■意味も分からず口にしていた「土人」 沖縄のヘリパッド移設の反対デモ警備で、大阪府警の機動隊員が「土人」という言葉を吐きました。当の本人はあとで「差別的な意味があるとは知らなかった」と言っています。あの時に「コラ、ボケ」などと見下した言葉も発しており、それ自体が差別意識の現れであることを本人自身が自覚できていないようです。この差別感覚は、50年も前に大流行した「ダッコちゃん」現象と根は同じだし、むしろより根は深くなっているようです。
「土人」というのは、私が小学校の頃、意味も分からずに使っていた言葉です。低学年の私たちがその言葉の意味や由来を知る由もなく、少年漫画などで仕入れたちっぽけな知識で、漫画に出てくるアフリカ土着民の黒人を指して無邪気に言っていた気がします。
その頃の漫画に出てくる黒人は、ほんとうに顔、手足、胴体も真っ黒に塗りつぶされており、私たちは見たままで「土人」とか「黒んぼ」などと言っていたのです。今から思えばまったくの差別用語ですが、十歳に満たない子どもたちは、色の黒い日本人の子にもその名で呼んでいました。
■「ダッコちゃん」は黒人蔑視だった 「ダッコちゃん」が登場したのもその頃でした。初代「ダッコちゃん」(1960年発売)は、目も口もまん丸で、耳もドーナッツのように丸い穴があいた真っ黒の人形でした。これが人の腕にコアラのように両腕、両足を巻き付けてダッコするのです。全身裸で、相撲取りのまわしに付けるさがりのような蓑だけが腰に巻き付いていました。
これが子ども心にも可愛くて、大人までも腕にダッコさせて、爆発的に売れたのです。今省みると、人形をダッコさせていた人たちは皆、無意識的な差別行為をしていたことになります。実際、販売されて二十数年後には、アメリカの団体から黒人蔑視の人種差別であると抗議を受け、製造販売の中止に追い込まれました。
その後の復刻版は、黒人というデフォルメを廃し、形や色を変えて単にダッコできるキャラクター人形としたものです。復刻版は初代ほど売れませんでしたが、「ダッコしたい」「ダッコされたい」というのは、人間の(特に女性や子どもの)本能的快感をくすぐるもので、今も根強く生き延びているのでしょう(アトムやドラえもんの「だっこちゃん人形」など)。
■無意識的感覚が差別行為を生む 当時の「ダッコちゃん」現象から見えるのは、造る側、売る側、そして買う側が無意識的に持っていた感覚自体が、アメリカから抗議のあった人種差別感覚とは違っていたということです。製造・販売業者は、人種差別につながるなんて思いもよらなかったでしょうし、購入者も、ただ無邪気な感覚で「可愛い」と思って自分の腕にダッコさせていたにすぎなかったのです。
ただ、単に可愛いからと腕にダッコしていたのは、黒人の子どもをペットのように巻き付けて飾りつけていたのと変わりありません。「土人」という言葉は、それと全く同じ感覚と意識構造により生まれたものです。少しでも黒人人種についての知識が付けば、それが差別行為だということは容易に理解できたはずです。
■幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルの人たち 差別というのは、無邪気な感覚から起きるのだからといって許されるものではありません。そこには成熟した大人の意識が欠けています。許されるとしたら、本当に無垢無知な幼児だけです。幼児には、正常な世間知的な意識が芽生えていないからです。しかし、幼児的な感覚を持ったままの大人がいることも事実です。
少しでも知恵を付けた子どもですら、何が人を差別するかを教えられます。まして知恵を持ったはずの大人が差別する言葉や行為は、許されるものではありません。「ダッコちゃん」現象は、当時の日本人全体が幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルにあったと言うことでしょう。
「おチビちゃん」「おデブちゃん」―。職場などにおける女性へのこういった言葉は、愛称のつもりで言われていることもあるでしょう。しかし、身長が低い、あるいは太っているという本人の立場に思いやれば、言う側がいくら愛称のつもりであっても口にはできないはずです。外見だけで他人を選別し、美醜でランクづけすることになるからです。それは障害者を身体的レベルで差別することにもつながります。
■抑圧がなければ抗議行動は生まれない 冒頭の話題に戻ると、「土人」発言(というより罵詈雑言)について大阪府知事は、当の機動隊員の表現を不適切としながらも「一生懸命職務を遂行しているのが分かりました、出張ご苦労様」とツイッターで擁護する投稿をしたとのことです。権力側についている者が、権力の下について動いている者を励ますのは勝手です。しかし、それはそれ、差別用語を発したことを直視せずに、むしろわきによけて慰労にすり替えていること自体が問題です。この知事が、意識して言ったのなら政治家として全く不向きであるし、意識せずに言ったのなら機動隊員と同じ程度の感覚と意識レベルにあるということです。
この騒動については、反対派も暴言を浴びせたり、横暴な行為をしたから仕方ないと権力側を擁護している声があります。反対派が、法に触れるほどの行為をしたり、近隣の生活に迷惑となることをしているのなら取締りもしかたありません。しかし、誰でも抑圧されなければ抗議行動に及ばないものです。権力側の行為が不条理であり、自分たちの利害が侵されるから抵抗するのだということを考えなければなりません。
■権力ある側と権力なき側との力の差 権力ある側と権力なき側とでは、その力の差は「100対1」あるいはそれ以上であることを知ってほしいのです。逆に言えば、権力を持つ1人の者は、百人、千人、1万人、それ以上の権力なき者を押しつぶすことだってできるでしょう。権力者が反権力者をつぶすには、たった1つの言葉で足りることもあります。
差別というものが力のある側から生じるとなると、政治の世界だけでなく学校や職場でも起こるのは不思議ではありません。「ダッコちゃん」現象のように、幼児的感覚と世間知的無知の意識レベルから生じる単純な差別から始まって、自己の利益を守るために生じる他者への差別へとエスカレートしていきます。この段階になると、より複雑で陰湿となり、ハラスメントや格差、過重労働となって深刻化します。
そういう場合、自分より身体、力、地位、経済的に下位に属する者を貶め、いたぶり、排除することで、自己の利益や快感をわがものにしようとする欲求が起こります。ハラスメントをする側は、えてして本人に差別意識がないものです。これは差別される側、ハラスメントを受ける側の人間の心に対する想像力が欠如しているからです。
■差別を受ける者は、抵抗の意思を持ち続けている 職場では、経営的にも法的にも差別行為やハラスメント対策についての指導が行われているはずです。大阪府警という職場ではこれが全く機能していなかったことが露呈しました。というより、権力主体が大きくなればなるほど本能的に、幼児的感覚、世間知的無知の意識、自己利益による他者排除という心理的欲求が膨張してきて、それが集団化すると、弱者、下位者へのいたわりや想像力がまったく働かなくなるのかもしれません。
差別を受けている者は、常に心の中で抵抗の意思を持ち続けているものです。このことを権力側の人間には忘れてほしくありません。不幸にして自らの死をもたらすことになるかもしれない行為でさえも、抵抗の意思によるものでありうるのです。
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