FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

経済物理学はどこまで発見されたか ~ ポートフォリオ理論が通用しなくなる日

2014-10-30 00:23:55 | 経済・金融・ビジネス

 最近いろいろな本を読んで考えたことを、あくまで断章的に書いておこうと思う。

■伝統的経済学に代わるもの  

 これまで資格試験も含めてあれほど勉強してきた伝統的経済学や金融工学の内容が通用しなくなると、いったい何を勉強してきたのかと思う。行動経済学や経済物理学のことだ。 

 まず、行動経済学が伝統的経済学(標準的経済学)にとって代わるというのは大げさで、それは誤っているだろう。双方に長所と短所、限界があるので相互に補っていくべきものだと言われている。しかし、それにしてもファンドマネジャー、エコノミスト、経済評論家があれこれ理論武装していろいろ予測しているが、結局、モダン・ポートフォリオ理論では予測なんて当てにならないということだ。 

 そういってしまうと元も子もないし、かといってこうした理論なくして予測されたり、それにより運用されたりも困るものである。あくまで理論は理論として基本は押さえたうえでの運用は必要であるが、ことさら以上に過信するものでもないということになる。このことは、ポートフォリオ理論を学べば学ぶほど、感じることである。 

 今のポートフォリオ理論が当てにならないとなると(?)、つまるところ、運用については個々の株式やアクティブファンドなどよりも、インデックスファンドやETF(上場投資信託)だけで運用した方が気が楽だし、なにより余分な手数料を掛けなくても済む。 

 経済物理学(エコノフィジックス)の理論が本質に最も近いのであれば、現在、運用会社での理論づけは、まったく意味がなくなることになるのではないだろうか。リスクとリターンの関係、すなわち、標準偏差と正規分布の考えは意味がなくなるとまでは言えないが、今の運用理論の根拠を失う。 

正規分布の幻

 リスクは正規分布に基づいて計算してきたのに、正規分布では説明できないことが起きている。たとえば、正規分布では、σ2(シグマ2)で全変位の95%が占められるのだが、為替レートではσ20くらいの大変動が1週間に1回くらいは起きているという(『経済物理学の発見』高安秀樹著)。

  もっとも、正規分布にしろ、ベキ分布にしろ、過去の統計値を取ったものだから、未来の数値を予測することなどできない。しかし、ベキ分布によって、より正確な分析が可能であるならば、株式市場などでの株価予測もより正確にできるようになり、金融リスクも把握しやすくなる。それによって、リスクを軽減して利益を得やすくなり、金融商品の売買もしやすくなるということだ。 

 トレンドの捉え方も変わってくる。サイコロの同じ目が5回続いた後、同じ目がこの後も続いて出る可能性は統計的にはあくまで1/6である。しかし、経済物理学では、5回以降も同じ目が続いて出る確率は過去のデータでは、かなり高くなっている。そしてこれが、トレンド(暴落・暴騰)につながる。 

 株式市場は、単に物理学的に説明できるものではなく、投資者心理が大きく反映している。株価の変動をもたらす要因を分析する方法としてはファンダメンタル分析とテクニカル分析がある。ファンダメンタル分析派からすると、テクニカル分析派は、邪道でまったく意味がないという。確かに長期的な分析となると、企業の財務分析や経営方針によって、株価が変動する要因となることが多い。 

 しかし、行動経済学や経済物理学によれば、単に、サイコロの目が出る確率以上の変位が起こる。つまり、トレンドが発生するのだ。短期的な株価の動きを見ると、やはり、トレンドはある。テクニカル分析派は、そのトレンドを分析しているので、一概にその方法を否定することはできないが、その方法がすべてであるとは思えない。罫線(チャート)の分析は、結局は過去の動きに当てはめているだけで、そこには投資家の人間としての心理、経済物理学でいうところの群集心理の分析が見られない。 

■「ただ飯」は食えるか 

 伝統的経済学では、裁定取引は発生しない(フリーランチは存在しない)ことになっている。うまい偶然 に行き当たってタダ飯を食うことはできない。しかし、エコノフィジックスでは、わずかな時間の「スキ」に、「タダ飯」を食うことが可能であるという。しょせん、株式市場は、企業の財務・経営力でも、株価の過去のトレンドだけでは将来の動きなど把握できるものではないのだ。 

 エコノフィジックスによっても、その「スキ」を、ヘッジファンド中心に狙っている。一般の投資家がその「スキ」に乗じて、儲けを得ることは至難だろう。ただ、行動ファイナンスや、エコノフィジックスによって、リスクの研究がもっと進むことによって、一般投資家がもっと気軽に投資できるようになることはいいことである。 

 もっとも、その場合は大きなリターンを得るというよりは、長期的にそこそこの、かつての預金利子(5~6%)が稼げる程度になれば万々歳である。預金利率が1%以下という状況であるから、一般投資家はあまり知識もなく、運用利率を求め、したがってリスクを知ることもなく、リスクのある金融商品に手を出してしまう。市場が伸びている時はよいが、市場がいつまでも投資家のご機嫌をとってはくれない。どこにリスクが発現し、リスクに無知な人を陥れるかわからない。 

 やはり、リターンに対するリスクの所在をよく知っておく必要がある。ファンドの評価にしても、シグマやシャープレシオは金融工学での正規分布を前提としている。その前提が大きく変わってしまったら、投資の方法も評価も、考え方も大きく変わっていくだろう。

 

 

 

 


ドストエフスキーの「ニニンガシ」とマルクスの「2×2=4」 ~ 世の中は数式どおりにはいかない

2014-10-18 06:46:21 | 経済・金融・ビジネス

 社会に出て経済学を勉強し始めたとき、文学漬けだった僕にはどうにも違和感があった。ドストエフスキーの作品で、登場人物が「この世の中は、“ニニンガシ”みたいにはいかないんだ」というようなことを言っていた。“ニニンガシ”というのは「2×2=4」のことである。つまり、人間の心は公式のように合理的にはできていないということである。このセリフを読んで、社会的未熟な僕は、なるほどその通りだと思った。 

 だから、良い意味でも悪い意味でも個人主義(自己意識)にかぶれていた僕は、経済学でいくら「ニニンガシ」と言われても、「いや、そんなことはない」「人間はニニンガサン(2×2=3)、ニニンガゴ(2×2=5)だってありうる」と思ったものである。そんなだから、経済学はちっとも面白くなく、身につかなかった。資格試験の勉強をしていた時もずっと苦手だった。 

 学生時代、独学でマルクス経済学を少しかじった時も、ちんぷんかんぷんで、せいぜい「労働者は資本家に搾取されている」程度のことしかわからなかった。もっともこのことは、マルクスの「2×2=4」によって共産主義国家ができたのだからかなり重要なことだったのだけれど。せめてもの救いが、マルクスもあまり経済学は好きでなかったということを何かで読んだことである。マルクスは好きでない経済学を好きな哲学と結びつけた時、「これだ!」と思って、嬉々として邁進したという(『経済学哲学草稿』)。 

 もちろん僕なんか、マルクスと比較するまでもないが、そのマルクスが革命的な経済学の体系を築いたのだから、僕も大いに励まされた。もっとも、マルクスくらいの大天才になると、何が真実であるかどうかというレベルでものを考えているわけであって、この学問が好きだ嫌いだというレベルを超えているわけであるけれど。 

 行動経済学は、経済学と心理学を結びつけている。心理学者がノーベル経済学賞を取るくらいだから(2002年ダニエル・カーネマン受賞)、これは面白いらしい。それだけではない。現在、経済学の範疇は、物理学との関連(経済物理学)、脳神経学との関連(神経経済学)の分野まで拡がっている。こうした研究が進むと、「じゃあ、これで投資して儲けられるわけだ」と思われるかもれないが、そこは、「ニニンガシ」とはいかないらしい。


カーネマン “Fast & Slow”~ 新しい投資家心理教育を

2014-09-30 12:38:19 | 経済・金融・ビジネス

 ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』“Thinking, Fast, and Slow”は、面白い本だ。ある評ではフロイトの「精神分析入門」に匹敵するほどの画期的な本だという。ある意味、これまでの経済学の考え方を変えてしまうほどの力のある本と言えるかもしれない。カーネマンは2002年に行動経済学の学説でノーベル経済学賞を受賞している。共同研究者のエイモス・トヴェルスキーが存命していれば同時受賞していたと言われている。 

 確かに読んでいて興味深い。特に経済学が苦手(というより学ぶのが苦痛)な文学系出身者にとって、心理学が絡んでくると、俄然興味が湧いてくる。行動経済学自体はまだ新しい学問なので、標準的経済学(伝統的経済学)を脅かす学説というよりは、まだまだ経済学説主流の一派にすぎないとか、今は流行しているが、いずれ廃れる「人気タレント」的な学説のように見られている節がある。人間の行動心理や認知方法を探るものだから、まだ曖昧なところがあるような気もするが、それは標準的経済学とて同じである。 

 今までの経済学は市場を十把一絡げにとらえて分析するので、いちいち個々の人間の心理なんて対象になどしていられない。そんなことをしていたら、経済政策などとることができない。そういう意味では、人間を合理的経済人「エコン」と捉えるのは間違っていない。間違ってはいないが、すべて正しいとは言えない。 

 そこで心理学の立場から(カーネマンは経済学者ではない、認知心理学者である)個人の心理まで分析して経済を分析する手法が現れたのは必然である。このような個人の経済人を「ヒューマン」と呼んでいる。「ヒューマン」は、合理的経済行動をとる「エコン」に比べて、不合理ともとれる行動をしばしばとる。それはバイアス(認知的錯覚)からくるものである。その数々の例は、この本に書かれている。これらの分析結果は、米国政府の政策にも取り入れられているという。そういう意味では、一時的な流行学説で終わるものではないと思う。 

 特に金融分野では、これまで説明つかない投資家行動が説明されることにより(というよりすでに金融機関によって投資家心理を応用した商品が開発されてきた=毎月分配型投資信託など)、投資家教育もより前に進んでいくと思われる。 

 ところで、一般に行動経済学が伝統的経済学(標準的経済学)にとって代わると言われるのは大げさであると思う。そんなことは、カーネマンはじめ行動経済学者は誰も言ってないし、双方に長所と欠点、限界があるので相互に補っていくべきものと思われる。(ちなみに、昨年(2013年)のノーベル経済学賞は、行動経済学者と伝統的経済学者の2人が同時受賞。)

 


行動ファイナンス ~ カラマーゾフ的人間とゴルゴ的人間

2014-09-23 15:30:39 | 経済・金融・ビジネス

■ カラマーゾフ的人間とゴルゴ的人間 

 ここに2種の人間がいるとする。一つは「カラマーゾフ的人間」と言われる人間である。一つは「ゴルゴ的人間」と言われる人間である。前者は文学的人間、後者は経済的人間である。

 「カラマーゾフ」というのは、言うまでもなく19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーが創りだした『カラマーゾフの兄弟』の一族である。ドミートリー・カラマーゾフに代表されるように、きわめて不合理で不条理な人間、激情的で、短期的な視野の持ち主、浪費的で爆発的行動力を持つ投機的な人間である。この人物は、とてつもない潜在意識力によって衝動により行動する。

 「ゴルゴ」というのは、こちらも言うまでもなく日本現代の漫画作家さいとうたかを氏が生んだ完璧主義者にして超合理的な経済的人間、「超」が3つも付く一流スナイパー、「ゴルゴ13」である。この人物の典型は、合理的・条理的人間、効率的な考えを持ち、感情を排除し、かつ長期的な視野をもって行動する。経済的で、冷静冷徹、計画的な行動をとる人間である。この人物は、顕在的な、怜悧で明晰かつ精確な意識の下に行動する。

 カラマーゾフ的人間は、混沌としており、デモーニッシュ(悪魔的)で、「個」としての存在感が強い。これは行動経済学が暴きだした人間の極端な典型である。一方、ゴルゴ的人間は整然としており、日常的でかつ一分のすきもなく完璧で、存在自体がゆるぎなく、ゆえに「個」である同時に「集団」としても存在しうる。これは伝統的経済学が生んだ典型である。

 これから研究の対象となる人物的典型は、カラマーゾフ的人間である。現在は、ゴルゴ的人間の典型が集団をなして一つの巨大な経済的塊りをなしているが、新しい類型の人間が、徐々に台頭してきている。

(※「ゴルゴ」的人間とは、真鍋昭夫氏の著書よりヒントを得て命名したもの。)

 

 ■ なぜ行動経済学が必要か?

  伝統的経済学は、人間が合理的な存在であることを前提としている。しかし、人間が合理的でないということは誰でもわかっている。合理的な経済行動ができれば、今よりもっと豊かになっているかもしれないと思う人はいるはずだ。人間は不合理だから損をするのかもしれない。この合理性と非合理性の隙間に潜む人間の心理的特性を明らかにすることはできないものか。それができれば、その隙間に存在する一定の法則性がわかる。この法則性を解き明かすことで、新しい認識と行動が見えてくる。

 単に、認知上の錯覚(バイアス)を知るだけが目的ではない。ファイナンスについていえば、バイアスを明確にし、正しいファイナンス知識を身に付けることが、正しい投資行動につながる方法となる。行動経済学が、いまやその役目を果たしてくれるかもしれない。

 

 

 


「家族的」な会社の危ないところ ~ ホワイトに見えるブラックな部分

2014-09-18 01:02:41 | 経済・金融・ビジネス

 会社の求人募集欄を見ていると、たまに、小さな会社ほど「家族的な職場」であることを「売り」にしている会社があります。いつも険悪で今にも喧嘩が勃発しそうな、あるいは専制君主のような社長や上司のいる下でびくびくしながら働くよりも、家族的な雰囲気で働ける方がいいに決まっています。でも「家族的」ということが、働くうえでそんなにいいとも言えません。 

 小さな会社では、若くて体力のある人に無理してでも働いてもらいたい。体力のない高齢者を雇っている余裕はないともいえます。残業代も関係なく、とにかく死ぬ気で経営者と一緒に働いてくれる人を望みがちです。小さな会社の社長ほど、従業員に経営者と同じ気持ちで働いてもらおうという気持ちが湧いてくるのは仕方ありません。それでなければ、経営がやっていけないからです。 

 しかし、いくら社員が少なく家族的だと言っても、根本的に経営者と従業員はまったく違う存在なのです。経営者はいろいろなリスクを負っていますが、同時にそれに対する大きな見返りも可能です。高報酬、社会的地位、自由裁量、権限、これらは経営が成功すれば得られるオーナーのハイリターンの部分です。従業員の見返りと言ったところで、たかだかボーナスがいくらか増えたり、昇進して給料が増える程度です。それで満足であるという人はそれでいいですが、従業員にも自分の人生がある、自分の夢があります。その実現のために、なぜ見返りが大きくないのにリスク(倒産など)のある経営者と同じ意識で運命を共同にして働かなければならないのか。 

 こう言うと、仕事というのはそういうものじゃない、自分の能力を高めるため、経験を積むため、ひいてはそれが会社や顧客のためになるから働くのであって、金は二の次だという声が聞こえてきます。もっともです。仕事はいい加減にやっていればいいということではありません。徹夜してでもやらなくてはいけないときにはやるべきです。それを承知の上であえて、会社経営というリスクを経営者と一緒に負う必要はないし、経営者も従業員にそれを求めてはいけないと言いたいのです。経営者と従業員は、そのリスクもリターンも完全に別物なのに、従業員にも経営者と同じ意識を求めるのは経営者の一種の傲慢であると思います。 

 よく従業員も経営者と同じ視点、同じ意識で働くことが必要だと言われます。意識レベルではそれが必要だと思います。しかし実際には経営者レベルの意識になるには従業員は圧倒的に情報が足りません。会社の事情も分からないのに人事や財務の細かいことまで従業員みんながが知りたがったり口出ししたら、経営者は困るでしょう。そんなことよりも与えられた目の前の仕事をきちんとやっていてくれと経営者は思います。

 中小の会社はきれいごとを言っていたら潰れてしまう、とよく聞きます。青臭いこと言ってたら経営が成り立たない、と。でも、経営者自ら頑張っているのに、従業員も同じように頑張らないのはおかしいというのは、どこか間違っています。もちろん、従業員は従業員なりに、自分の持ち場で頑張らなくてはいけない。しかし、経営者と同じレベルで苦労して頑張れというのは、どだい無理な要求なのです。それは、経営者と従業員の立場をごっちゃにしているから言えることです。従業員も社長と同じ夢を見たいというならそういう道もありますが、同じリスクも負わなければなりません。 

 小さな会社で「家族的な職場」であることを強調したがる経営者がいます。従業員は、そんなことを求めてはいません。物理的にも精神的にも働きやすい職場環境と労働や能力に見合った給料、モチベーションが高められる会社を求めています。社内で昼食やおやつを一緒にとったり、会社みんなで飲み会に食事会、和気あいあいとプライベートも遠慮なく話し合って仕事をしていける――、もちろん、そうでないよりそのほうがいいに決まっています。しかし、それが低賃金、長時間労働、しかも残業代なし休日なしの代償であるなら、誰も家族的であることを望みたくありません。会社は家庭ではない、会社は働いて正当に報酬と休日をもらうところです。

 

 


最近のハローワーク ~ 失業者は「お客様」?

2014-06-18 00:45:11 | 経済・金融・ビジネス

 10年ぶりくらいにハローワークへ行きました。5月末に発表された有効求人倍率が1.08とわずかに改善されたと発表されても、これは非正規労働者が中心となった数字で、正社員の求人倍率は0.61 倍で逆に下がっています。企業が出した求人のうち、採用に結びついたのはわずか2割ということです。 

 相変わらず、ハローワークでは仕事を探している人たちが溢れています。ちょっと驚いたのは、ハローワークの職員の人たちが、親切・丁寧(表向きは)になったことです。順番待ちのアナウンスからして「○○番のカードでお待ちのお客様、○○の窓口までお越しください」――。 お客様? 一瞬、銀行かどこかに来たのかと思いました。失業者を「お客様」と呼ぶのです。

 失業しているとはいえ、税金を払って、その税金で運営されている機関である以上、「お客様」に変わりはありません。確か10年くらい前にお世話になった時は「○○番のカードをお持ちの方」だったと思います。求人票を持って紹介カウンターに行くと、担当者がわざわざ立ち上がって、「どうぞお掛け下さい」と丁寧にあいさつしてくれます。終了後も立ち上がって、「お疲れ様です。よろしくお願いいたします」と礼をしてくれます。ハローワークの紹介出張所でも同じで、受付カウンターでは男女の職員が直立していて、入って来た求職者を見るなり「いらっしゃいませ」と声をかけてくれます。これなんか、ちょっと違和感を感じたりしています。

 前回(10年ほど前)の時は、番号を呼ばれてどの窓口へ行っていいのかまごついていると、「何をしているの! あなた、あなたよ、早くここに来なさい、みんな待っているんだから」まったくもう、と中年の女性職員に失業者みんなの前で怒鳴られたことがあります。「失業者という弱者」と「仕事を紹介してやる側」という構図がこんなところにもあるのかと、その時思いました(その職員は特別だったのかもしれません)。

 失業者といっても、大企業の役職者が定年とか事情があって退職しここへ来る場合もあるでしょう。そういう人は、今まで管理する立場にあった人間として相当、自分のプライドが傷つけられるでしょう(プライドというものがあればの話ですが)。ああいう言い方はないだろうと私も思いましたが、そんな場所で多くの失業者の前で職員と言い合うのもみっともない、第一、それでいい職が見つかるわけではないので、その場はおとなしくしていました。

 考えうるに、10年前はこれほどスマホが普及していなかったということがあります。これは憶測でしかありませんが、今どきは、職員から嫌な対応を受けた失業者がツィッター、ブログなどで告げ口を載せたり、あるいは直接ハローワークに抗議メールを送りつけるということも考えられます。10年前のあの時の対応をされたら、今の私でも抗議メールくらい送りたくなります(現に、こうして書いているくらいですから)。

 職員の対応が良くなるのはもちろんうれしいことですが、それにしても「お客様」は違和感があります。お客様だからといって、「またお越しください」というのはさすがにありませんでしたが、できれば、いつまでも「お客様」(失業者)ではいたくないものです。


年金は5年先も安心ではない ~ 数字と文字だけの危機感

2014-06-12 16:21:07 | 経済・金融・ビジネス

 5年に1度の年金財政検証がやってきました。政府は「100年先まで安全」という年金検証を前回も前々回もやったはずでした。ところが、年金財政は、その後も破綻に向かっています。

 今後は「マクロ経済スライド」の実施は不可欠だというが、それではなぜ制度ができた2004年から実施してこなかったのか。2009年の財政検証でも言われていたことです。特にデフレ時にはこの制度は機能しないという決めごとがあり、これまで一度も発動されていません。インフレ時にも使えない、デフレ時にも使えない、これでは話になりません。これを発動させると、現在年金を受給している世代(高齢者)の反発を買って選挙には勝てないというのが目先の利害だけを考えた政権の姑息な理由だったからです。その結果が、年金財政を苦しくし、将来はこれまで以上に年金受給額を低くさせるもととなりました。

 政府は所得代替率「50%」を維持することを約束してきましたが、この「50%」を守ることにこだわって、さまざまな数字の細工がされてきたのではないでしょうか。特に若い世代にとって所得代替率がこれ以上低下するのは避けてほしい状況ですが、「50%」を守るメンツのために無責任な数字を出してもらっては困ります。

 実際の政府の受給予想よりもはるかに受給額、所得代替率は悪くなる傾向が言われています。政府はまた、将来の物価水準、運用率に伴う所得代替率、受給額の予測を8段階にして出しています。予測などもともと無理だとしても、8パターンもあると、「さあ、どれにしますか」と机の上に出されて、国民の方が回答を迫られているようで、違和感を感じます。国がやることは決まっています。最悪とまではいかなくても、悪いパターンの可能性が何パーセントあるのか、それに備えてどういう政策をとるか、ということです。

 今回出てきた対策としては、前回の財政検証でも言われてきたことと何ら変わっていません。

1. 受給年齢を65歳から徐々に70歳に引き上げ

2. 保険料負担年齢を65歳まで延長

3. マクロ経済スライドの実施(すなわち年金受給額の引下げ)

 これらの指摘は今に始まったことではありません。前回でも分かっていたはずです。だんだん状況が悪くなっているにもかかわらず、「まだ大丈夫、まだ大丈夫」と言ってきたのです。

 将来の受給パターンの良い条件として、「女性と高齢者の就労がもっと活発になれば」と言っています。何が「・・・なれば」なのでしょう。こうなればこうなる、などというのは民間人でも言えます。民間よりも詳細で膨大なデータを持つ国の機関があまりに大ざっぱすぎるというか、やる気が感じられません。実態は5年前と何ら変わっていないのです。女性が幼い子供を抱えて本当に安心して働ける制度ができているのか、高齢者が誰でも働ける環境ができているのか。

 高齢者の就労については、「改正高齢法」により65歳まで雇用延長が可能となりました。しかし、定年が延長されるといっても、大部分の中小企業ではいつまでも高齢者を会社においておく余裕がありません。この「高齢法」は義務ではないので、結局60歳になれば何やかや理由付けされて会社の外に追い出され、退職金なし、仕事なし、年金なし(65歳まで)の「3無し」の現実に追いやられるわけです。

 「・・・・という条件であれば、年金は安心です」などと人ごとのように言う前に1つ1つの施策をきちんとやってもらいたいものです。物価上昇率、運用利回りにしても、甘い将来の見積もりが、将来の若者を苦しめるのです。「100年先まで安心」といった矢先にお尻に火がついているのに気が付かない、それが役人のやることなのです。100年どころか、5年先もどうなっているかわかりません。


「高齢者」お断り? ~ 求人票に見る皮肉と悲哀

2014-06-05 07:27:03 | 経済・金融・ビジネス

■ 求人票の皮肉 

 そもそも60歳を「高齢者」と呼ぶかどうかという議論(というほどでもないが)こそおかしい。60歳になって、自分が引退だと思っている人がいるのか、だいいち、引退できるほど余裕の資産があるのか――。

 サラリーマン生活から解放され、「さあ、これから好きなことをやって生きていこう」と思うにも肝腎のお金がない、だから働かなければならない。これが多くの60歳の現状だと思います。年金? 年金などはまだ先で、今の60代前半は部分年金(報酬比例部分)のみ受給、65歳から厚生年金と基礎年金の本格受給が始まります。年金受給が始まったところで、それで死ぬまで暮らしていけるわけではありません。「働くことが生きがい」などと言っている人は、十分な資産と年金受給が見込める人です。現実は、「生きがい」を犠牲にしてつらい仕事でも、とにかく現役並みに働かなくては生きていけないのです。

 国は、健康で意欲のある「高齢者」にもっと働きの場と機会を提供する、もっと頑張ってもらうと言っています。が、実態は「雇用延長」など中小の会社では関係ありません。60歳過ぎた人間をまともな給料、まともな仕事で雇おうと考えている会社など、そうそうあるものではありません。ハローワークの求人だけでなく、ネットの求人ナビを見ても、建前は「年齢不問」としておきながら、「定年60歳」としてあったり(つまり60歳以上及び60歳手前はお断り)、「30代中心の若い人中心に頑張っている会社です」(つまり40代以上お断り)、「幹部候補生として将来に向けて一緒に成長してくれる人望む」(つまり先の短い人お断り)、「30代前後の女性たちが元気に働いている職場です」(つまりむさいおじさんお断り)などとあります。

 ハローワークでの求人上、年齢や性別で募集を選別できないため、クイズのように募集記事から「裏読みしてください」と言っているのが見え見えです。求職する側としては、この求人は何歳くらいをターゲットとしているのか、男に来てもらっては困るのか、若い女性向けの求人なのか、30代までしか採らないのか、前の会社で肩書きの重い人は扱いにくいから来てほしくないのか、要するに「高齢者」は採りたくないのかなどと、「裏読み」のほうに意識をめぐらさなければなりません。

 考えてみれば、会社からすれば、若い人を入れて将来会社を支えてくれる人を望むのは仕方ありません。特に中小の会社では、先が見えている人間を採用しても、気力・体力が衰えてすぐに辞められたらたまったものじゃありません。そうでないというならば、求人票の書き方も考えたほうがいいでしょう。「中高齢者中心に募集」「60歳以上の方も歓迎」とか、はっきりしたほうがいいでしょう。たとえ5年以内の勤務でも、年齢なりの働き方と存在価値があるはずです。中短期でも、若い世代への橋渡し役として、もっと利用すればいいのではないでしょうか。

■ 悲哀の「高齢」(?)コンビニ強盗  

このままだと、働きたくても働けない中高年が増えて、かえっていろいろな面で問題になるではないでしょうか。と思っていた矢先、テレビで2人組のコンビニ強盗の姿が防犯カメラに映し出されていました。犯人は明らかに(?)70代の男であろうという。「70代」というのは、ナイフを突き出している男たちの帽子とマスクで顔を隠している隙間から白髪とやつれた膚の皺が見えていたからです。テレビでは静止画だから動作まではわかりませんが、少し背中が丸まり膝が曲がった恰好からすると、歩く姿もよっこら、という感じのようで、いかにも老人っぽかったのでしょう。

 なにやら悲哀を感じます。よほどお金に困った挙句なのでしょう。年金などまともにもらえていないのか、もらっていたとしても家族が病気で看病や治療にお金がかかるのか。この2人組がいくら奪ったのか知りませんが、わずか数万円のお金だったら捕まえるのも何だか切ないものがあります。もちろん、老人強盗を見逃してやれというわけにはいきません。売上金を奪われたほうだって、中高年オーナーが借金をしてコンビニを切り盛りして苦しいのかもしれません。

 そういえば、牛丼屋などでは働き手がいなくて休業する店が増えているそうです。「すき屋」「松屋」などは売上そっちのけでバイトの時給上げ競争をしていますが、それでも人が集まりません。深夜営業を1人でしかも低賃金で仕切り、翌日分の仕込みまでやるきつい仕事だからです。「肉の日」(5/29)には牛丼屋のバイトたちがネットでスト決行を呼びかけていました。若者はもう、将来の見えないところから出ていきたいのです。いまどき24時間営業が必要なのか、バイトの賃金を低く抑えてまで品物を安くして売上を上げる必要があるのか、そういう経営モデルはとっくに行き詰っています。深夜の時給など上げないで、さっさと閉店してしまえばいいでしょう。

 「そんなこと言うなら、あんたらを雇ってやるで」

 そう言われたら、高齢者はどうでしょうか。そりゃあ、仕事があるのはうれしいけど、若者がきついと言って逃げ出すような仕事しか、もはや高齢者には残されていないのかねえ・・・・。

 

 


「残業代ゼロ」のその先は ~ 「ホワイトカラー・エグゼンプション」は効率的選択か

2014-05-31 00:34:02 | 経済・金融・ビジネス

■ 低収入者は今も「残業代ゼロ」

 政府では今、「残業代ゼロ」の法制化(ホワイトカラー・エグゼンプション)の議論があるということです。推進派は、「効率的な働き方ができる」「柔軟な働き方の選択肢をつくる」などと言っています。これに反して反対派は、「長時間労働」を懸念して議論は平行線をたどっていますが、ほぼ法案化される見込みです。 

 そもそも、この議論をしている人たちは、労働の実態をどれだけ把握しているのでしょうか。推進派は企業の競争力を高めるためだと言っているようですが、何か違う気がします。 

 大企業の社員で福利厚生が充実し、退職金(企業年金)もそれなりにもらえて、平均より年収も高い人なら、成果重視で労働時間に縛られることなく「残業代ゼロ」でも頑張れるでしょう。それだけ働き方の選択肢も増えるでしょう。というか、実際に高収入の人たちは、今でも人に言われなくたって夜遅くまで仕事をしている人たちで、「時間」で仕事をしているわけではないのです。頑張るだけ頑張って、報酬もそれなりにもらって、あとはしっかり休暇も取れる人たちです。何をいまさら、と思います(というより、本当に残業代をもらっているのでしょうか?)。 

 ひとたび法として「残業代ゼロ」としてしまうと、それにならって大多数の中堅・中小企業、いや上場企業の社員でもそれほど高給でない社員は、長時間労働を半ば強いられるようになる懸念があります。 

 現状を言うと、中堅・中小企業でも、「年俸制」(欧米から入ってきた考え方でしょうか)と称して残業代、休日手当なしで社員に働かせているところがあります。そもそも「年俸制」というのは、ある程度の年収以上(平均よりかなり上)で、それなりに仕事に自己の裁量やインセンティブを与えられている人に当てはめる制度です。それを中小企業もまねて、社員に権限のない名目の肩書を与えて「年俸制」を都合よく解釈し、専門的な仕事だと言いくるめて、平均収入に満たない社員に残業代なしの長時間労働で働かざるを得ない状況に追いやっています。朝出勤して夜11時、12時の終電帰り、土日休日もたびたび出勤し、振替休日も取れる余裕もなく、有給休暇も十分取得できない状況です。 

 そういった会社がどれだけあるか、政府関係者は知っているのでしょうか。いや、そういう労働者まで今回の法を考えているわけではない、大企業の幹部クラスで年収900万円以上(1000万円、1200万円以上という案もある)で、本人の同意を前提にこの「残業代ゼロ」制度を導入したいのだ、と政府では言っています。本人の同意といっても、それを拒否すれば働く条件が悪くなるのがわかっていて同意しない人はいないでしょう。

■ 中小でも、なし崩し的長時間労働化

 私は何も、「残業代ゼロ」に何が何でも反対せよと言っているわけではありません。もともと高収入で優秀な社員は時間に拘束された仕事をしていません。自宅に帰っても、休みの日も、年がら年中仕事のことを考えています。それなりのモチベーションとインセンティブがあるからです。しかし、こういう社員は全国でも一握りです。これを法や制度で政府が決めることでしょうか。そんなのは会社と個人で決めればいいことです。ひとたび国が決めたことになると、「そりゃ、いい」と大多数の会社がそれに乗じて、低収入社員の長時間労働が常態化してしまいます。それこそ、うつ病や体調不良の人間が増え、効率的な働き方などできなくなるでしょう。 

 「働き方の柔軟化」とか、「効率性の良い働き方」を言うのであれば、全国民が安心できる安定収入と休暇、退職年金や福利厚生に与かれるような会社にするのが先決であろうと思います。それを行うのは個々の会社側の努力となりますが、十分に条件が整っていない労働者層までに、法令による「残業代ゼロ」化による低賃金・長時間労働化がなし崩し的に浸透してしまうのが恐ろしいのです。現に、厚労省側が「世界レベルの高度専門職」を対象者に考えているのに対して、民間議員側(経済同友会)では「年収条件をはずし、対象者の範囲を拡大する」案を出しています。これが法案化されてしまうと、低収入で残業代ゼロの人は、最後の砦、提訴による時間外手当の未払分請求の道もなくなってしまいます。 

 現在も低賃金・長時間労働で休暇も少なく、将来の生活に不安で怯えている人たちがどれだけいるかを考えてもらいたいと思います(無理だろうけど)。もっとも、たいした仕事もしていないし、責任も果たしていない人たちが、だらだら会社に居残り続けて、それでもって残業代や退職金をちゃんと貰えるシステムというのも、これはこれで大問題だと思います。もう一度言いますが、それは会社の経営問題であって、法令化の問題ではありません。


「金持ち父さん」になるための自分プロジェクト

2010-04-17 02:31:59 | 経済・金融・ビジネス
もう10年くらい前に『金持ち父さん 貧乏父さん』『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドランド』(ロバート・キヨサキ著・筑摩書房)を読みました。当時はなるほどと、けっこう面白く読んで共感したりしましたが、それまででした。

最近、『金持ち父さんの起業する前に読む本』『金持ち父さんの投資ガイド入門編』『金持ち父さんの投資ガイド上級編』(いずれもロバート・キヨサキ著・筑摩書房)を立て続けに読みました。このたび会社を辞めることになり、次のステップとして独立を考えていたからです。

幸いというか独立活動中、次の会社が決まり、契約という形で働くことになりました。ただ、今よりだいぶ収入が落ちてしまいます。これを単に収入が減って落ちぶれたと考えるか、それとも独立して早くも固定収入が得られた、今後もほかの契約を取って収入を増やしていくのに幸先がよいと考えるか、この違いはかなり大きいものです。

誰だって、「貧乏父さん」になるより「金持ち父さん」のほうがいいに決まっています。老後、カツカツの生活で不安の中で暮らしていくのかと想像するだけでゾッとします。そういう時に「金持ち父さんシリーズ」を読んだのです。安易に「金持ち」という言葉を使うことに抵抗を感じる人もいますが、本の中身は起業家、投資家になるための正当な道を説いています。

内容的には以前読んだ2書と大きく変わるものではありません。しかし今回読んだ時は、その現実味というか、真剣味がまるで違います。まさに起業しなくてはいけないし、「貧乏」にはなりたくない。人は生まれつき、よほどの財産を持っている人は別として、たいていは何もしないでいると、「貧乏」になっていきます。当たり前のことです。収入がないのに支出だけが増えていくからです。「金持ち」になるためにはたいへんな努力と行動が必要だし、誰でもが「金持ち」になれるわけではないのは、現実を見れば分かることです。

本によれば年収が10億円以上ないと「金持ち」とは言わないようです。せいぜい「ミニミニプチプチ金持ち」を目指そうと思います。そこで本のシリーズをヒントに自分自身のプロジェクトのポイントを考えてみました。自分の立場に当てはめて自分自身で考え、自分自身の言葉で書くことが大事です。

多くの人が職を失っています。多くの人が老後の生活に対して不安を抱いています。厳しい現実かもしれませんが諦めて何もしなければ、そこで止まってしまいます。この間の冬季オリンピックを見て感じたこと、それは、諦めて練習しなくなればメダルどころか順位さえ付かない。「諦めなければ夢は叶う」ほど現実は甘くありませんが、少なくても「諦めなければ、道は続く」。諦めれば、そこで道は途絶えます。

自分のためのプロジェクト7カ条
1.チームをつくること。
2.期限の目標をたてること。
3.得意分野をビジネスに結びつけること。
4.アイデアを出すこと。
5.不安からは恐怖以外なにも生まれないと肝に銘じること。(針の穴ほどでも希望があるなら、そこを進むしかない。)
6.ビジネスをとにかく始めること。
7.お金がない時こそ、自分のやりたいことに投資すること(アイデア、時間、生活、消費、働き方、仲間作り、勉強など、すべてやりたい方向につぎ込むこと)。

ついでに書いておきますと、人生はお金がすべてはありません(青臭い言い方ですけど)。でも、必要なお金がないと生活も精神も悲惨になります。人生を豊かにするためには「金持ち父さん」になるためのプロセスが必要です。お金がたくさんあれば幸福になるとは限りませんが、お金に余裕があれば不幸になる要素を排除することが可能です。

リストラされた方、失業している方、老後を前に収入が落ちて不安を抱いている人、共にがんばりましょう。

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