FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

ああ、元禄サラリーマン浅野内匠頭 ― 忠臣蔵と上野介 

2010-12-30 17:48:04 | 芸能・映画・文化・スポーツ
この時期になると、必ず出てくる「忠臣蔵」。品を変え、筋を変え、視点を変え、もちろん役者を変えて、元禄の頃から300年も続いてきた人情話。

松の廊下の刃傷と吉良邸への討ち入り、あまりにも有名すぎて今さら書くまでもありません。史実をもとにしているとはいえ、日本人の心情に合わせ、だいぶ作られているところがあると言われています。まあ、それは先刻承知。今年話題となった坂本龍馬像も、ずいぶん史実とは違うそうですから、そんなことはどうでもよく、私たちはドラマになったものを見て楽しむだけです。

忠臣蔵―。あれは、筋がわかっていても面白いもので、つい見てしまいます。やはり日本人の心にフィットするのでしょう。先日のテレビドラマ、田村正和の大石忠臣蔵もつい見てしまいました。ちょっと大石が老けて声がかすれているのが気になりましたが、最近やたら激情型(大げさに泣いたり喚いたり怒鳴ったり)の劇が多い中、感情を押し殺した田村と北大路(立花左近)が対峙した場面は、短時間ながらさすがぐっとくるものがありました。

ここで書きたかったのは、そういうこともさることながら、いつも忠臣蔵のドラマを見ていて違和感を感じていることです。それは、「吉良はそんなに悪い奴だったのか?」ということです。「浅野は、そこまで善玉だったのか?」という素朴な疑問です。こんなこと書くと、忠臣蔵ファンから大目玉をくらいそうですが、確かに吉良は嫌われ者像で、浅野は好かれ者像です(そういう風に描かれていますから)。

しかし、サラリーマンなら誰でも実感しているでしょうが、吉良のような上司はいくらでもいます。自分の立場に執心して、自分の功績のためには不適格な部下はいじめ、罵倒し、嫌がらせする。でも、そんな輩、あなたの周りにひとりやふたり、いるでしょう。上司なんてそんなものです。上司どころか、ワンマン社長ならもっとひどいものです。上司なら嫌われても我慢すればいいのですが、ワンマンオーナーだと、嫌われたらすぐクビですからね。労働基準法がどうの法律がどうの・・・なんて関係ありません(裁判をおこせば勝てますが、膨大な費用と時間とエネルギーを要し、挙句は居づらくなって辞めることに)。

そういう上司や社長の下で、じっと我慢するのも、人間としてある意味「誇り」なのだと思わなければならないことがよくあります。つまり、我が身だけでなく家族を守るためには、自分にプライドがなければ耐えることができないということです。自分が一時的に、積年(?)の恨みを晴らすため、ドカンと我慢を爆発させた時(それはそれなりに、ずいぶんすっきりするでしょうね)、上司を怒鳴り散らした瞬間、即刻自分も家族も今の職(食)を失うことになります。

まして一国の城主なら、自分の腹を切るだけでなく、一家断絶、領地没収、家来家族を含め数百人が路頭に迷うわけです。若い内匠頭(たくみのかみ)でも、それをわかっていなかったはずは、もちろんありません。しかし、ここはなんとか元禄サラリーマンに徹して、耐えてうまく取り入ることはできなかったかと思うと、身につまされます(似たような実体験を私は周りで見ていますから)。浅野は、真面目で実直ではあるが、どうやら短気で癇癪持ちであったという記録もあるようです。

上野介(こうずけのすけ)は確かに悪玉ですが、あんなのはどこの会社にもいます。家来数百人を犠牲にしてまでまともに相手にするほどの大悪玉ではありません(吉良を擁護するわけではないのです)。浅野は、確かに善玉ですけれど、もう少し我慢するか、小悪玉を手に取って操るようなマネジメント力を身に着けるか、味方のネットワークを作るかなどできなかったろうかと考えてしまいます。城下での経験が浅い藩主、世渡りがうまい出世タイプではなかったのかもしれません。

こうは書いても、私もそして多くのサラリーマンも、結局、浅野と吉良の関係なのです。屈辱と我慢、こうして耐えるのも、一つのプライドなのだと思わなければやっていられないことがたくさんあります。だからこそ腹いせに、元禄ドラマの中で浅野や大石、四十七士になりきり、吉良をやっつけることに快感を覚えるのでしょう。

日本人の心をつかんでしまった忠臣蔵、これはこれでずっと続くのでしょう。

「見得」が切れない海老蔵 ― 歌舞伎「助六」 

2010-12-19 19:33:17 | 芸能・映画・文化・スポーツ
『助六所縁江戸櫻』

海老蔵の事故(事件?)が起きるちょっと前に、NHK教育テレビで、歌舞伎座改築前の最後の歌舞伎(録画)を見ました。

歌舞伎はそれほど詳しくなく、ほとんど見ません。この夜は、たまたまつけたチャンネルで、3時間近く通しで夜中に見てしまいました。歌舞伎18番の『助六』です。通の人なら、これがたいした一番だとすぐわかるでしょうけど、私は筋すら知りません。もともと歌舞伎は、筋があってもよくわからないし、役者の動きも緩慢、喋っていることも聞き取れないしで、日本人の私ですらこうですから、外国人の人はさぞ退屈だろうなあ、というのがこれまでの実感でした。

この日の『助六』では、ちゃんと「事故」前の海老蔵がそれらしく舞台で前口上をやっていました。助六を父親の団十郎、花魁の揚巻を玉三郎、助六の兄を菊五郎、通人を勘三郎と豪華メンバー。その役者だけ見ていても、ちっとも飽きが来ないのは我ながら不思議でした。これまではどうも、下手なドラマを見るように筋ばかりを追って見ようとしていたからでしょう。小説でも、つまらない小説はやたら筋が動き回っているし、テレビでもへたくそな役者ほど喚いたり泣いたりしています。

歌舞伎は、確かに喋っている役者以外は、動作がありません。止まっています。動きも、京劇のような激しさ、アクロバットのようなところ、だれでもぱっと見てぱっとわかるところがあるわけではありません。しかし、よくよく私がひきつけられるようになったのは、団十郎助六の、形式美としての動きです。歌舞伎自体が、様式美、形式美を楽しむことだと悟ったわけです。たとえば、台詞を言っている役者以外の、黙って止まっている役者の表情を見ているだけでも面白い(と言っても、止まっているので表情の変化はありませんが、今この役者は何を考えて次の台詞を待っているのだろう、など)。

まあまあ、団十郎にしても菊五郎にしても、勘三郎もまた、それなりに楽しめました。歌舞伎と言えば、「大見得を切る」ところ。たいした役者ほど、間(ま)が持てる、間がうまい。形になる。

・・・、だけど時々CMや紹介番組などでやる歌舞伎界のプリンス(ともてはやされている)海老蔵のせりふ回しや「見得」は、素人の私が見ても、ヘタ。間が持てない。歯切れが悪い。形に美がない。前々からそれは感じていましたが、この役者がプリンスとして歌舞伎界を本当に引っ張っていくのだろうかと思うと、ずっとがっかりしていました。そこへきて、今回の問題です。へたな「見栄を張る」のではなく、ちゃんとした「見得が切れる」ように、この際、謹慎中にしっかり修行をしてほしいものです。

与勇輝の世界 ~ 風のように現れた「白い少女」  

2010-12-12 01:23:05 | 文学・絵画・芸術

 与勇輝「白い少女」(1994)

たいてい行く先々の美術館などには、どこも、一つはハッとするものに出会う。

与勇輝(あたえ ゆうき)の人形(河口湖ミューズ館 与勇輝館)は、どれもどれもハッとするものだが、中でも、一瞬で私の心をとらえてしまったのが「白い少女」。(写真は照明の影響か色づいてますが、膚が真っ白な少女です。)

美しい、と言ってしまえばありきたりだが、どこかほかの星から、さっ、と現れた不思議な存在感がある。地球的だが、どうもよその星の子らしい。なにしろ、色が白い。透けている。すっ、と伸びた脚で立っている姿が、ここまで歩いてきたという感じがしない。突然風か空気かと一緒に運ばれてきた感じがする。

「ある夏の暑い盛りに、ふと見かけた少女」をモデルにつくり上げたと作者が書いているので、やはり実在の少女らしい。「まっ白い服を着て清々しく妖精のように印象に残りました」と言うように、人形とはいえ、その存在感がどうしても私をとらえて離さない。

・・・・そういえば、この子と同じ年頃、眩しい少女に私は出会ったことがある。それは、たった1回きりだった。でも少女は、私の少年時代に忽然と現れては、私をそのままつかまえて、風に乗っけてよその星に運んでいくのではないかという思いが何度かしたことがある。

その頃、私は自分の小遣いを稼ぐために朝夕、新聞配達をしていた。当時、周りではそうやって小遣いを稼ぐことは小学生でも珍しくなかったが、最後まで続いたのは私だけだった。夕刊の配達時、新聞の束を抱えて(小学生の私は夢想家で、新聞を配りながらいろいろなことを考えるのが好きだった)、路地をジグザグに行き交いながら配っていると、行き当たりの路地の前に颯爽と、風のようにあの「白い少女」がそのまま現れたのだ。美しさと白さとこの世でない軽さで、私の前にすっと立って、その子は言った。

「なあんだ、あんた、ここにいたの?」
もちろん、私は少女を知らない。はじめて見た。服だって、ちょっとよそ行きのような白い服とスカートだったし、靴までは覚えていないが、きっとブーツかヒールっぽいものを履いていただろう。少女はしばらく、いたずらっぽく見つめていて私の前に立っていたが、また風のように、さあーっと、いなくなった。私は呆然として少女を探したが、もういなかった。

あの子がよその星の子だか知らない。見知った顔でないのは確かだ。きっと、どこかで私のことを見ていて、追いかけて来たのかもしれない。おめかしして親と一緒に出掛けるところで、私のことを見かけたのかもしれない。同じ学年にはいない子なので、学年違いの子が私のことを気にかけていて、ひょっとして、転校か何かでもうこの町から本当によそへ行ってしまうその日だったのかもしれない。

そんなことを考えながら、新聞の残りを配り歩いた。少女は、二度と会わなかった。
「白い少女」は本当にいたのだ。

突然現れて、何か言いたそうで、じっとこちらを見て、そして、ふっといたずらっぽく、小ばかにしたように笑う。現実にいそうでないが、ほんとうにいる。心の中にずっといつづける少女。それは、やっぱり「白い少女」でなければならない。

この少女の作品を何度か見ているはずだが、今回の展示にはなかった。きっと、よその展示館で、さあーっと、人の前に現れて、また突然いなくなるのだろう。その人の心の中にだけいつづけて・・・。


坂本龍馬は何をしたか ー 「龍馬伝」

2010-12-05 01:19:09 | 芸能・映画・文化・スポーツ
毎週見ていたNHK大河ドラマ「龍馬伝」が終わった。

福山龍馬は少しかっこよすぎて、どうも違うなという感じがしたし、香川弥太郎も一大財閥を築いた人物のわりには、最初から最後まで激情(劇場?)っぽく、やたら泣いたり喚いたり、怒鳴ったりしていた。武田麟太郎は最後まで金八麟太郎だったし、それはそれでドラマとしてはいまどき風なのかもしれない。

龍馬たちの年代(30代前後)の若者たちが、あのドラマのようにやたら感情をむき出していたとは思わない。まして幕府転覆(クーデター)がテーマであれば、若者たちのたぎる感情は、むしろ重苦しく抑えられていたかもしれない。もちろん、世界を変えるという目的で彼らの血は溢れ爆発することもあったろうけれど。

ドラマとして見ると、これはやはり脚本のせいであろう。重苦しく静かに描いていたのでは、1年間、視聴率がもたないのは分かっている。そこは青春ドラマ風に、毎回完結話的にしかも所々で盛り上げなければならない。ということで、毎回、龍馬や弥太郎や慶喜や西郷どんまで小者ぶりに叫んではいたのだ、・・・と思う。

ここまではドラマ評。ところで、坂本龍馬という男は何をしたのだろうか。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で描くまでは、坂本龍馬はそれほど世に知られていなかったという。歴史でも、西郷や木戸や大久保、板垣、博文、陸奥、容堂や象二郎など明治維新に関わった人物は名が残っているが、龍馬の名は、もしかしたら歴史に埋もれてしまっていたかもしれない。ドラマでは表舞台に立っているが、歴史では必ずしも表舞台に立っていない。

薩長同盟、薩土盟約、大政奉還にしろ、表舞台で名が残っているのは龍馬ではない。新政府綱領八策では明治の新政府役人候補に龍馬と一緒に活躍した薩長土の面々の名は連ねてあったが、龍馬は自らの名を外したと言われている。

龍馬の性格上、役人の気質には合わなかっただろうことは想像できる。結局、坂本龍馬という男は、表舞台のための裏舞台を作った男、日本というシナリオを作った男なのだ。そういう人物は、本来、歴史には出てこない。言ってみれば、龍馬の名が知れたのも司馬遼太郎さま様である。シナリオをつくり、人を動かし、世の中を変える。これは、本来政治家の仕事である(だから、「我こそは平成の坂本龍馬である」などと大勘違いするバカな政治家が出てくるのだが)。しかし、龍馬は、政治家そのものにもあまり関心がなかった。彼は、おそらく弥太郎とは違った実業家になっただろうと思う。岩崎弥太郎は、一代で大財閥を築いたが、龍馬はもっと違った意味の経営者、たとえば今でいうビル・ゲイツのような起業家だろうか。財閥を築くというより、世の中の価値を変えてしまうという実業家。

とにかく、明治政府ができる前に息絶えたということは、ひとまずそこで坂本龍馬の役目を天が終わらせたということだったのだ。

もう一つ、興味深いのは亀山社中、のちの海援隊である。いつも龍馬を見ていて、決して楽な生活をしているようには見えないが、何して食っていたのだろう、ということだ。土佐の兄から仕送りがあったというが、そうそういつまでもあったか、あったにしてもそれで足りていたのか。その疑問を解くのが、亀山社中である。

これは、商社である。もとは、黒船に対抗した勝麟太郎の海軍養成塾だったが、その航海術を生かして明らかに商社の役目を果たした。坂本龍馬たちの食いっぷちは、ここからちゃんと出ていたのだ。亀山社中は日本最初の会社(もどき)と言われているもので、龍馬はいわば代表取締役社長といったところだろう。これでも、龍馬が実業家向きであることがわかる。新しい世の中になったら、この商船会社で世界を舞台にビジネスを始めたろうし、龍馬自身それを望んでいた。

しかし歴史は、坂本龍馬の役目を明治維新の前夜で終わらせた。