FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

6代目菊五郎「鏡獅子」 平櫛田中 ~ 「本物そっくり」のなかに芸術家の魂の「ぶれ」がある

2014-11-27 00:24:27 | 文学・絵画・芸術

■ 「本物」に近づくための菊五郎裸形

 世の中には、本物と偽物、そして「本物そっくり」と、「複製」がある。「本物そっくり」は、本物ではないが、偽物ではない。 

 平櫛田中彫刻美術館は、東京の小平市にある。平櫛田中(ひらくし でんちゅう)の代表作は、「鏡獅子」。国立劇場ロビーにある高さ2メートルの木彫像で、目にしたことがあるかもしれない。僕はその実物像をまだ見ていないが、その像の数分の一(58cm)の田中本人作の試作像を何回か見ている。田中館は、僕の散策コースにあるところなので、何回も行っているし、そこに行けばいつでも見ることができる。試作像といっても、国立劇場の実物を彫るためのものだから、縮小されているとはいえ、単に小さいだけで実物像そのものである。 

 この「鏡獅子」を彫るために、そのモデル、尾上菊五郎(6代目 1885年~1949年)の裸形像も田中は彫っている(鏡獅子試作裸形)。大きさは、実物像より小さくはあるが、顔といい、身体つきといい、筋肉の付き方まで菊五郎本人そのままである。この裸形像も、ぐるり、ぐるりと周りながら見ていて飽きない。何より、本物の菊五郎にそっくりなのに驚く。

 田中は「鏡獅子」を彫るのに、20回以上も菊五郎の歌舞伎「鏡獅子」を見ている。その結果、衣装の上から見たままの鏡獅子では、本物を彫れないとし、それで菊五郎に裸になってもらったのだ。これは、唐突でもなんでもない。菊五郎は先代がいた頃から自分が稽古する時も、弟子に稽古をつける時も、常に裸体であった(念のため、言うまでもないが褌だけは締めていた)。 

 裸体であることによって、歌舞伎を演じる時の筋肉の動きや四肢のバランス、頭の位置や腰つきがわかるという。幾重もの分厚い衣装の上からでは、微妙な筋肉の動きまではわからない。その裸形像を見ていると、顔もそうだが、身体つきがあまりに実物に近いので、ぞっとするほど見とれてしまう。

 ところで、裸形像のモデルとして立つ時、菊五郎は「裸体であるなら、顔の隈取りまでは必要ないだろう」と田中に言った。

「それがなければ、だめなのです」

 と、即座に田中は返したという。

「そういうものか」

「そいうものです」

 菊五郎も、田中の迫力にその覚悟を悟った。

 かくして、裸体で顔を隈取りした、異様な「鏡獅子」の原型が出来上がっていくのである。だが、「鏡獅子」の実物像が完成するのは、戦争の影響もあり、衣装を着けた試作像ができてから22年もかかった。それが今、国立劇場にある。色は、専門の彩色家が色付けし、まことに眩く、美しく、力強い。そこには、月並みな言い方だが、魂が宿っている。

■ 3D複製と「本物そっくり」では本質が違う

―― 本物そっくりななら、今は3Dプリントで十分できる。実物そっくり、本物そっくりなのが、そんなにすごいことか。

 という声が聞こえてきそうな気がする。では、精密につくられた3D複写模型像を持ってきて、国立劇場の横に並べてみたらいい。どちらが本物か。

―― そりゃあ、田中さんのものだと言いたいだろうが、やっぱり3Dのほうが本物そのままだね。

 と言うだろうか。

 そうなのだ。それは、すぐわかる。本物と寸部違わず精確に同じなのは、3Dの方だろう。今後、技術がもっと進んでいけば、実物とまったく見分けがつかなくなるだろう。

 しかし、田中が彫ったのは複製ではなく、「本物そっくり」の像である。だからこそ、精密な複製と比べると似てはいない。そこには、田中なりの歪みや「ぶれ」がいたるところに、わずかずつだがあるはずだ。それが、彫刻家田中の魂の「ぶれ」だ。田中は、その「ぶれ」もろとも、本物そっくりに見えて本物そっくりに彫ったのだ。そのわずかな「ぶれ」こそが、彫る者の魂の震えなのではないだろうか。田中は、自分が「このように見えた」鏡獅子を彫った。

 神が人間を神自身に似せて創ったように、芸術家は本物そっくりに似せて人間や動物を創り出す。それは、3Dによる複製ではなく、芸術家が見た本物そのものである。その像全体を微かな「ぶれ」が息吹いている。その息吹に、僕たちは「本物そっくり」と言って感動するのだ。

 100分の1ミリも違わずに精巧に複製された彫刻に、僕らは感動するだろうか。そこには、芸術家の「ぶれ」の微塵もない。「本物の複製」と「本物そっくり」とでは、それだけ違うものがある気がする。

 念のために言っておくと、技術としての3Dを否定するものではない。3D技術が多分野で貢献していく期待があるのは言うまでもない。しかし、この田中作「鏡獅子」を見ていると、3D技術がどれだけ進んでも、当分芸術の分野は侵されないと確信する。なぜなら、芸術の神髄は、あくまで「本物そっくり」に創るといっても、必ずそこには芸術家の「ぶれ」があるからだ。

【関連コラム】

平櫛田中 ~ 転生する「人畜生」


目先の損得にとらわれない これからの年金、早くもらう方法と多くもらう方法

2014-11-23 00:45:00 | シニア&ライフプラン・資産設計

年金もらい時の損得は金額だけでは測れない
年金がもらえる世代になると、年金を繰上げるかどうかで迷う人がいるかと思います。繰上げが損か得かで考えると、実際に繰上げる年からの受給総額と、65歳からの通常の受給総額を比較すればわかりやすいでしょう。例えば5年の繰上げで60歳から受給した場合の受給総額は、76歳中に65歳からの受給総額に追いつかれ、その後は受給総額が逆転し時間の経過とともにその差額は開いていきます。

5年繰上げで単純に金額で比較すれば、76歳までの受給総額では繰上げした方が多くなり得ですが、それ以降も長生きすると総額でもらえる金額が少なくなり損になります。平成25年の60歳の平均余命は男性23.14歳、女性28.47歳ですから、平均的には生涯を通じてみれば、繰上げは得ではないということになります。しかしこれだけでは、年金をもらう本人にとって、本当はどちらが得か損なのかわかりにくいから迷うのでしょう。

金額の満足度なのか、今使える満足度なのか
この年金受給については、金額的な効用のほかに時間的な効用があるから迷うのです。効用とは満足度のことです。お金については、一般に金額的には高い方を、時間的には早くもらう方を人は選好します。その方が満足度が高く得だと思うからです。自分の満足度を最大化することを人は選択するわけですが、繰上げるかどうかを選択しにくいのは、どちらの満足度が高いか測るのが難しいためです。

生活資金の不足が切迫している、あるいは逆に余裕があるならば、迷うことはないかもしれません。例えば、定年退職後の生活で年金に頼る部分が大きい人にとって、本来の受給額が減ってしまおうがさほど迷うことなく1ヵ月でも早くもらうことで、その人の満足度すなわち効用は最大化するでしょう。確かに金額でみれば損することになるでしょうが、早くもらって「今が使い時」という時間的な効用により替えがたい満足度がもたらされるのです。

一方で、年金に頼らなくても生活にそれほど困らない人は、もらえるものは早くもらって「今が与え時」となる可愛い孫の小遣いに使うとか、元気なうちに夫婦で快適な生活のためにさっさと使ってしまうということが最大の効用となります。こういう人たちにとっては、損の勘定(感情)とはならないでしょう。

効用を見極められない3つの要因
実際に繰上げるかどうかで迷う人は、損得の分岐点が微妙なバランスのところにあり、金額と時間の効用をどういう基準で判断したらいいかわからないからです。これについて受給者の立場で整理すると、次の要因が挙げられます。

1.年金の「減額率」の意味がよくわからない。
2.繰上げた時の「受給額」が正確にわからない。
3.目先の「効用」(満足度)にとらわれている。

■5年で30%の減額率の意味がわからない
1つ目には、「減額」の意味がよくわかっていないということがいえます。繰上受給では、1ヵ月当たり0.5%の年金が減額されます。1年で6%、5年では30%もの減額になります。仮に65歳からの年金受給が100万円あるとします。5年の繰上げでは、60歳の年でもらえる年金額は70万円(100万円×0.7)になってしまいます。これは、1年の減額率が6%で、その分が5年分続くから合計30%の減額率になるということではありません。金額でいうと、60歳での年金額94万円(減額率6%)がその後も5年間続くということではなく、実際には30%分減らされた70万円が毎年支給されることになるのです。簡単に書くと、「マイナス6%×5年」ではなく、「マイナス30%×5年」となります。

減額は65歳までではない、一生続く
2つ目には、年金はいったん繰上げると、減額された金額が一生(生きている限り)続くということです。誤解されやすいのは、年金が減らされるのは「繰上げた年だけ」、あるいは「繰上げた年から65歳まで」と思われがちなことです。つまり5年の繰上げでは、60歳でもらえる年金額は上記では70万円なので、94万円と思っていた額と24万円もの開きがあるわけで、これが5年間でみたら470万円(94万円×5)もらえると思っていたのに、350万円(70万円×5)しかもらえず、これが生涯続くわけですから、この乖離は総額となるとかなりのものになります。

「将来のことより今がだいじ」というバイアス
3つ目には、人間の心理として、目先の利益を最大限優先したくなることが挙げられます。これを、行動経済学では「現在性バイアス」といいます。バイアスというのは、「認知的な偏り」という意味です。将来得られるはずの利得が減ってもいいから、現在に早めて受け取りたいという心理的欲求は誰でも経験するところです。そのくせ、人は少し先の将来のこととなると、自分のことなのに急速に関心がなくなってしまいます。「将来のことなんてわからないから、今がだいじ」というわけです。このようなバイアスにとらわれていると、今の生活が少しでも苦しいと、つい1年くらいなら、と年金を早くもらいたくなってしまいます。

このように、そもそももらえる金額や仕組みが正確に把握できていなかったりバイアスにとらわれていたりすると、効用の比較などできるはずもなく、それゆえ選択に迷うわけです。なんとなく「お金が早めにもらえるなら」と思ってしまいがちですが、こういう考えこそ将来に大きな「損」を招きます。繰上げの損得を知るには、繰上げたときの受給減額分に見合った効用が「今」だけなのか、将来のどの時点まで及ぶのか、それを見極めるためにも上の3つのことに注意してもらいたいと思います。

繰下げも同時に見据えて考えてみる
もし目先のことにとらわれずにすむなら、繰下げという方法もあります。もらうのを早めるのではなく、もらうのを遅くすることで1ヵ月当たり0.7%、1年で8.4%、3年でも25.4%、5年の繰上げでは40%もの年金増額となり、これが生涯、毎年受給できるわけです。資産運用でこれほどのリターンを出すのは相当至難です。65歳過ぎても働けるうちは働けるなら、それまで繰下げて受給することで、それなりの効用は大きいわけです。ちなみに70歳まで5年繰下げた場合、80歳中に65歳からの受給総額に追いつきます。このように、年金の繰上げは繰下げも同時に見据えて今から考えるべきです。

減額による効用をイメージする
目先1年やそこらでお金が不足するためにわざわざ繰上げるのか、5年、10年、その先まで収入を補うためなのか。よくよく考えてみる必要があります。当面、目先のことだけが問題であるなら、年金を繰上げる前に、まだほかに見直せるライフプラン上の対策があると思います。まずは迷う前に、繰上げた場合にもらえる金額を出してみるといいでしょう。ちなみに年金100万円を1年早めると、今後毎年6万円、1ヵ月で5,000円ずつの減額となります。これを基準にして、あなたにどの程度の「効用」をもたらすか(プラスもマイナスも)イメージしてみてください。


宮崎駿とジブリ建物の本物感 ~ リアリティは細部と全体の精密さが創り出す

2014-11-16 01:56:10 | 芸能・映画・文化・スポーツ

  油屋「千と千尋の神隠し」

 サツキとメイの家「となりのトトロ」

「ジブリの立体建造物展」(江戸東京たてもの園)より

 

■ 見えないものへのこだわり

 8月の夜、小金井市にある江戸東京たてもの園の中、「ジブリの立体建造物展」。「となりのトトロ」のサツキやメイたちが住んでいた家の精密な模型があった。これは四方からも上方からも角度を変えて部屋の中、奥まで透き通して見える、実によくできたものである。 

 それから「千と千尋の神隠し」の油屋の模型。これも細部まで精巧にできている。このたてもの園の中には、この油屋のモデルとなった昔ながらの銭湯の実物大の建物が残っていて、スタジオ・ジブリと東京たてもの園は以前からゆかりがあるのだ。

 さらに、これは建物の模型ではないが、「天空の城ラピュタ」のパネルがある。これは舞台となった飛行する「ラピュタ」の島全体を描いたものである。各場面が、この天空を飛行する島のどこで起きていたのか、その場所を拡大して描いている。 

 これらに言えることは、全体構造が細部まで完璧に出来上がっているということだ。全体が出来上がっているから細部が描ける。細部と全体がつながっているからこそ、そこに物語がリアリティをもって描ける。

 「映画では、わずか1秒も映らない場面でも隅々まで細密に描く、―― 例えば、民家の畳など、そこに陽が当たっていればきちんとそれを描く。それが必要だから、やっぱりそこまで描かなくちゃならないんだ」 宮崎駿は、そう言っている。

 そういえば、黒澤明監督も似たようなことをやっていたのを読んだことがある。時代劇で民家のタンスが映る場面がある。タンスの外見だけ、それも一瞬しか映画では映らない。なのに、実際にタンスの引き出しの中に住人が着る服を作らせて、すべての引出しに詰め込んだという。そうしないと、現実的な質感がなくて、黒澤監督は納得いかなったという。

 ■ 細部が全体をつくる

 完璧な全体があって、精巧な細部があって、そして場面があって、人物が動く。最初から人物や景色の細部だけがあるわけではない。そこには、緻密に積み上げられた大きな建造物がある。どこから見ても現実感をもっていて、破綻することのない全体の建造物であり、作品世界がある。

  映画の中のあの場面はここ、その場面はそっち、と現実的に指差すことができるリアリティをもっている。そして、作品の人物ひとりひとりには、詳細な履歴書ができている。主人公と家族、親せきはもちろん、近所のおじさん、おばさん、年寄り、友だちなど、どんな歴史をもった人物が、どのような関係にあり、どんな土地に何年住んでいるか、それらはみんな決まっている。わずか、数秒しか登場しない人物でもそうなのだ。

  見えない所、映らない所は描かない、のではなく、見えない所こそきちんと描かなければならない。虚構の作品とは、そういうものなのだ。手を抜いたところにリアリティは生まれない。小説でも、芸術でも、どんな仕事でも、やはりそれは同じなのだろう。 

 

<関連コラム>

『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間


今なぜ、サルトル実存主義か ~ 自己を護る理論武装の書

2014-11-13 01:45:10 | 哲学・宗教・思想

 ■ 「白熱教室」の思考実験 

 先月までNHK教育で「ケンブリッジ白熱教室」が放送されていた。講義はケンブリッジ大学のアンディ・マーティン博士(哲学)だ。実存主義哲学についてサッカーのベッカムや歌手のマイケル・ジャクソン、はてはFBIなどを引き合いにして実存主義哲学の思考実験を講義している。 

 今なぜ実存主義か。僕はもうとっくにこの哲学思想は廃れてしまっていたと思っていたから、嬉しくてテレビにかじりついていた。学生を卒業以来、僕は実存主義関係の書物はほとんど読んでいない。実存主義といえばサルトルの『存在と無』、ハイデッガーの『存在と時間』が挙げられる。僕が読んだ頃は、もう下火だったかもしれないが、一時はこの思想は世界中に「流行」したという。

 そういう流行りで読んだわけではなかった。大学生協の書店の棚にずらりとサルトル全集が並んでいたし、神田の古本屋街にも全集本が並んでいた。たまたま、そのうちの1冊、日本語タイトルで『文学とは何か』を買って読んだ。その1冊が命取り(?)になって、『実存主義とは何か』を読んだ。後日、古本屋街で全集本をまとめて買い込んで、両手で抱えきれないほどの本を電車に乗って持ち帰ったのを覚えている。今ならアマゾンで注文すれば家まで届けてくれるが、当時はそんなことは考えられなかった。 

 僕は哲学科の専攻でもなかったのに、こうして実存主義関係の本を読み漁ったわけである。「白熱教室」の講義では、嬉しいことにサルトル、カミュ、キルケゴール、フッサール、デカルト、フロイト、ヘーゲル、ベルグソン、プルーストなど、当時親しんで読んだ哲学者や文学者の名前が続々と出てくるので、ついついテレビを見てしまった。

 それにしても、思想にも流行りと廃れがあるようで、実存主義などという言葉はほとんど聞かれなくなっていた。というより、自分が哲学などの方向からずれてきてしまったから耳に入らなくなったのかもしれない。逆に言うと、この哲学思想が一時の流行の波に洗われ、試練に耐えて、ようやくれっきとした哲学史にその名を印すこととなった証なのかもしれない。 

■ コンプレックス武装の書 

 はっきり言おう。今さらだけど、『存在と無』はけっこう面白い。これは哲学書だけど、文学書でもある。そして僕は、大学卒業当時、自分がこれから生きていくための指南書として読んでいた。この書が自分を導いてくれる、生きる上での武器になると思うと、わくわくして読んだのを覚えている。

 「人間は、自由の刑に処せられている」

 「地獄とは、他者のことである」

 「まなざす者」と「まなざされる者」

 「意識はつねになにものかを指向している」

 など、哲学書にしては、文学書のような表現が随所に出てくる。

 マーティン博士によれば、サルトルは自分の容姿にコンプレックスを抱いていたという。そのコンプレックス脱却としての武装の書だったのかもしれない。サルトルといえば、写真で見るとおり小柄で小太り、片方の目が藪にらみで、カミュなんかに比べればどう見てもぶさいくで見劣りがする(でも、それなりに僕はサルトルの容姿が思想家らしくて魅力だったけど)。僕はといえば、その頃は社会に出ていく自信がなくコンプレックスだらけだったから、この書に本当に救われる思いがした。 

 哲学ということであれば、『存在と時間』のほうが、厳密的で体系もきちんとしていて、いかにも哲学書という印象がある。哲学書を面白いなどというと、けっこう堅物っぽく思われるが、面白いのだから仕方ない。哲学は、自分自身の存在にその概念が還ってくるので、難解な言い回しに出会っても、自分のこととして考えると、なるほど、とそのうちわかってくるのである。これが経済学になると、自分の外で起こっている事象のようで「なぜそうなるのか」と突き詰めても、結局自分のこととしてわからないのだ。 

 その経済学にしても、最近は人間の不合理性に目を向けて、投資家の心理が研究されている。その根本にあるのは、「人間は不合理な存在」であること。実存主義もまた人間存在を不合理と捉えるが、人間は不合理であると同時に「人間そのものが不条理な中に存在する」と捉える。

 ■ 「不合理」と「不条理」の概念 

 「不合理」と「不条理」、似ているようでちょっと違う。簡単に言えば、「なぜ自分はこんなふうにしてしまうんだろう」と疑問に思うのが不合理。「なぜ自分はこんな状況の中にいるんだろう」と戸惑うのが不条理。これでは余計にわかりにくくなってしまうかもしれないが、たとえば、理性ではAの方がいいとわかっているのにどういうわけかBを選んでしまうというのが「不合理」である。一方、「不条理」というのは、「なぜ自分だけがこんな理不尽な状態になっているんだ、とある状況の中に放り込まれていることに突然気づくことを言う。これをサルトルの言葉で文学的に言うと「嘔吐」であり、ハイデッガーの言葉で哲学的に言うと「世界-内-存在」となる。小説でいえば、カフカの「城」とか「審判」だろう。 

 人間は、自分が今いる状況を常に不条理であると感じる。「世界」の「中」(内)にこうしている自分の「存在」に突然気づいて怯え、「嘔吐」する。このような「もの」としての自分(即自存在)に吐き気をもよおし、そこから脱出しようともがく。その行動への意識が「自由」(対自存在)である。―― ひじょうに大ざっぱに言えば、こういうことである。 

 哲学を無理に経済学に結びつける必要はないけれど、人間の投資心理の研究が進んでいることからすると、「経済哲学」という分野が今後期待されるかもしれない。ただし、投資してみて気づいたら大負けしていて、「なぜ俺だけこんな状況にあるんだ、何とかしてくれ」と叫ぶというのとは、だいぶ違うのであしからず。それは、不条理とは言わない。

 最後に、実存主義哲学をよみがえらせてくれた(?)マーティン博士には感謝したいが、番組ではどうもその醍醐味がいまひとつ伝わってこなかったのがちょっと残念。

 【関連コラム】 

サルトルと与謝野晶子 ~ 哲学的存在論とやわ肌の熱き血潮

ハイデッガー ~ 「世界」の内で「存在」を叫ぶ 

 


『こころ』 と漱石 ~ 心の棲家に巣食う「罪」のミステリー 

2014-11-05 00:48:21 | 文学・絵画・芸術

■ 死に値する青春期の罪 

 漱石の『こころ』を読み返したのは何年ぶりだろう。今年、朝日新聞紙上で「100年ぶりの再連載」がなかったら読み返すことはなかったかもしれない。毎日決まった分だけじっくり読むというのも、また楽しみで贅沢な時間であった。(漱石 『こころ』 ~ 新聞小説の味わい) 

 青年期に一度読んでいるが、あの時にはわからなかったことが今回読んでわかったような気もする。どこが、と問われると困るが、「私」(語り手)の気持ちも「先生」(物語の主人公)の心情も、「K」(先生の親友)の思いも、どういうわけか先生の「奥さん」(かつての下宿先の「お嬢さん」)などの心持ちがいちいち、その人たちの中に入っていけて、分かるような気がしたのだ。 

 文体や構成については、ちょっと古いところがある(だって、100年前のことだから)が、多くない人物の中に入り込めてしまう、入り込ませてしまう漱石の筆はさすがである。これはやはり、僕の方でもそれなりに年齢を重ねてきたということもあるわけだ。誰のなかにも、先生のように暗く、まじめで、罪深くも溶けることのない熱情っぽさもあるし、Kのように思いつめた内気な情熱、歪曲してまっすぐに突き出てこられない感情の不器用さもある。 

 好んで人を悪く言ったり、恨んだりすることはないが、追い詰められるととんでもないことをする。それが裏切りに見えたり、何をするかわからない人間と思われたりする。誰しも、先生にもなり、Kにもなりうる人間なのだ。 

 親友Kの口から、お嬢さんへの恋を打ち明けられた先生のとまどい、嫉妬、お嬢さんと「夫人」(お嬢さんの母親)への不信感と疎外感、孤独感、それが思い余ってKの不在時に、「お嬢さんをください」と夫人に告げてしまった時の差し迫った心理。「あ・・・、言ってしまった」と、先生が告白した時、僕は心の中でつい叫んでしまった。これは何と言っても、裏切りだよなあ、と僕はつぶやいてしまったのだ。でも、こういう状況で先生の立場なら、僕もあんなふうに告白してしまっただろう。 

 これは、死に値するだろうか。親友Kはこのために自殺してしまう。そうすると、先生のしたこともやはり死に値すると思うのだ。先生も最後は自殺してしまうが、仮に死ななかったとしても、ある意味、死に値する行為である。魂の死である。 

 そうなると、一生、心に痛みをもって生きていくのだと思う。人間にはずるいところだとか、エゴイズムのかたまりのようなところがある。誰も自分がいちばん可愛いのだ。だから気がついてみると、「あんなことしてしまったんだから、もう自分は死んだっていい」、と思うことがいくつもある。そのたびに死んでいたら身が持たないが、ある年齢にいたると一つ一つが重くのしかかってくるものだ。 

■ 人の心に巣食うミステリー 

 僕はまた、先生の妻となったかつての「お嬢さん」の心の底にも一種、不気味なものを感じる。それは罪というほどのものではないが、先生とKのどちらを好きだったんだろうとふと思う。おそらく先生を好いていたのだろうけれど、それでいて反動としてKと親しく会話したり笑ったりする。何か本質を突かれたようなことを聞かれると、娘時代特有の笑いでごまかしてしまう。それが先生の思い込みであったりすることもあるが、彼女は先生を好いていながらもう一方でKと親しくしたりするような素振りを見せている。もしかしたら、Kが先に彼女に告白していたら、彼女はKと結婚していたかもしれない。いや、先生にそう思わせるところがお嬢さんの心の罠だったのかもしれない。 

 そこで先生の顔を見て、例の思わせぶりの笑いを返したりする。女の無邪気なずるさが垣間見える。

 ――ほんとはあなたが好きだったのだけれど、一足遅かったわね。

 Kと寄り添って、先生の方を見てにこりと笑うのである。これはまた、今どきのドラマ風な女の心を見ている気がしている。お嬢さんは、意外にもすべての真相を知っていた。そうすると、もしかしたら彼女は妻となってからもずっと、先生がこれまで苦しんできたことも、自殺するかもしれないということも承知していたのかもしれない。それを承知の上で先生をある意味いつくしんで、見守っていたのかもしれない。彼女には、そうすることしかできないから。 

 先生はかつて下宿先のお嬢さん、今は妻の心をも、一点の汚水により黒く染めてしまいたくないという気持ちから、彼女には見せたくない「遺書」を書いた。しかし、先生もまた妻の心のうちをひそかに知っていて、「私」だけに長大な遺書を書いたともいえる。ここまで考えると、いくらか穿った読み方になるが、どのようにも読めるのが『こころ』なのだ。 

 「私」という存在もまた、どこか若き日の先生を思わせる。だからこそ、人嫌いな先生も、心のどこかで「私」に唯一心を許していたのかもしれない。「私」もまた、心のどこかに闇の部分を宿しているような気がする。

 こうしてみると、この小説はもはや、中編では終わらない「心」のミステリーといえる。

【関連コラム】

元気がなくなった『坊ちゃん』 ― 漱石ふたたび、みたび