■若き日の小説
僕が今よりずっと若い頃、つまり20代に読んでいたら、かなり夢中になった小説だろうと思う。この頃は、野間宏『青年の環』や埴谷雄高『死霊』などにかなり夢中になっていたし、前衛的な小説作法にも敏感だったから。それにベックリンの名画「死の島」のイメージがどうしようもなくついて回っていたからだろう。
なにしろ、あの頃は『死の島』(福永武彦)は文庫でもなかったし、単行本も古本屋では見かけなかったと思う。全集か作品集は出ていたかもしれないが、とんとお目にかかっていなかった。というより、当時自分の関心が文学どころでなくなったからだろう。きちんと収入を得なければ自分も家族も大変なことになる頃だったので。
今では、福永武彦の名は一部の文学好きに読まれるくらいだろうか。まして『死の島』ともなると、どれだけの人が読むだろうか。とはいえ、一部の熱狂的なファンはいるのかもしれない。僕は一度、どこでも手に入らなかったこの小説を図書館で見つけて上巻だけ読んだ記憶がある。その時は内容が青臭い文学、小説好きの学生が書きそうな小説を読んでいるようで(それはつまり、かつての自分であったが)、なんとなく下巻まで読む気がしなくなったのを覚えている。
■ふたりの女
主人公の相馬鼎という男(編集者)が、どうにも作家を目指していた自分に似すぎていて、小説の創作ノートをいつも持ち歩いたり、女性をすぐに好きになるわりには、なかなか先まで進展しない(進展できない)たちで、自分でもそうだが、はたから見たらかなりじれったくて青臭い若者なのだ。そんなところが、自分でも鼻に付いたのかもしれない。
ところで数ヵ月前、よく通りかかる古本屋で初版本上下2巻合わせてなんと105円だったので買ってしまった(現在、この作品を買うには講談社文芸文庫で新本上下合わせて4千円以上もするのだ)。それで読み返してみると、やっぱり上巻だけ読み通すとあの頃の感想と同じだった。
改めて感じたのは、相馬が同時に愛する(恋する?)2人の女性は、若い頃の自分であったら、やっぱり夢中になってしまうタイプである。相馬のように、たいして親密に付き合ったわけでもないのに(つまり3人一緒に食事したり、芸術論ごっこしたりする程度の仲なのにという意味で)、2人の女が服毒自殺を図ったという電報を受け取ると、東京から広島まで仕事をうっちゃってまで駆け付ける。この小説の年代背景では、特急を飛ばしても一昼夜かかる距離でもだ。
文学臭いこの青年のように、若い時の僕もきっとそうしたに違いない、身内の女たちでもないのに。一人目の女性画家は、被爆者で絶望を引きずっている。その陰りには美人であるから余計、同情っぽい、安い愛情を抱いてしまう。そういう女に会うと、すべて見透かされているようでありながら、その女のために死んでもいいから何かしてやれればいいと思ったりする。ところが、実際には現実にできることは何もないのだ。軽くて重みのない男の自分を感じ、恥じ入っているしかない。
そしてもう一人、品の良いお嬢さんタイプで可愛らしい清廉な女性、実は突拍子もないことをやってしまう彼女にも魅かれる。普通の可愛いだけの女性ならそこまで思わないが、家出をしたり、風来の男につかまって同棲し捨てられ(捨てた?)たり、しまいには同居する女性画家に誘われて自殺まで図ってしてしまう。
■小説の技法はどこへ行くのか
上下巻通して話自体は複雑ではないが、時制を前後させたり、現実と虚構(創作)を織り交ぜたり、内的独白を絡ませたり、方法的にかなり凝っているので、そういうことに興味があった若い時分の僕だったら、かなり夢中になっていたかもしれない、等身大の自分の反映としても。ストーリーだけを素直に時系列順に読んでいっても、十分楽しめる作品ではあるが、今となっては、そういう技巧的なところが鬱陶しく思えるところもある。時制を細かく前後させる意味や基準があろうとは思うが、それを探るまでの労力を取ってまで、今では読もうとは思わない。
小説の方法も読んで楽しめるのは、せいぜいプルースト(『失われた時を求めて』)あたりまでかなと思う。フォークナーやマルケスあたりになると、すごいとは思うけれどちょっと疲れるところがあるし、これからの小説の方法というのはどうなるのだろうか。