松の廊下の刃傷と吉良邸への討ち入り、あまりにも有名すぎて今さら書くまでもありません。史実をもとにしているとはいえ、日本人の心情に合わせ、だいぶ作られているところがあると言われています。まあ、それは先刻承知。今年話題となった坂本龍馬像も、ずいぶん史実とは違うそうですから、そんなことはどうでもよく、私たちはドラマになったものを見て楽しむだけです。
忠臣蔵―。あれは、筋がわかっていても面白いもので、つい見てしまいます。やはり日本人の心にフィットするのでしょう。先日のテレビドラマ、田村正和の大石忠臣蔵もつい見てしまいました。ちょっと大石が老けて声がかすれているのが気になりましたが、最近やたら激情型(大げさに泣いたり喚いたり怒鳴ったり)の劇が多い中、感情を押し殺した田村と北大路(立花左近)が対峙した場面は、短時間ながらさすがぐっとくるものがありました。
ここで書きたかったのは、そういうこともさることながら、いつも忠臣蔵のドラマを見ていて違和感を感じていることです。それは、「吉良はそんなに悪い奴だったのか?」ということです。「浅野は、そこまで善玉だったのか?」という素朴な疑問です。こんなこと書くと、忠臣蔵ファンから大目玉をくらいそうですが、確かに吉良は嫌われ者像で、浅野は好かれ者像です(そういう風に描かれていますから)。
しかし、サラリーマンなら誰でも実感しているでしょうが、吉良のような上司はいくらでもいます。自分の立場に執心して、自分の功績のためには不適格な部下はいじめ、罵倒し、嫌がらせする。でも、そんな輩、あなたの周りにひとりやふたり、いるでしょう。上司なんてそんなものです。上司どころか、ワンマン社長ならもっとひどいものです。上司なら嫌われても我慢すればいいのですが、ワンマンオーナーだと、嫌われたらすぐクビですからね。労働基準法がどうの法律がどうの・・・なんて関係ありません(裁判をおこせば勝てますが、膨大な費用と時間とエネルギーを要し、挙句は居づらくなって辞めることに)。
そういう上司や社長の下で、じっと我慢するのも、人間としてある意味「誇り」なのだと思わなければならないことがよくあります。つまり、我が身だけでなく家族を守るためには、自分にプライドがなければ耐えることができないということです。自分が一時的に、積年(?)の恨みを晴らすため、ドカンと我慢を爆発させた時(それはそれなりに、ずいぶんすっきりするでしょうね)、上司を怒鳴り散らした瞬間、即刻自分も家族も今の職(食)を失うことになります。
まして一国の城主なら、自分の腹を切るだけでなく、一家断絶、領地没収、家来家族を含め数百人が路頭に迷うわけです。若い内匠頭(たくみのかみ)でも、それをわかっていなかったはずは、もちろんありません。しかし、ここはなんとか元禄サラリーマンに徹して、耐えてうまく取り入ることはできなかったかと思うと、身につまされます(似たような実体験を私は周りで見ていますから)。浅野は、真面目で実直ではあるが、どうやら短気で癇癪持ちであったという記録もあるようです。
上野介(こうずけのすけ)は確かに悪玉ですが、あんなのはどこの会社にもいます。家来数百人を犠牲にしてまでまともに相手にするほどの大悪玉ではありません(吉良を擁護するわけではないのです)。浅野は、確かに善玉ですけれど、もう少し我慢するか、小悪玉を手に取って操るようなマネジメント力を身に着けるか、味方のネットワークを作るかなどできなかったろうかと考えてしまいます。城下での経験が浅い藩主、世渡りがうまい出世タイプではなかったのかもしれません。
こうは書いても、私もそして多くのサラリーマンも、結局、浅野と吉良の関係なのです。屈辱と我慢、こうして耐えるのも、一つのプライドなのだと思わなければやっていられないことがたくさんあります。だからこそ腹いせに、元禄ドラマの中で浅野や大石、四十七士になりきり、吉良をやっつけることに快感を覚えるのでしょう。
日本人の心をつかんでしまった忠臣蔵、これはこれでずっと続くのでしょう。