される「キョウダン」が、「凶弾」であることが分かるにつれ、生々しくも、何かすごいことが起きたのだと知った。 

 朝礼でみんなが整列した時、ニュースで知ったこの事件について、「ケネディ大統領が暗殺されたんだって」と、まるで近所の誰それのうちで大変なできごとが起きたという延長感覚で話していたのを覚えている。朝礼台に立った校長だか教頭も、「アメリカの大統領が・・・」と言っているのが聞こえた。むろん、小学生がそれ以上のニュースの意味を知るべくもなく、その話題は、僕らの上を通り過ぎて行った。 

 その後、中学に上がった頃だと思う(ケネディ暗殺から5年)。ケネディ大統領の実弟、ロバート・ケネディ大統領候補(上院議員、元司法長官)が、「キョウダン」に倒れたという事件が起きた。今度は、すぐに「キョウダン」の意味が分かった。兄のケネディの場合は、凶弾による即死だった。だから、すでに死亡後のニュースだった。しかし、今度の場合は、凶弾に倒れてから何時間も重体の状態が続いているニュースだった。 

 「今も危篤状態で、危険な状況が続いています」と、テレビやラジオでは、頻繁に伝えていた。 

 「脳を撃たれた」という報道と「危険な状態」が続いているということが繰り返されており、僕は、これは助かったとしても、政治家としてはもちろん、一生普通の生活も無理なんだなと思って聞いていた。この時も、政治的関心からほど遠いところで、現職大統領に続いて実弟の大統領候補が狙撃されたという大事件に接していたに過ぎない。

 あれから50年。アメリカ大統領の長女、キャロライン・ケネディ氏が駐日大使となった。父の大統領が暗殺された時、まだ5つか6つの愛くるしい女の子がテレビに映されていた。ケネディ家の人気はまったく衰えていない。本国でも、この日本でも。ケネディ暗殺の真相探しもまた、派手に復活しているようだ。ケネディ兄弟の暗殺は、アメリカが自由の国になる道のりでの、大きな「闇」であった。自由な民主大国であっても、このようだったのだ。アメリカが、本当に自由の国となったか、もっと自由を目指している国なのか、僕にはまだよくわからない。 

 ここにきて、「自由」から本当に遠い、怖い事件が起きている。朝鮮半島の北では、最高権力者の側近ナンバー2が、「国家転覆陰謀罪」で失脚。逮捕、軍事裁判、銃殺処刑までわずか数日で断行された。その直前にこのナンバー2の側近たちも、彼の眼の前で銃殺されたという。これは、粛清である。まだこんな恐ろしい政治が、いとも簡単に行われている国がある。最も「自由」から遠い国、その国が日本の近くにある。 

 我が国を見れば、「特定秘密保護法」があっさり(ドタバタの末に)決まってしまった。誰も本気で、決まるとは思っていなかったのだ。世の中のみんなが反対しているのに、なぜこんなに急いで決めてしまうのか。この国は、本当に「自由」を守れるのだろうか。北朝鮮、あるいは中国のように、思想統制が始まるのか。本当に僕たちの知りたいことが知らされずに、国の都合の良い「自由」のみが与えられるにすぎないのか。 

 「国民にとって不都合なことまで、国民に知らせる必要はない」と自民党幹事長が言っている。どういうことなのだろう。「国民にとって不都合かどうか」を「国にとって都合がいいか」で決めるということなのか。 

 ケネディ大使が赴任して期待されるところはあるが、駐日大使はあくまで本国の政治的意思を伝え、守るのが使命である。日本国をどうこうしてくれるわけではない。日本のことは、日本人がきちんと考えていかなければならない。 

 50年前のように、「凶弾」による事件など日本で起こってほしくはないが、何か不気味な不安を感じる時代になってきている。