今年(2012年)のノーベル文学賞は、中国の作家になりました。毎年文学賞にノミネートされている村上春樹氏は今年も「落選」となり、尖閣諸島の問題で対立していた中国などは「日本に勝った」とかなんとかで大騒ぎ(?)だったようです。
でも、この中国の作家は、母国でもさほど知られているようではなかったですし、本もほとんど売れていなかったそうです。むしろ、中国では村上春樹氏の作品ばかりが本屋の店頭に並んでいたとのことです。もっとも、村上氏の作品は中国どころか、世界中どこへ行っても読まれてはいます。ノーベル賞作品と売れている作品の関連性は分かりません。これまで売れていない作品でもノーベル賞受賞となった途端、売れ出す作家もあるわけですから。
ともあれ、村上氏が「落選」とか「負けた」とかいっても、なんら村上氏の名や作品の評価が落ちるわけではありません。中国では、さすがに反日デモ直後は村上氏の作品といえども、日本の「製品」ということで一時撤去されていました。しかし、日を追うにしたがって、やはり日本作品をいつまでも無視しておけず、ユニクロ商品と同じようにすぐに店頭に並びました。デモが終わった後、日本をコテンパンにののしっていた人が、数日もたたないうちに襲撃されたイオンの店に服を買いに来ていて「政治と経済は別」と言っているのを聞くと、なんといっていいかわからない論理というか理屈というか、とても不思議なかつ不快な感慨にふけりました。
常々思うのですが、中国といえば黄河文明の大昔から栄えた大国、仏教伝来はじめ、遣隋使、遣唐使の時代から日本にとっては桁外れの大文明の国、偉大な思想の師というべき国家です。国土もそうですが、人の数も一桁二桁違います。日本の戦国時代の兵力の数というと、大群と言ってもせいぜい数万の軍勢(東京ドーム1個分の観客数)ですが、三国志や項羽と劉邦の時代の兵力ときたら10万、20万人は当たり前、時には100万人クラスの軍勢が繰り出すのです。そのスケールの違いだけで、日本は中国には及ばず、思想、宗教、文化、文明、あらゆる面で中国は日本にとって手本というか、足元にも及ばない国でした。
それが、日清戦争で日本が勝利するや中国は後れを取り、凋落するのです。あれほどの国の凋落ぶりは、何が原因でしょう。その辺の歴史観は私には勉強不足でうまく説明できませんが、「大皇帝の国」中国が、どうも最近の領土問題を見ていると、姑息に思えてきて仕方ありません。
歴史的にも、政治的にも法的にも尖閣諸島は日本固有の領土と日本は言い、中国は中国でやはり釣魚島(尖閣諸島)は自分達の領土だ、日本人は歴史を知らない、歴史を学べと言います。確かに、私たちが高校・大学受験するまでの教科書には近代の日本と中国との正しい歴史が明らかに欠落しています。のちに小説や書物などで、日本人は随分ひどいことをしてきたのだなと知ることがいくつかあります。そうしたことは、ほとんど学校の教科書では学べません。これは、我が国の最大の欠点です。同様に、中国ではやはり思想統制的に自国に都合の良い情報しか流していないでしょう。「どっちもどっち」、こうなると、両国が「自分たちが正しい」と言っている限り、領土問題の解決はかなり難しいでしょう。
国際裁判とういう手があると言うかもしれませんが、それを裁く人が両国との関係でどれだけの利害があるかでずいぶん判決が変わるでしょう。逆に自国にあまり利害がないとなると「どちらでもよい」という裁決にもなりうるでしょう。個人の弁護士なら、成功報酬ということで頑張りようがあるかもしれませんが、国際裁判では誰が誰にお金を払うのでしょう。単に正義だけでは、国と国の争いは解決できない気がします。また、裁決に不満な一方の当事国は、「控訴」のようなことができるのでしょうか。控訴しても、控訴後の裁判、また控訴で結局争いはすぐには解決しないでしょう。最終裁決に当たっても、結局、裁判は不当とか言って、争いは続くのではないでしょうか。こんなことを考えると、暗澹とします。最終的には法の下ではなく、経済のもとで解決するしかないようです。
・・・と、ここまで書いてきたのですが、実は日中の領土問題について書くのが趣旨ではありませんでした。そう、村上春樹氏の小説です。『風の歌を聴け』、『海辺のカフカ』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウェイの森』、『1Q84』と読んできて、最近(といっても3ヵ月前ですが)読んだのが『ねじまき鳥クロニクル』。村上ファンに比べれば数は少ない方ですが、この作品はなぜかまともなところがあって、ほっとしたような、おや、と思うような。「まとも」というと、いかにもほかの作品がまともでないような気がしますが、この『クロニクル』という小説は、私が青年時代から読んできた日本の作家と比べても違和感のない書き方でした。
村上作品というと、よく言えばカフカ的作品、不条理的という要素があります。現実的にはありそうもないことが出てきて、それに対して結論を出さずにほったらかしておき、そのまま結末まで行く。あとはどうとなれ、自分で考えなされ、というところがあります。人生なんて、理屈ではない、自分の考えた通りにいかないし、なぜ自分だけがこんな目にあうんだということが多々あります。そうしたことをすべて受け入れて生きていくしかない、というのが不条理の文学です。そこまで教訓めいてはいませんが、不条理なことに解決を求めても、何ら解決しないのです。人生では、正義が必ず勝つとは限りません。悪が勝つことの方が多いかもしれません。悪でも、力が強い者が勝つことがあります。それを称賛したりしませんが、そういうことがあります。文学は、ただ、そういうことを描くだけです。
『クロニクル』の中にも、そうした不可解な部分、村上作品特有なところもあるにはあります。また村上氏の作品では、時々残酷な描写が出てきます。『海辺のカフカ』でも猫を残虐に殺す描写があり、その生々しさに「へえ、村上さん、ここまでやるじゃん」と思いましたが、『クロニクル』の第1巻の終りあたりで、米兵が日本兵を生きたまま皮剥ぎにして殺させるという場面が数ぺーににわたって描かれていました。その迫力は、読み終えた後もずっと頭に残り、村上春樹という作家は単に売れている流行作家ではなく、日本近代文学、戦後文学、世界文学を確かに踏破してきたまともな作家(ノーベル賞候補作家に対して失礼かもしれませんが)であることが分かりました。
ノーベル文学賞がどういう基準で選ばれるのか、今年はアジアで中国が選ばれたので当分日本の作家は選ばれないだろうとか言われています。ただ、私に言わせれば、こういう物言いが妥当か分かりませんが、村上作品って、本当にノーベル賞クラスの作品なのかなっていつも思っています。作品は全世界で読まれていますし、当代一の作家かもしれません。根拠はありませんが、ある意味、「すごいな」というところがないのです。私の感性が鈍いのか、「すごい」と思わせないように感じさせながら、ずっと読ませ続けるのですから大したものです。今年の中国作家のように、読まれないことが受賞の条件であれば、村上春樹氏のノーベル賞受賞は、当分ないかもしれません。