●名作に見る「財の成し方」
『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ作)は、何度も映画化され、舞台や音楽でも上演された名作である。今年5月にも堀北真希主演で上演されている(日生劇場)。映画で僕が見たのは、ローレンス・オリヴィエ、マール・オベロン主演(1939年・DVD)で、これは映画史上の傑作と言われている。ただ、この映画では原作の前半に相当する部分で終幕となっている。
青年期にこの作品を読んでいたら、その激烈な愛憎劇に僕はまともに翻弄されていただろう。二度と女を愛せないか、これほどまでに女を愛してみたいか、と。なんで今さら読んだかというと、哀しき仕事の性(さが)のようなものからだ。
主人公(孤児)はどうやって富を手に入れ、どうやって相続を策略し、どのように財産を独り占めにしたか。未だ財を成せない僕は、その辺のところが気になってしようがない。しかし、19世紀文学作品できちんとそこが書かれているものはそれほどない。書いてあっても、期待しない方がいい。
『嵐が丘』にも、そんな財の成し方など書いてない。書いてあったところで、「彼は出奔して数年後、富を得て戻ってきた、復讐のために」――。こんな感じで、事業に成功したのか、正式な相続人として莫大な遺産を相続したのか、はたまた大悪事を犯して大金持ちになったのか、あるいはそれら全部のことをやらかしてきたのか、どうもぼかされてしまっている。もっとも、名作はこれでいいのである。
●愛の復讐と財の奪略
そういうわけで、この作品で無一文から富豪になるまでの方法を知るのは早々に諦めることにした。そのかわり、財を成してからの愛憎が絡む復讐と財産の奪略劇は、たいそう恐ろしくも興味ある話である。主人公ヒースクリフは、かなりの偏執狂のねちっこさで、2家2代にわたる復讐をとげ、最後は自分を裏切った女(それでも愛し続けていた)を幻覚に見ながら微笑みを浮かべて死んでいく。
ヒースクリフはまず、かつて自分を虐げた、恋人キャサリンの兄を賭博に引きずり込み破産させ、土地屋敷を差し押さえて全財産を管理する。次にキャサリンの夫の妹イザベラを誘惑し、キャサリンへの見せしめから結婚し、子どもを生ませる。それを知ったキャサリンは、ヒースクリフを愛しながらも裏切ってしまった罪の意識と激しい嫉妬から狂気のうちに死んでしまう。
その後、ヒースクリフは成長した自分の子とキャサリンの子を監禁同様にして強引に結婚させてしまう。ヒースクリフの子は病弱でやがて死に、ヒースクリフの世代も次々と死亡、こうして彼はキャサリンの家系と、キャサリンの夫の家系、2代にわたった全財産の管理者となる。
こう書いてしまうと、さっぱりしたものだが、わずか2つの家系なのに愛憎が複雑にいり込む。恋人に裏切られた男が腹いせによる復讐劇を自分の代と子たちの代、2代へと繰り広げるわけだ。今の時代なら、「さっさと裏切った恋人なんて忘れちまいなよ」と言いたいところだが、人間の性(さが)、愛憎というものは、けっこう深いところで根を張っているのである。
●愛と金は別物か
『嵐が丘』で、そもそも復讐心を起こさせるきっかけは、恋人が自分を捨てて他の男と結婚してしまったからだが、そのいきさつには、ドキリとさせられる。上流貴族の子息に見初められ、結婚を申し込まれたキャサリンは家政婦に心を打ち明ける。
「今でもヒースクリフは大切だわ。私そのものだもの。でも、彼と結婚したら一生,乞食みたいに生きていかなくちゃならないでしょ。エドガー(求婚者)となら、上流の生活を続けられるわ」
陰でこれを聞いてしまったヒースクリフは、この時から出奔し、復讐を誓うのだ。裏切ったキャサリンと、自分を虐げた彼女の兄、さらに一族の子孫に。それにしても、キャサリンの告白ももっともだし、ヒースクリフの憎しみもわからないではない。いくら愛しているからって、乞食になってまで男を愛せるか?
「愛があっても、お金がなけりゃね」――、これは19世紀も今も変わらない命題だ。お金の現実は重い。そうなると、愛の問題はどうなる? それが解決できないから、愛憎・復讐劇は今の時代でもテーマとなりうるのだ。愛と金の問題が同時に解決できれば一番いいが、愛は愛、金は金と割り切れるだろうか。まして、燃えるような愛情のさなかにある男女では、愛と金を分けて考えられるか?
『嵐が丘』のキャサリンはそれを別々に考えた。「愛してるけど、あなたにお金がないなら結婚できない」
ヒースクリフは愛と金を一緒に考えた。「愛してるなら、金がなくても一生、共に生きられるさ」
さあ、あなたなら、どうする? 答えようによっては、愛憎と復讐の悲劇が・・・。
【サイト内関連ブログ】