FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

『死の島』は若き頃の自分だ

2016-08-31 00:54:17 | 文学・絵画・芸術

若き日の小説

僕が今よりずっと若い頃、つまり20代に読んでいたら、かなり夢中になった小説だろうと思う。この頃は、野間宏『青年の環』や埴谷雄高『死霊』などにかなり夢中になっていたし、前衛的な小説作法にも敏感だったから。それにベックリンの名画「死の島」のイメージがどうしようもなくついて回っていたからだろう。 

なにしろ、あの頃は『死の島』(福永武彦)は文庫でもなかったし、単行本も古本屋では見かけなかったと思う。全集か作品集は出ていたかもしれないが、とんとお目にかかっていなかった。というより、当時自分の関心が文学どころでなくなったからだろう。きちんと収入を得なければ自分も家族も大変なことになる頃だったので。 

今では、福永武彦の名は一部の文学好きに読まれるくらいだろうか。まして『死の島』ともなると、どれだけの人が読むだろうか。とはいえ、一部の熱狂的なファンはいるのかもしれない。僕は一度、どこでも手に入らなかったこの小説を図書館で見つけて上巻だけ読んだ記憶がある。その時は内容が青臭い文学、小説好きの学生が書きそうな小説を読んでいるようで(それはつまり、かつての自分であったが)、なんとなく下巻まで読む気がしなくなったのを覚えている。 

■ふたりの女

主人公の相馬鼎という男(編集者)が、どうにも作家を目指していた自分に似すぎていて、小説の創作ノートをいつも持ち歩いたり、女性をすぐに好きになるわりには、なかなか先まで進展しない(進展できない)たちで、自分でもそうだが、はたから見たらかなりじれったくて青臭い若者なのだ。そんなところが、自分でも鼻に付いたのかもしれない。 

ところで数ヵ月前、よく通りかかる古本屋で初版本上下2巻合わせてなんと105円だったので買ってしまった(現在、この作品を買うには講談社文芸文庫で新本上下合わせて4千円以上もするのだ)。それで読み返してみると、やっぱり上巻だけ読み通すとあの頃の感想と同じだった。

改めて感じたのは、相馬が同時に愛する(恋する?)2人の女性は、若い頃の自分であったら、やっぱり夢中になってしまうタイプである。相馬のように、たいして親密に付き合ったわけでもないのに(つまり3人一緒に食事したり、芸術論ごっこしたりする程度の仲なのにという意味で)、2人の女が服毒自殺を図ったという電報を受け取ると、東京から広島まで仕事をうっちゃってまで駆け付ける。この小説の年代背景では、特急を飛ばしても一昼夜かかる距離でもだ。 

文学臭いこの青年のように、若い時の僕もきっとそうしたに違いない、身内の女たちでもないのに。一人目の女性画家は、被爆者で絶望を引きずっている。その陰りには美人であるから余計、同情っぽい、安い愛情を抱いてしまう。そういう女に会うと、すべて見透かされているようでありながら、その女のために死んでもいいから何かしてやれればいいと思ったりする。ところが、実際には現実にできることは何もないのだ。軽くて重みのない男の自分を感じ、恥じ入っているしかない。 

そしてもう一人、品の良いお嬢さんタイプで可愛らしい清廉な女性、実は突拍子もないことをやってしまう彼女にも魅かれる。普通の可愛いだけの女性ならそこまで思わないが、家出をしたり、風来の男につかまって同棲し捨てられ(捨てた?)たり、しまいには同居する女性画家に誘われて自殺まで図ってしてしまう。 

■小説の技法はどこへ行くのか

上下巻通して話自体は複雑ではないが、時制を前後させたり、現実と虚構(創作)を織り交ぜたり、内的独白を絡ませたり、方法的にかなり凝っているので、そういうことに興味があった若い時分の僕だったら、かなり夢中になっていたかもしれない、等身大の自分の反映としても。ストーリーだけを素直に時系列順に読んでいっても、十分楽しめる作品ではあるが、今となっては、そういう技巧的なところが鬱陶しく思えるところもある。時制を細かく前後させる意味や基準があろうとは思うが、それを探るまでの労力を取ってまで、今では読もうとは思わない。 

小説の方法も読んで楽しめるのは、せいぜいプルースト(『失われた時を求めて』)あたりまでかなと思う。フォークナーやマルケスあたりになると、すごいとは思うけれどちょっと疲れるところがあるし、これからの小説の方法というのはどうなるのだろうか。

 

 


『黒死館殺人事件』 ~ 日本の「三大奇書」を読んでみて

2016-08-29 05:29:19 | 文学・絵画・芸術

日本の「三大ミステリー」とか「三大奇書」と言われる作品を、これで一応全部読んでみたことになる。どれも推理小説とかいう枠内に入れて読むと、読み切るのが困難だと思う。僕の場合は、文章(文体)が読むに耐えられるかが大きな要素だ。いくら推理小説として面白そうな展開でも、文章が読むに堪えないと続きを読むのが苦痛になる。

■『虚無への供物』

『虚無への供物』(中井英夫)は、3作のうちでは最も惹かれる文章だった。ストーリーにもぐいぐい引かれるが、1つ1つの文章は魅惑的で、この作者の他の作品にもつい手が出てしまった。もうずいぶん前に読んだので、内容は全く覚えていないが、この3作のうちでは一番楽しく一気に読んだのを覚えている。なにしろ、これはミステリーとか奇書という以前に面白い文学、面白い小説と読めた。 

■『ドグラ・マグラ』

『ドグラ・マグラ』(夢野久作)は、当初これを読むと「精神に異常をきたす」とか「頭が狂う」とかここかしこで書かれていたので、まさかそれを本気にしていたわけではないが、遠ざけていたのも事実だ。というのも、しばらく仕事でストレスを抱えていた時期があって、気晴らしにミステリーでも読もうかという気になってこの本にぶつかったのだが、ストレスで落ち込んでいるときに、このうえ気がおかしくなったらたまったものじゃない、と思ったからだ。というより、元気になりたいのに、「精神がおかしくなるぞ」と言われたら、そんなものは遠ざけるのが普通だろう。 

その後、普通並みくらいに活力が戻り読んでみた。読んでみれば、精神病理や異常心理などをテーマとしているとはいえ、すごくまっとうな小説で、途中読むのに疲れるところがあったが、作者の文学的思惟(思想とまではいかないが)に支えられた文体も、めくるめく堂々巡り(「ドグラ・マグラ」というのはそういう意味らしい)で、結構読みごたえがあった。精神社会への、1つの内的告発と言えるかもしれない。 

■『黒死館殺人事件』

3作目が、この『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)である。正直言って、なんだかよくわからないで読み終わった小説である。やたらペダンチックで、いろんな分野の引用や注釈が出てきて、読むのを断念させるとよく書かれているが、僕にとっては、それはほとんど問題にならなかった。というのも、その文体がきちんと知識と学に裏付けされたものなので、むしろその文章そのものを楽しむことさえできたからだ。ただ、それゆえに文に装飾がありすぎて話の進行がちっともわからないところがあった。

そもそも誰が殺されていて、誰が疑われ、どういう手口であったのか、何が謎になっているのか、読んでいるうちに忘れ去られてしまうほどなのだ。こういうことだから、結局誰が真犯人だったか、殺害動機は何か、どういうトリックがあったのかなどどうでもよくなってしまう。つまり、作者が殺人事件をネタにどれだけの小説という伽藍を築きたかったのか、そこに落ち着いてしまう。だからと言って、駄作とは言わない。その伽藍が、どういう仕組みでどういう風に築かれているのか、それを楽しみたくてもう一度読んで確かめてみたいと思うのである。 

結論を言うと、3つの作品とも、1回読んだだけではよくわからない。できれば1回目はさわりとして大方のあらすじをつかんで、2回目にじっくり確認しながら読むと面白いのだろう。そうすると、どれも結構夢中になれる作品なんだと思う。

● 夢野久作 『ドグラ・マグラ』 ~ 潜在意識の遺伝と死美女の犯し


『不連続殺人事件』と『事件』~ 純文学者のミステリー

2016-07-16 11:38:35 | 文学・絵画・芸術

 ■『事件』の実在感と知的興奮

『不連続殺人事件』(坂口安吾)と『事件』(大岡昇平)は、ともに純文学作家が書いた推理小説で、両作品とも日本推理作家協会賞を受賞している。読みたいミステリー作品の上位に入る常連ということで、続けて読んでみた。 

先に読んだ『事件』は、かなり前に弁護士役が北大路欣也主演のテレビドラマを見た記憶があるが、細部も結末もほとんど忘れていた。しかし、これが面白くて一気に読んでしまった。この推理小説は、ストーリーを知っていても、結末を知っていても、十分再読に耐えられるものである。それは知的興奮をもたらすからだ。ほとんど全編、法廷が主舞台となっており、法廷での弁護人、検察官、裁判官、そして証人のやり取りに、どんどん吸い込まれていく。このような場面は、今となってはテレビドラマの事件ものではありきたりとなってしまったが、やはり、法廷での応酬は、1つの弁証法なのか、詭弁なのか、単なるほらの吹き合いなのか、とにかく引き込まれる。 

前に『カラマーゾフの兄弟』を読み返した時、最終に近い場面で主人公ドミートリ―の殺人罪の裁判がかなり長く書いてあったが、その部分が面白くて一気に読んだことがある。学生時代に読んだ時は、おそらく退屈で読み飛ばしていたところだと思う。再読の時は単なる推理ゲームではなく、人間の根源に迫るところにひかれたのだと思う。『事件』にしても、やはり純文学作家としての深堀があったからこそ、面白かったのだ。 

だいたいミステリーに純文学臭さを持ち込む必要があるかと言いたい人はいるだろう。推理ゲームとして面白ければいい、と。僕自身は、推理小説はほとんど読まない。これまで読んだのは、かなり前、十代にE・A・ポーの作品と、だいぶ大人になって『砂の器』(松本清張)、『虚無への供物』(中井英夫)、『緋色の研究』(C・ドイル)、最近になって『ドグラ・マグラ』(夢野久作)くらいで、驚くほど少ない。少ないなりに、どれも堪能した。『ドグラ・マグラ』などは、日本の三大奇書などと言われているが、これは純文学書、思想書の傑作と言ってもいいと思う。 

読み応えのある小説は、純文学とかミステリーとかの枠を超えている。それは、大げさかもしれないが、人間の根源に迫るからだ。人間が罪を犯すときは、必ず動機がある。動機が犯罪を生むのだ。その動機の重さによって、罪の実在感が出てくる。そこに、人間というものが現れる。 

■殺人動機に血の実在感がない

その点、『不連続殺人事件』は正直、がっかりした。坂口安吾の純文学作品はあまり読んだことがないが、純文学作家ということで『事件』のように、それなりの期待を持たされたのだ。作者自身、純文学の臭いを切り捨てて、推理小説の犯人当てに徹したというから、いわば謎解き推理ゲーム的なんものとして、本人も楽しんで書いたのかもしれない。実際、犯人当て懸賞を出して、発売後すぐベストセラーになったというほどだから、面白くは読める。 

しかし、それはゲーム的なストーリーの面白さであって、正直、僕にとって再読に耐えられない。殺人動機をはぐらかす方法にしても、その方法を断行するだけの人間の実在感が描けていない。作者自身がそのことを捨てたわけだからだ。犯行を犯す人物に血も肉も感じられないから、動機に重みがない。将棋盤の上で、この駒はこういう役が付いているからこう動く、というのと同じ感覚でもって次々と殺人が起こるから、本当の殺人動機にならない。だから、誰でも犯人になりうるし、逆に誰が犯人になるか、いくらでもはぐらかすことができる。今でいえばスマホアプリの画面上で、まさに推理ゲームの中で人間を動かすようなものだから、種明かしがわかっても、何ら面白みも知的快感もない。 

江戸川乱歩までが絶賛、ほかの名だたる推理作家も激賞しているが、残念ながら僕は落胆した。推理小説は、読んで面白ければいいわけで、人間の存在感などという面倒くさいことをいう方がおかしいと言われるかもしれない。面白いか、面白くないか。安吾は楽しみながら書いたというから、まあ、あまりムキになるほどではない。が、やはり人間がきちんと描けていないとなると、単なる2次元(小説原稿、将棋盤、ゲーム画面)上のものでしかなく、本当の動機にもならない。動機が本当らしくなければ、そもそも犯人が当てられるわけもない。そこのところが、作者の思うつぼかもしれないが。


「若冲展」に思う ― 車椅子の人には至高作品を鑑賞できない日本の美術館

2016-05-24 00:59:14 | 文学・絵画・芸術

 「若冲展」は、前回開催(2009年・東京国立博物館)の時に見てきました。あの時も入館まで1時間以上待ちましたが、今回(東京都美術館)は平日でも3時間、4時間は当たり前ということで、開催は今日(24日)までだったのに諦めました。なにしろ前回、入館してからも満員電車並みで、前に進めないのです。係の女性が「止まらずに進んでください」と言っても、一番前が人で埋まっているので動きようがありません。仕方なく僕は、2層3層後ろのゾーンに下がって遠目で見て回りました。 

なんといっても、’白い正装の貴婦人’というべき純白の鳳凰「老松白鳳図」(ろうしょうはくおうず)のエロティシズムの極致に、くらくらとめまいがしたのを覚えています。女体でありながら鳥、鳥でありながら女体、その艶めかしさ・・・。 

当時の感想はその時のブログを読んでもらうとして、すごく気になったことがあります。前のブログにも書きましたが、観客の中に、車椅子で来られている人が何人かいたのです。健常の僕らでさえ、人の頭越しでしか見えないのに、車椅子の人の視線の高さでは、人々の丸腰の行列しか見えなかったでしょう。ここは日本を代表する博物館です。これでは、車椅子の人は作品を鑑賞することはできません。実際、その方々は展示作品の後方で諦めたように、ただ呆然として車椅子に座っていただけでした。 

若冲の作品だけではありません。この博物館では毎回、世界・日本中の最高レベルの芸術品を公開しています。なのに、いつも車椅子の人は、じっくり鑑賞できないのです。何か申し訳なく思いました。僕はよく美術館に行きますが、バリアフリーは当然として、せめて混雑時期には、障害のある方優先の一定の鑑賞時間帯(開場直後または閉場間際のわずか30分でも)をつくるなり、最前列に車椅子用の通行路(スロープなど)を設置するなりすればいいといつも思います。これは、ほかの美術館の人気開催展でも同じです。これで本当に日本の誇る美術館といえるのか・・・。 

ここしばらく上野の森に行ってないので、今はどうなのか? 変わっていないのだろうか? 世界でも最高峰の芸術を車椅子でも鑑賞できるようにしてもらいたいものです。

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愛と金の悲劇 『嵐が丘』 ~ 愛憎と復讐劇の裏に潜むもの

2015-07-14 19:58:37 | 文学・絵画・芸術

●名作に見る「財の成し方」

『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ作)は、何度も映画化され、舞台や音楽でも上演された名作である。今年5月にも堀北真希主演で上演されている(日生劇場)。映画で僕が見たのは、ローレンス・オリヴィエ、マール・オベロン主演(1939年・DVD)で、これは映画史上の傑作と言われている。ただ、この映画では原作の前半に相当する部分で終幕となっている。 

青年期にこの作品を読んでいたら、その激烈な愛憎劇に僕はまともに翻弄されていただろう。二度と女を愛せないか、これほどまでに女を愛してみたいか、と。なんで今さら読んだかというと、哀しき仕事の性(さが)のようなものからだ。 

主人公(孤児)はどうやって富を手に入れ、どうやって相続を策略し、どのように財産を独り占めにしたか。未だ財を成せない僕は、その辺のところが気になってしようがない。しかし、19世紀文学作品できちんとそこが書かれているものはそれほどない。書いてあっても、期待しない方がいい。 

『嵐が丘』にも、そんな財の成し方など書いてない。書いてあったところで、「彼は出奔して数年後、富を得て戻ってきた、復讐のために」――。こんな感じで、事業に成功したのか、正式な相続人として莫大な遺産を相続したのか、はたまた大悪事を犯して大金持ちになったのか、あるいはそれら全部のことをやらかしてきたのか、どうもぼかされてしまっている。もっとも、名作はこれでいいのである。 

●愛の復讐と財の奪略

そういうわけで、この作品で無一文から富豪になるまでの方法を知るのは早々に諦めることにした。そのかわり、財を成してからの愛憎が絡む復讐と財産の奪略劇は、たいそう恐ろしくも興味ある話である。主人公ヒースクリフは、かなりの偏執狂のねちっこさで、2家2代にわたる復讐をとげ、最後は自分を裏切った女(それでも愛し続けていた)を幻覚に見ながら微笑みを浮かべて死んでいく。

 ヒースクリフはまず、かつて自分を虐げた、恋人キャサリンの兄を賭博に引きずり込み破産させ、土地屋敷を差し押さえて全財産を管理する。次にキャサリンの夫の妹イザベラを誘惑し、キャサリンへの見せしめから結婚し、子どもを生ませる。それを知ったキャサリンは、ヒースクリフを愛しながらも裏切ってしまった罪の意識と激しい嫉妬から狂気のうちに死んでしまう。 

その後、ヒースクリフは成長した自分の子とキャサリンの子を監禁同様にして強引に結婚させてしまう。ヒースクリフの子は病弱でやがて死に、ヒースクリフの世代も次々と死亡、こうして彼はキャサリンの家系と、キャサリンの夫の家系、2代にわたった全財産の管理者となる。

 こう書いてしまうと、さっぱりしたものだが、わずか2つの家系なのに愛憎が複雑にいり込む。恋人に裏切られた男が腹いせによる復讐劇を自分の代と子たちの代、2代へと繰り広げるわけだ。今の時代なら、「さっさと裏切った恋人なんて忘れちまいなよ」と言いたいところだが、人間の性(さが)、愛憎というものは、けっこう深いところで根を張っているのである。 

●愛と金は別物か

『嵐が丘』で、そもそも復讐心を起こさせるきっかけは、恋人が自分を捨てて他の男と結婚してしまったからだが、そのいきさつには、ドキリとさせられる。上流貴族の子息に見初められ、結婚を申し込まれたキャサリンは家政婦に心を打ち明ける。

「今でもヒースクリフは大切だわ。私そのものだもの。でも、彼と結婚したら一生,乞食みたいに生きていかなくちゃならないでしょ。エドガー(求婚者)となら、上流の生活を続けられるわ」

 陰でこれを聞いてしまったヒースクリフは、この時から出奔し、復讐を誓うのだ。裏切ったキャサリンと、自分を虐げた彼女の兄、さらに一族の子孫に。それにしても、キャサリンの告白ももっともだし、ヒースクリフの憎しみもわからないではない。いくら愛しているからって、乞食になってまで男を愛せるか? 

「愛があっても、お金がなけりゃね」――、これは19世紀も今も変わらない命題だ。お金の現実は重い。そうなると、愛の問題はどうなる? それが解決できないから、愛憎・復讐劇は今の時代でもテーマとなりうるのだ。愛と金の問題が同時に解決できれば一番いいが、愛は愛、金は金と割り切れるだろうか。まして、燃えるような愛情のさなかにある男女では、愛と金を分けて考えられるか? 

 『嵐が丘』のキャサリンはそれを別々に考えた。「愛してるけど、あなたにお金がないなら結婚できない」

ヒースクリフは愛と金を一緒に考えた。「愛してるなら、金がなくても一生、共に生きられるさ」

さあ、あなたなら、どうする? 答えようによっては、愛憎と復讐の悲劇が・・・。

 

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『嵐が丘』 ― 小説と映画

 


盗作された三島由紀夫『憂国』 ~ 作品、その頃とそれ以降

2015-07-07 01:45:59 | 文学・絵画・芸術

韓国の著名女性作家が三島由紀夫の『憂国』を盗作したとしてソウルで騒動となった。この作家、『憂国』を読んだことがないけど、自分の書いた文章が酷似しているからしかたなく盗作を認めたということである。読んだこともないけど盗作(?)で文学賞を受賞したわけだ。創造者たる作家が盗作だなんて、人の人生を安易にまねるようなものである。

確かに芸術家は、自分に影響ある作家の作品に心酔するあまり、無意識にその表現の真髄を取り込み、自らの潜在意識に融和させながらそれが堆積されることで、自然とその作家と似たような表現をすることになる。本人は自覚がなくても、いつしか酷似してしまうのかもしれない。それで酷似と盗作の境目がわかりにくくなることもありうるだろう。しかし、酷似箇所が数カ所となると盗作は免れない。

『憂国』は、三島の初期の代表作である。同時期に発表された『花ざかりの森』といい、三島作品のタイトルはなぜかそそられる。タイトルだけで読者である僕は、自分なりに想像し、蠱惑されてしまうのだ。死の兆候は、この2作品にもすでに現れている気がする。といっても、それは三島が自決したから気付くことであって、あの事件がなければ気づかないだろう。

僕は高校生の時、国語の授業で事件を知らされた。教師は教室に入ってくるなり、「三島由紀夫が割腹自殺した」と言って、しばし教壇で絶句した。その時は、三島作品をほとんど読んでいなかったので何が起きたのかわからなかった。夕方のテレビニュースで、なぜ小説家が軍服(三島主宰「盾の会」の制服)を着て自衛隊に乗り込んで演説しているのかもわからなかった。まして、割腹なんて・・・。

学生となって、『憂国』や『花ざかりの森』を手始めに中期、後期へと作品を読み漁っていくと、だんだんわかってきた。毎年ノーベル文学賞候補となっていた三島は、自身の芸術と人生を完璧に仕上げるために、45歳で割腹、自決した。

三島は、美学をテーマに自分の手で自分の人生を完結した。しかし、僕ら凡人には到底まねができるものではない。盗作のように自分のなりたい人生を人からまねすることができればいいが、人生なんてそう簡単ではない。まあ、盗作して賞を貰うような人生より、駄作でもいいから自分の生を全うするしかない。

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● 三島由紀夫『豊饒の海』 ~ 最近の脳科学と唯識思想

● 三島由紀夫と金閣寺 ~ 永遠なる「美の鳥」 鳳凰

 


6代目菊五郎「鏡獅子」 平櫛田中 ~ 「本物そっくり」のなかに芸術家の魂の「ぶれ」がある

2014-11-27 00:24:27 | 文学・絵画・芸術

■ 「本物」に近づくための菊五郎裸形

 世の中には、本物と偽物、そして「本物そっくり」と、「複製」がある。「本物そっくり」は、本物ではないが、偽物ではない。 

 平櫛田中彫刻美術館は、東京の小平市にある。平櫛田中(ひらくし でんちゅう)の代表作は、「鏡獅子」。国立劇場ロビーにある高さ2メートルの木彫像で、目にしたことがあるかもしれない。僕はその実物像をまだ見ていないが、その像の数分の一(58cm)の田中本人作の試作像を何回か見ている。田中館は、僕の散策コースにあるところなので、何回も行っているし、そこに行けばいつでも見ることができる。試作像といっても、国立劇場の実物を彫るためのものだから、縮小されているとはいえ、単に小さいだけで実物像そのものである。 

 この「鏡獅子」を彫るために、そのモデル、尾上菊五郎(6代目 1885年~1949年)の裸形像も田中は彫っている(鏡獅子試作裸形)。大きさは、実物像より小さくはあるが、顔といい、身体つきといい、筋肉の付き方まで菊五郎本人そのままである。この裸形像も、ぐるり、ぐるりと周りながら見ていて飽きない。何より、本物の菊五郎にそっくりなのに驚く。

 田中は「鏡獅子」を彫るのに、20回以上も菊五郎の歌舞伎「鏡獅子」を見ている。その結果、衣装の上から見たままの鏡獅子では、本物を彫れないとし、それで菊五郎に裸になってもらったのだ。これは、唐突でもなんでもない。菊五郎は先代がいた頃から自分が稽古する時も、弟子に稽古をつける時も、常に裸体であった(念のため、言うまでもないが褌だけは締めていた)。 

 裸体であることによって、歌舞伎を演じる時の筋肉の動きや四肢のバランス、頭の位置や腰つきがわかるという。幾重もの分厚い衣装の上からでは、微妙な筋肉の動きまではわからない。その裸形像を見ていると、顔もそうだが、身体つきがあまりに実物に近いので、ぞっとするほど見とれてしまう。

 ところで、裸形像のモデルとして立つ時、菊五郎は「裸体であるなら、顔の隈取りまでは必要ないだろう」と田中に言った。

「それがなければ、だめなのです」

 と、即座に田中は返したという。

「そういうものか」

「そいうものです」

 菊五郎も、田中の迫力にその覚悟を悟った。

 かくして、裸体で顔を隈取りした、異様な「鏡獅子」の原型が出来上がっていくのである。だが、「鏡獅子」の実物像が完成するのは、戦争の影響もあり、衣装を着けた試作像ができてから22年もかかった。それが今、国立劇場にある。色は、専門の彩色家が色付けし、まことに眩く、美しく、力強い。そこには、月並みな言い方だが、魂が宿っている。

■ 3D複製と「本物そっくり」では本質が違う

―― 本物そっくりななら、今は3Dプリントで十分できる。実物そっくり、本物そっくりなのが、そんなにすごいことか。

 という声が聞こえてきそうな気がする。では、精密につくられた3D複写模型像を持ってきて、国立劇場の横に並べてみたらいい。どちらが本物か。

―― そりゃあ、田中さんのものだと言いたいだろうが、やっぱり3Dのほうが本物そのままだね。

 と言うだろうか。

 そうなのだ。それは、すぐわかる。本物と寸部違わず精確に同じなのは、3Dの方だろう。今後、技術がもっと進んでいけば、実物とまったく見分けがつかなくなるだろう。

 しかし、田中が彫ったのは複製ではなく、「本物そっくり」の像である。だからこそ、精密な複製と比べると似てはいない。そこには、田中なりの歪みや「ぶれ」がいたるところに、わずかずつだがあるはずだ。それが、彫刻家田中の魂の「ぶれ」だ。田中は、その「ぶれ」もろとも、本物そっくりに見えて本物そっくりに彫ったのだ。そのわずかな「ぶれ」こそが、彫る者の魂の震えなのではないだろうか。田中は、自分が「このように見えた」鏡獅子を彫った。

 神が人間を神自身に似せて創ったように、芸術家は本物そっくりに似せて人間や動物を創り出す。それは、3Dによる複製ではなく、芸術家が見た本物そのものである。その像全体を微かな「ぶれ」が息吹いている。その息吹に、僕たちは「本物そっくり」と言って感動するのだ。

 100分の1ミリも違わずに精巧に複製された彫刻に、僕らは感動するだろうか。そこには、芸術家の「ぶれ」の微塵もない。「本物の複製」と「本物そっくり」とでは、それだけ違うものがある気がする。

 念のために言っておくと、技術としての3Dを否定するものではない。3D技術が多分野で貢献していく期待があるのは言うまでもない。しかし、この田中作「鏡獅子」を見ていると、3D技術がどれだけ進んでも、当分芸術の分野は侵されないと確信する。なぜなら、芸術の神髄は、あくまで「本物そっくり」に創るといっても、必ずそこには芸術家の「ぶれ」があるからだ。

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平櫛田中 ~ 転生する「人畜生」


『こころ』 と漱石 ~ 心の棲家に巣食う「罪」のミステリー 

2014-11-05 00:48:21 | 文学・絵画・芸術

■ 死に値する青春期の罪 

 漱石の『こころ』を読み返したのは何年ぶりだろう。今年、朝日新聞紙上で「100年ぶりの再連載」がなかったら読み返すことはなかったかもしれない。毎日決まった分だけじっくり読むというのも、また楽しみで贅沢な時間であった。(漱石 『こころ』 ~ 新聞小説の味わい) 

 青年期に一度読んでいるが、あの時にはわからなかったことが今回読んでわかったような気もする。どこが、と問われると困るが、「私」(語り手)の気持ちも「先生」(物語の主人公)の心情も、「K」(先生の親友)の思いも、どういうわけか先生の「奥さん」(かつての下宿先の「お嬢さん」)などの心持ちがいちいち、その人たちの中に入っていけて、分かるような気がしたのだ。 

 文体や構成については、ちょっと古いところがある(だって、100年前のことだから)が、多くない人物の中に入り込めてしまう、入り込ませてしまう漱石の筆はさすがである。これはやはり、僕の方でもそれなりに年齢を重ねてきたということもあるわけだ。誰のなかにも、先生のように暗く、まじめで、罪深くも溶けることのない熱情っぽさもあるし、Kのように思いつめた内気な情熱、歪曲してまっすぐに突き出てこられない感情の不器用さもある。 

 好んで人を悪く言ったり、恨んだりすることはないが、追い詰められるととんでもないことをする。それが裏切りに見えたり、何をするかわからない人間と思われたりする。誰しも、先生にもなり、Kにもなりうる人間なのだ。 

 親友Kの口から、お嬢さんへの恋を打ち明けられた先生のとまどい、嫉妬、お嬢さんと「夫人」(お嬢さんの母親)への不信感と疎外感、孤独感、それが思い余ってKの不在時に、「お嬢さんをください」と夫人に告げてしまった時の差し迫った心理。「あ・・・、言ってしまった」と、先生が告白した時、僕は心の中でつい叫んでしまった。これは何と言っても、裏切りだよなあ、と僕はつぶやいてしまったのだ。でも、こういう状況で先生の立場なら、僕もあんなふうに告白してしまっただろう。 

 これは、死に値するだろうか。親友Kはこのために自殺してしまう。そうすると、先生のしたこともやはり死に値すると思うのだ。先生も最後は自殺してしまうが、仮に死ななかったとしても、ある意味、死に値する行為である。魂の死である。 

 そうなると、一生、心に痛みをもって生きていくのだと思う。人間にはずるいところだとか、エゴイズムのかたまりのようなところがある。誰も自分がいちばん可愛いのだ。だから気がついてみると、「あんなことしてしまったんだから、もう自分は死んだっていい」、と思うことがいくつもある。そのたびに死んでいたら身が持たないが、ある年齢にいたると一つ一つが重くのしかかってくるものだ。 

■ 人の心に巣食うミステリー 

 僕はまた、先生の妻となったかつての「お嬢さん」の心の底にも一種、不気味なものを感じる。それは罪というほどのものではないが、先生とKのどちらを好きだったんだろうとふと思う。おそらく先生を好いていたのだろうけれど、それでいて反動としてKと親しく会話したり笑ったりする。何か本質を突かれたようなことを聞かれると、娘時代特有の笑いでごまかしてしまう。それが先生の思い込みであったりすることもあるが、彼女は先生を好いていながらもう一方でKと親しくしたりするような素振りを見せている。もしかしたら、Kが先に彼女に告白していたら、彼女はKと結婚していたかもしれない。いや、先生にそう思わせるところがお嬢さんの心の罠だったのかもしれない。 

 そこで先生の顔を見て、例の思わせぶりの笑いを返したりする。女の無邪気なずるさが垣間見える。

 ――ほんとはあなたが好きだったのだけれど、一足遅かったわね。

 Kと寄り添って、先生の方を見てにこりと笑うのである。これはまた、今どきのドラマ風な女の心を見ている気がしている。お嬢さんは、意外にもすべての真相を知っていた。そうすると、もしかしたら彼女は妻となってからもずっと、先生がこれまで苦しんできたことも、自殺するかもしれないということも承知していたのかもしれない。それを承知の上で先生をある意味いつくしんで、見守っていたのかもしれない。彼女には、そうすることしかできないから。 

 先生はかつて下宿先のお嬢さん、今は妻の心をも、一点の汚水により黒く染めてしまいたくないという気持ちから、彼女には見せたくない「遺書」を書いた。しかし、先生もまた妻の心のうちをひそかに知っていて、「私」だけに長大な遺書を書いたともいえる。ここまで考えると、いくらか穿った読み方になるが、どのようにも読めるのが『こころ』なのだ。 

 「私」という存在もまた、どこか若き日の先生を思わせる。だからこそ、人嫌いな先生も、心のどこかで「私」に唯一心を許していたのかもしれない。「私」もまた、心のどこかに闇の部分を宿しているような気がする。

 こうしてみると、この小説はもはや、中編では終わらない「心」のミステリーといえる。

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よさこい踊りの女 ~ 真夏の日の美

2014-10-20 02:09:11 | 文学・絵画・芸術

 夏の暑い盛りにおさな子たちが遊ぶ「じゃぶじゃぶ池」を、この日は水を抜いてコンクリートの底を土台にしたやぐら舞台で、女8人が踊った。フェスティバルの「よさこい」踊りのおんな衆が、青・赤・黄・緑の鮮やかな大漁旗にも見える衣装の片肌脱いだ姿で、一斉に太鼓の音とともに動き出す。曲と歌声とが混じる中で、女1人が舞台から踊り降りてくる。

―― よさこい、よさこい。

 降りてきて観衆に交じり、踊りましょ、と色のある眼で声を掛けながら体をリズミカルに動かす女の斜めの顔が、艶やかに光る。眼元や唇は踊り用のおしろいとメイクで派手に見栄え、濃い睫の奥は黒光りするようで、横顔の鼻すじはきれいに伸び、赤すぎる唇がにっこり笑い人を誘う。

―― さ、一緒に踊りましょ。

 そういう彼女の顔が、すい、とこちらを見た。そして眼が合った。眼は一瞬、僕を見て止まったが、すぐまたもとに向き直って、踊り続けた。

 背を見せる彼女の身体は、まるで後ろ姿で僕を見ているように揺らいでいる。指の動きと腰つき、白い腕や伸びた脚の緩やかなしなり、躍動的にリズミカルに、くるり、くるりと宙を妖しく回転して動くようなさまに、僕はずっと心を取られていた。そして、踊りながら時々身を翻してこちらに向ける顔に、僕は何度もはっとした。もちろん、あんまり美しかったからだ。

 このとき僕は、あの小説の一節を思い出した。

 「美――。美とは恐ろしく、おっかないもんだよ。なぜって、美にかかったら、何もが杓子定規にいかないからなあ・・・・」(「カラマーゾフの兄弟」)

 美。美は人を狂わせる。美の前では、倫理も思想も理性も知性も関係ない。美の前では、すべて無力だ。

―― 美女は、なにゆえ美しいのだ。

 黒い髪を高く髻に結いあげ、睫を厚くし、白い化粧に眼元がくっきりと映える。踊り衣装がはだけ、上半身を顕わにした体の線を際立たせる純白のシャツと、柔らかく自在に動く腕。あくまでしなやかに踊る女の下半身の衣装は艶やかな色で彩られ、裾をたくし上げたふっくらとした腰回りにまとわりつく。揺れる腰とともに衣装が踊っている。

 激しく揺れる手脚の動きは、女の生であり、何か生の源から溢れ出る力であり、性の意志でもある。

 白い足袋が、さ、さ、と交互に出て、引っ込む。そのリズムと手の指先の微妙な翻(ひるがえ)りに、僕はひとときも眼を動かさず、音と音の隙に彼女と眼が合うたびに、少年のようなときめきと恥じらいを感じるのだった。 


スタンダール『赤と黒』 ~ 心理小説と「神の眼」

2014-10-11 12:33:55 | 文学・絵画・芸術

■  「神の眼」の視点

 スタンダールの『赤と黒』は、前から読もうと思っていた。スタンダール、バルザック、フローベールと19世紀のフランス文学の三大小説家の流れを汲み、一方でドストエフスキー、トルストイの19世紀ロシア小説の流れと合流して、日本の近代小説の一つの流れが生まれた。 

 それで、フローベール、バルザックと読んで、スタンダールを読んだわけだ。最近、大岡昇平の『武蔵野夫人』を読んでみて、それがスタンダールの心理小説の手法を汲んでいたということもあった。心理小説というのは、これまで僕が読んできた小説とはどうも違うらしい。 

 スタンダールは人物の肉体の殻を剥ぎ取って、というより透かして、神のような眼で「上から」人物の心理を見ている。神だから、作者には人物の心の内が透け透けに見えている。しかも主人公だけでなく、その場で相対する人物も透けている。人間存在の境界(肉体)を取っ払って、行動も心理も見下ろしている。しかも複数の人間を同時に。

  当時はこれが画期的だったのかもしれない。しかし、20世紀小説ではご法度である。すなわち、恋人A(男)と恋人B(女)が、互いに相手の心情を諮りながら恋を語らい合う時、そこに純粋な恋心があれば問題ない。男は、「お前が好きだ」と言いながら『この女をどのように俺のものにしてやろうか、それによって俺は出世街道を昇って行くのだ』と思いつつ、女は、「あたしもずっとあなたから離れないわ」と言いながら、『この人はあの女にも近づいている。私より身分が低いくせに、この男が私に夢中になるなんて私の自尊心が許さない』と思っている。例えば、ジュリアンとマチルドのように。こんな場面は、しょっちゅう出てくる。

 ■人物の自由な意思

 人物の自由な意識ということからすると、Aの内部に入って、同時にBの内部に入ることを、サルトルは「フランソワ・モーリヤック氏と自由」で批判している。人物の心の自由、行動の自由が制限されてしまうからだ。つまり、想像力を制限することになる。人間の意思の自由は想像力であるとするサルトルの哲学からすれば十分わかる。 

 主人公ジュリアンに寄り添って読んでいて、「次はどうなるんだろう」と思っていると、恋の場面であっさり相手の恋人の心の内が見えてしまう。例えば、事件の取り調べがあったとしよう(この作品にはない場面)。刑事と容疑者の表面上の言葉と裏腹に双方の心の中がすべて描かれてしまったら、その取調べのやりとりの醍醐味がなくなってしまう。

 刑事: 「お前がやったんだろう」(もしかしたら、こいつは犯人じゃないかもしれんな)

 容疑者:「やってませんよ」(やばい、ばれてるかな、どうやってしらをきるか) 

 こんな取調べが合ったら、ミステリーではなくなってしまう。『赤と黒』も、こんな感じで男女の愛が描かれている。ジュリアンの気持ちでいたければ、ジュリアンが恋を抱いている時、恋人マチルドの気持ちを読者が分かってしまうのはつまらない。表面上つれなくしていても、マチルドはやっぱりジュリアンを恋しているのだろうか、と一緒になって主人公の意識をもって感じる。これが登場人物の「自由」なのだ。意識の自由を持っているということである。こういう描き方が20世紀では主流になってきたが、このような「神の眼」の視点を排除する方法は、逆に人物の描写を委縮させてしまうという批判もあった。 

 心理描写の代償として、スタンダールは外景描写を極力省略している。それはクライマックスとなるジュリアン・ソレルの処刑場面でもいえる。フローベールなら、処刑日の太陽の照り具合、処刑場に集まった群衆、処刑執行人、受刑者の様子、処刑直前の顔つきなどに数十行、いや数ページを費やすことだろう。なにしろ、小説のクライマックスなのだから。しかし、『赤と黒』では、淡々とわずか数行で終えてしまっている。しかも、注意して読んでいないといつ処刑があったのかさえ見落としてしまう。

  とはいえ、スタンダールの手法は当時にあってはかなり斬新だったようだ。人物と人物の外景を細かく描写していくフローベール風な手法に対し、人物と人物の内景をこと細かく描いていくという方法は、これはこれでありかなと思う。人と人はなにも外と外でぶつかり合っているわけではない。内と内でもぶつかり合っているのだから、そのやり取りを描写するのも一つの方法なのだ。 

 ストーリー的には、前半のジュリアンとレナール夫人の純粋な(?)恋のやり取りの方が興味深かった。むしろ、こちらの方の場面は「神の眼」を排していたから、僕には普通に面白く読めただけなのかもしれない。