FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

延暦寺 雪の比叡を行く ~ 光雲、「秘仏」から「猿」へ

2015-06-06 19:21:21 | 仏像・仏教、寺・神社
● 比叡山延暦寺

比叡山は、雪の中である。

ケーブルカーで昇ったあと、ここから先は車でないと無理だとわかった。しかし、タクシーはあっても、貸切用だけだった。何の予約も計画もなかったので、僕には足がなかった。しかたなく、延暦寺まで歩いていくことにした。車道を行くとかなりの遠距離なので、近道には山の小路を行くしかなかった。 

高野山の次は比叡山、そこに上ったのはやはり20数年前のことだ。空海と並ぶ大天才、最澄が開基した延暦寺を見ておこうと思った。日本には、哲学思想がないというのは狭い考え方で、聖徳太子、最澄、空海、源信、法然、道元、日蓮、親鸞など、そうそうたる哲学者、思想家がいる。これは、日本が誇る思想界の大山脈である。彼らは仏教者であり宗教家であるが、それ以前に世の中を変えようとした革命家なのである。 

● 高野山の「秘仏」、比叡山の「猿」

いま、金剛峰寺では空海開基1200年のイベントがある。その一つに、金堂本尊の薬師如来像の開帳がある。80年余り公開されていない秘仏である。この秘仏が先週、Eテレで公開されていた。坐像の高さは1メートル超で大きくはないが、そのみごとな如来像にはっとした。これまでの日本の如来像にはない、どこかエキゾチックな風情があり、また日本人好みの柔らかさもある表情だ。秘仏未公開だから、これまで写真もないだろう。その作者が高村光雲である。 

光雲の代表作は、「老猿(ろうえん)」が知られる。この老いた猿は、実物以上の迫力がある。そして、ここに代表的な傑作として金剛峰寺の薬師如来像が加わる。何故、秘仏なのか。もっと衆生である僕らにそのお姿を公開すべきなのである。さらにまた、この作者が光雲であることが知られることで、光雲という彫刻家の評価はいっそう高まるはずなのだ。 

秘仏から猿――。ところで僕は今、比叡山で光雲の「猿」たちに襲われそうになったのを思い出す。 

● 山中散歩、眼下の湖と町

下でケーブルカーに乗る前に、延暦寺へ行くのにこのケーブルカーでいいかと訊くと、

「こんな時季に延暦寺なんかへ行く者は、おらんわな」

係の男の人が、呆れてそう言った。つまり、このケーブルカーでいいわけだ。 

上に来てみると、確かにこんな時季に比叡山に来る者なんて滅多にいない。雪がなければ歩いても行けるが、山道は到底無理に思えた。しかし、歩くしかない。膝まで雪に埋もれながら、ずぼずぼと、片脚ずつ雪中から引き抜きながら進む。しかも、普通のスニーカーを履いてだ。脚を抜くたびに、雪の中で靴が脱げた。 

下を見ると、陸地をすっぽり水平に、巨大なナタで切り開いたように京都の町の集まりが見え、中央に海のような美しい琵琶湖が見える。雪のない観光季節にはここを空中散歩しながら、眼下の湖を眺めて歩くのだろう。白い雪に縁取られた湖畔や湖面の水は、何か造り物のようにも思えた。

・・・今は、どこを見るにも雪の中だ。 

● 狙う猿、下る自分

延暦寺を巡って山を降りる道は、車の通る道だった。山側に切り崩しがあり、その下を歩いて行く。切り崩しの森には、斜面いっぱいに野猿(やえん)の群れがあった。その数は、斜面が隠れるほどだ。猿たちはみんな動きを止めて、歩いて下って行く僕の方を狙っていた。車しか通らないはずの道に、歩いて来る人間はかれらにとって闖入者なのだろう。歩きながら、一斉に数十匹の猿に襲われる恐怖に襲われた。眼を合わせた瞬間に、黒い塊となって猿たちが飛び掛かってくるのを感じた。

午後のこんな時間に車が通ったりはしない。数少ない観光客は、とっくに観光タクシーで降りて行ったあとだった。歩く僕と猿たちの距離は、車線の幅2つ分しかない。高村光雲の「老猿」のように、片腕を地に突きさし、鷹より鋭く剥いた眼でこちらを睨むボス猿が、一瞬の隙も見逃さずに群れに合図する構えだ。ボス猿と息を殺した配下の猿たちが、いちいちと、歩いて行く僕の背を目で追っていく――。 

「一隅を照らす」。

最澄が延暦寺を開くにあたって説いた書が、大堂にあった。僕は、生きるに値する道を行かねばと自分に言い聞かせながら、猿の眼の群れから逃れるように道を急いで下って行った。


空海 天空の宗教都市 ~ 高野山に上る

2015-05-21 01:39:01 | 仏像・仏教、寺・神社

●20数年前の高野山

20数年前、高野山に来た。12月の冷たい日だった。

天空の宗教都市 ――。

その響きとイメージに惹かれていた。しかし、それだけで来たわけではない。宗教革命家、真言宗開祖、思想家、哲学者、文学者であり詩人、書家、そして土木建築家にして社会事業家、さらには超能力者である空海に惹かれて来たのだ。空海は人というより、「仏」に近い超人である。確かに真言宗信徒にしてみれば、文字どおり「空海さま、弘法さま、大師さま、大日さま、遍照金剛さま」だから、人を超越した「仏さま」なのである。 

空海は日本史上、いや世界でも万能の天才だと思う(と、わざわざ僕なんかが言わなくても仏教思想界ではそういうことになっている)。空海の著書はいくらか読んだけれど、文学書、思想書として読むには、僕にはちょうど良い(本当は宗教書なんだけど)。わかりにくい翻訳で西洋哲学を読んできたつもりの僕には、空海や道元などの方が、よほどためになると思った。その空海という大天才に憧れ、密教世界をこの目で確かめておきたかった。(ちなみに僕は、真言密教の信徒ではない。) 

高野山は今年、開創1200年。20年も前、僕は寒い時季に行ったので、観光客はほとんどいなかった。世界遺産となった今なら、12月の終わりでも参詣と観光の客でいっぱいなのだろうか。ケーブルカーで高野山駅に降りた時、空から降る冷気が清冽に沁みてきて、頭も眼も膚もすっきり澄み通ってきたのを覚えている。あえて下界という、道路が突き当たった突端の先から見下ろせる下の町々が、この立つ場所を、空中都市と思わせる。見渡せる世界とこの自分との崖線が、世俗と信仰との境界に感じさせる。 

●立体曼荼羅の塔

冷えた小雪が、雨とも紛うかのように斜めに細く切って降り、壇上伽藍のお札受付前に、恋人か夫婦か、ひと組の後ろ姿があった。その寄り添うひと組が、僕をちょっと心強くしてくれた。なにしろ、ほかに誰もいない。ひとりで朱色の根本大塔に入った。 

秘密曼荼羅、色褪せることのない真言密教の世界。僕は自分なりの立体曼荼羅を長いこと考えてきた。それは、如来や菩薩群の1つ1つが、巨大な水晶球体の中にとり込まれ、整然と、宇宙数理の下に空間に配置されるものである。まさに曼荼羅を眼の前に現出できると思い描いていた。原色に輝く千の、万の世界――。(のちに知ったが、その立体曼荼羅に近いイメージを、前田常作の作品に見ることができた。) 

ここは、しかし球体のイメージではなく、実体の円塔が重なる空間である。大日如来を中心に、四仏、そして十六菩薩たちがあたかも透明の水晶柱に入って宙に配置されているように見える。原色鮮やかな仏たちを描いた水晶柱は、天蓋を貫くように伸びている。しばし眩暈(めまい)のまま、ありもしない信仰心を味わって、僕はそこを出た。ひと組の男女は、もはやいなかった。 

●凍える宿坊

宿坊は寒かった。冬の山頂の厳しさを知らずに来て少し後悔した。広い部屋に1人、ストーブがあっても帳消しにできないほどの寒さだった。皮膚を刺し抜けて、筋肉や臓器の内部に冷気が浸み込んできた。若い僧が丁寧に運ぶ精進料理は、この上なく味わったが、とにかく山上の冬は寒い。 

「朝、××時から勤行がありますから、ご参加ください」

高校生らしき僧が、そう言った。 

その頃はインターネットなどあるはずがなく、本だけは持って行ったが、布団にくるまっていても体が震えて文字なんか読めない。そこで、さっさと寝ることにした。自分の体の熱が布団の中で保温されてあったまると思った。しかし一晩中、僕は布団の中でガタガタ震えていた。

 うとうとと朝方になったのか、ばたばた、せわしい足音が行き交った。「あ、勤行だな」と思ったが、僕は布団の上に正座して動けずにいた。修行僧たちの中に、あまっちろい旅気分の若者(つまり僕だ)が中途半端な座禅を組んでいる姿が思い浮かばれて、なんとなく気後れした。結局、勤行が終わるまでそうしていて、やがて朝食を昨日の若い修行僧が運んできた。

 「勤行には、行かれませんでしたか」

僕はてっきり、柔らかい叱責を受けるのかと思った。しかし寺の子息らしい若僧(わかそう)は、剃った可愛いらしい丸みのある頭を真正面に見せて、お辞儀して出て行った。宿坊は安く泊まれる寺ではあるが、勤行に出るのも1個の目的なのに、僕はちょっとした罪悪感を覚えて、そこそこ宿代を精算して出てきた。 

奥の院へ

奥の院へ行く途中、高野山大学の前を歩いて通った。宿坊の若い僧を思い出した。ここの学生だったのかもしれない。同じような丸い形をした頭が、少年たちの学生帽の下にあった。澄み切った空の下で、何人かの学生僧を見ているうち、画然たる宗教都市を感じた。 

奥の院へ行く道は、墓、墓、墓である。やれ大名の何某(なにがし)、やれ何々家ゆかりのという墓の道だ。それと、樹影。光を遮らせ、静謐で、心細くなっていく。燈籠堂の前に着くと、数知れぬ燈籠の連なった明かりだけが見え、中から護摩焚きの声がわーんわーんと、雑音交じりの楽音(がくね)の塊りに感じられた。それは、暗がりから沸き起こる生命の声にも聞こえる。とてつもない、大きなことが起こったあとの、生命の集まりのような音だ。 

どん、どん、どん、と胸や腹の底に、体の壁を押し破ってくる。自分の胸の鼓動と生命の音響が激しく重なり合ってくる。僕は御廟の方を見ながら、ぼんやりそれを聞いていた。 やがて自分に起こる、生命の揺れる音を予感して・・・。(のちに僕は超心理学を学ぶために、会社勤めしながら大学院に入り直した。) 


薬師寺 動く三尊像 ~ 瞬く信仰の眩暈(めまい)

2014-08-14 11:07:15 | 仏像・仏教、寺・神社

 僕が行った時の薬師寺は、人がまばらだった。寺は、近鉄西ノ京駅を降りてすぐである。東塔は、まだ解体修理されていなかった(東塔は、平成21年から31年までの予定で解体修理されている)。

 薬師寺。方形の伽藍の中に、俗世とは隔絶された堂と二つの塔。そこに立ち、伽藍内を見渡していると、自分は今、千年も前の土と空気の中にいるのがわかる。

 東院堂では、憧れの聖観世音菩薩立像を思う存分見ていることができた。日本の仏像の中でも、これほど端正な顔をもつ観音像はめったにない。今は、漆黒の艶をもつ全身であるが、当時は黄金に輝いていたのだから、その眩さはどれほどのものだったろうか。仏像は、その姿かたちの「決まり」があり、両手は膝まで届く長さがある。これは、少しでも人々を多く、すばやく救うことができるようにということである。このように、一般に仏像を見ると、人間離れした怪異ともいえる身体の相がある。この聖観音立像も、両腕は膝近くまで伸びているが、ぴちりとそろった両脚は真っ直ぐ伸びていて、陸上選手のようにすっきりしている。

 菩薩はまた、「ひと」を超越しているので、すでに性別もなく、だから陰茎も不要となり、体内にしまわれている(陰蔵相=おんぞうそう)。その上半身を見ても乳部が女性のように膨らんでいるわけではないが、ふっくらした肉厚そうな肩から胸のあたりは、明らかに女性を感じさせる。顔もまた、女の顔である。というより、人間の声を聴き(音を観る=観音)、暖かく見守ってくれる存在はどうしても母性の穏やかな顔になるのだろうか。

 金堂に入ると、薬師如来を挟んで聖観音によく似た二体の像、日光・月光菩薩がいる。作者が同じだとわかる仏像である。中央の大きな薬師如来もまた、端正でゆったりとした仏像である。これら三体も、当時は黄金に輝いていた。眩い、黄金の薬師三尊像に見られていたら、きっと人々は、それだけで救われる気持ちになっただろう。

 たまたま人のいない堂の中で、僕は20分も30分も三尊像を独り占めにしていた。見ていると、天井に組まれた四角い格子が斜めにいり込んで来て、眩暈がしてきた。ぐーんと、天井が揺れてきた。眼の前がぐらぐらしてきて、心の酔いがまわってきた。僕はその場で倒れかかった。

 その時である。仏たちが動き出したのは。右と左の日光と月光の菩薩像が、あのくねらせた腰をゆらりとさせて、胸元まで掲げた印を結ぶ掌をひらひらと見せ、首をかしげて微笑している。中央に座す如来像は、その巨大な身体をどしりと据えたまま、これもまた前に後ろに動きかけようとしている――。

 僕は数秒、そうしていたのだろう。しかし、それが何分も何十分にも感じられた。は、として眼を瞠(みは)ると、三尊像はもとのままに静かに座し、そして立っていた。堂内の隅にいる経やお守りを売っている白服の寺職の人が、先ほどまでと同じように坐っている。何事もなく。

 信仰の眩暈(めまい)だ、・・・・と思えればいい。僕にはそんなに深い、恥じ入ることなく言える信仰心などない。眩暈で自分の心が救われれば、こんなに楽なことはない。それでいい。わずか数秒の信心でも救われるなら。

 薬師寺。伽藍を見渡していると、一時(いっとき)、この世のことを忘れていたい気持ちがさまざまと浮かんできて、もう一度来てみたいと思う。

 

 


新薬師寺 ~ 揺れ動く仏像と霊の力

2014-08-04 02:31:06 | 仏像・仏教、寺・神社

■ 揺れる仏像たち

 どういうわけだったか、僕は新薬師寺に一人で泊まったことがある。べつに1日か2日の修行に行ったわけではない。もう、だいぶ前のことである。

 なぜ新薬師寺だったか思い出せない。手ごろな宿坊として予約が空いていたのか、それとも(たぶん両方だったと思うが)あの十二神将像を見ておきたかったからだと思う。新薬師寺には、薬師如来とその如来像を取り巻く十二の守護神(天)の像がある。安置されている本堂は、そう大きくはない。こじんまりとしているが、そこだけひっそりと、何か特別な霊気ならぬ「仏気」が感じられるスポットだった。

 ぐるりと廻るのに何分もかからない。入口の拝観券売り場の人しかおらず、中では何十分も自由に拝観できた。あんまり一人で長く見ていたので、仏教の研究者か何かに思われたかもしれない。こういう場所で仏様を拝んでいると、正確には、仏像を凝視していると、物理的な視覚がおかしくなる。決して精神的でもなく、心理的なものではなく、確かにぐらぐらと眩暈(めまい)がしてくるのだ。ちょうど、瞬きもせずに一点を見つめていると気分がおかしくなる、あれと同じである。

 僕は仏像を見ていると、何か宗教上のインスピレーションでも得られるのではないかと、仏像の顔を見続けてしまうのだ。それでしばしば、一瞬だが、眼の前がぐらついてよろめいてしまうのだった。畢竟、仏像という存在がそうさせるのだろう。これといった宗教的インスピレーションがあったということではなく、一時的なものなのだ。よく仏像が動いたとか、時間が流れる音がするという現象に出会うが、むろんそれは身体的錯覚からくる幻覚的イマジネーションであって、そういうところからきていると思われる。

 ここ、新薬師寺の本堂内でも同じことが起きた。ゆらゆらと、ぐらぐらと、堂の天井が揺れるのだ。剥き出しの天井裏の格子が動き出し、桟の線が二重三重になったり、交差したりする。やっぱり、薬師寺で体験したことがここでも起きた。眼の前の如来像がじっと僕を見つめていて、揺れ動いている。今にも立ち上がろうとしている。十二の神将たちも動いてきて、いつの間に僕を取り巻いている。僕は、はっとして、そうなるとすぐに眼を瞬かせ正気に戻ろうとする。意識して自分を正気に戻らせないと、「イってしまう」怖れがあるからだ。つまり、宗教的トランス状態になり、「向こうの世界」へ連れて行かれるのを予感するのだ。

■ 「霊的存在」と仏性 

 僕の泊まる部屋は、2階の2室のうちの一室だった。低い手すりの眼の先は竹藪(モウソウダケ?)が、ほうほうと茂っていた。夕方に廊下を歩いた時はかなり不気味で、「ああ、隣にも今日は誰か泊まらないのかな」と願ったくらいだ。ざわざわと、ゆさゆさと、竹林の葉がこすれて揺れている。それは風で動いているというよりは、何体もの霊が寄せ合い、身体を揺らしながらこっちに歩いて来るような気がした。

 部屋に案内されながら通る時もぞっとしたが、そこで食事をしている時も済んだ後も、ずっと不気味で落ち着かなかった。そんなだから、一人で階下の風呂に行くのも躊躇して入らずじまいだった。

 1時間足らず本などを読んでいたが、部屋にはテレビもなく、ただ本のページに眼をやったり、障子の向こうの竹林の方に耳を澄ましたりした。どうやら、隣室には泊り客はなく、少なくとも2階は僕一人だけのようだった。正直言うと、トイレに行くにもただならぬ霊気を感じて行かなかった。

 修行として宿を借りて寝る(宿坊というのはそういう所だ)には、まさにちょうどよい部屋ではあるのだが、僕はどうしても寝る気にはなれなかった。何かを感じて仕方なかった。それは霊的なものだろう。仮に邪悪な霊的存在だとしても、この寺と仏像群は国宝級であり、薬師如来といくつもの神将に護られているかぎり邪気など宿らず、また数多(あまた)人々の信仰心がここに集まり満ちているのだから、これほどに安心な場所などない。何ら怖がることはないのだ。むしろこれほどありがたい所があるだろうか。

 ・・・・ところが、僕はもう怖くて仕方ない。寝るどころではない。僕は部屋の電気を煌々と点けたまま瞼も閉じず、布団の中で棒のように固くなって朝まで眠れずにいた。朝が来て、障子のむこうが明るく透けてきた頃、ようやく安心してうつらうつらしたようだ。障子を開けて、庭の竹林を見下ろすと、陽を浴びてさわやかに竹の葉が揺れていた。

 それほどに怖がるものではなかったはずだ。しかし、僕は怯えていた。というのも、学生時代、僕は夜ひとりで寝る時に不思議な体験をしたことがあったから。それは「霊的体験」と言っていいのかどうか、そう言ってしまえばたやすい。その時の体験は、おそらくほとんどの人には理解してもらえないだろう。ごく一部の同じような体験をした人を除いては。(断っておくが、金縛りにあって怖い思いをしたとか、霊を見たとかいう類のものではない。)

 はっきり言うと、僕はその「霊的存在」なるものに殺されかけたのである。そんな体験があってから、僕は夜中に部屋を真っ暗にして一人で寝ることができなくなった。毎晩、一晩中、部屋の蛍光灯を明るく点けっぱなしにしたまま眠るのが習性になった。

 この新薬師寺の宿坊に来た時、あの時の恐怖が蘇ったのだ。しかし、この夜は何も起こらなかった。尊い仏性に囲まれていたからだろう。これだけの格の高い仏像群に護られているのに何が起こるというのだ。早い話が、僕自身が仏性的修行が足りなかっただけなのかもしれない。


法隆寺 ~ 仁王門の疾風、静と動の瞬間

2014-07-19 10:51:03 | 仏像・仏教、寺・神社

 法隆寺。夏。

 体内のすべてのエネルギーをじりじりと絞り、やがて溶かし、生の源から一滴もらさず吸い上げてしまうかと思われる何年か前の暑い日。僕は、法隆寺中門の仁王像をいつまでも見上げていた。

 風だ――。

 金剛力士(仁王)といえば、東大寺の運慶・快慶のものが第一と思っていた。像高8メートル、阿形、吽形とも、どしりと構え、動こうともしない。いや、動きはあるのだが仁王像そのものは動かず、動かずして仁王そのものを取り巻く万象が動いているようにも思える。動いているものを仁王像の前で止めているようにも思える。隆々たる筋肉と形相、うごめく血管と骨格、これこそ静なる動、動なる静を象徴している。

 その彫刻美も第一等に数えられる。比類するものなき・・・・、と思っていた。が、ある夏、僕は法隆寺の金剛力士像の写真を見て度肝を抜かれた。今さらといえば、今さらだ。東大寺の仁王なら大仏(盧舎那仏)と同じくらい小学校の時から知っている。東大寺の次はなしと勝手に思っていたので、法隆寺の仁王像については恥ずかしながら、あまり注目もしていなかった。

 眼の前でよく見ると、法隆寺の金剛力士像は、東大寺の力士像に匹敵するほど迫力といい、造形美といい、素晴らしい。匹敵するのは、なにも大きさだけではない。むろん、ただ立っているだけでもない。たった今、からからに熱した疾風とともに立ち現れたという感じがする。手先の指がはりつめてぴんと反り、風に乗った天衣が巻き上がっている。時空に乗ってここにたどり着いたばかりだ。漂う空気が仁王像の身体の周りでまだ揺らいでいる。

 驚いたのは、その動きだ。吽形。まさに疾風を巻き込んでいる。ぐっと、後ろに引いた太い肘と腕、盛り上がった肩、空気の隙間に入り込んだ5本の指の間からは、今まさに急流のような勢いが流れ込んでくる。ぎゅっと結んだ口には、白臼(しろうす)のような太い歯が並び、見開いた眼は何ものかを射ている。

 また、阿形。腰を降ろし重心を保ち、振り上げた拳と大地を圧する垂直の腕、そのバランス感覚は何とも巧みに立ち、動きそうでいて、巨大建築物のごとく微動だにしない。僕はこの阿形、吽形2体の金剛力士像を見ていて飽きることがなかった。ぐわあーん、と像内から湧き上がる気の嵐に完全に巻き込まれていた。

 興福寺や薬師寺にも、大きさとしては小さくなるが造形的には素晴らしい金剛力士像はある。しかし、隆とした筋骨や怒りの構え、邪悪を鎮める形相のわりには、今ひとつ躍動感を感じることがなかった。もともと金剛力士というのは躍動するというよりは、静かなる動きをもってして邪気を退けるのだから、動かざる「動」というものがあり、そこに美があるのかもしれない。

 しかるに、法隆寺の金剛力士像はまさに動こうとしている。あるいはたった今動いていて、じっと音を聴くように一瞬静止した瞬間なのか、と思わせる。どしりと微塵も動かない東大寺の仁王像と、これが違う。

 法隆寺には、釈迦三尊像、百済観音像、救世観音像と国宝級の仏像がある。それらは僕も眼にして魅了されたことがあるが、仁王像を見た時のこれほどの驚きはなかった。


広隆寺 弥勒菩薩 ~ 時が奏でる音楽と思惟する仏

2014-03-26 09:46:36 | 仏像・仏教、寺・神社

 京都の寺は、たいがい大阪にいる彼女が案内してくれた。けれど、広隆寺で電車を降りると言ったのは僕だった。

 広隆寺は、駅の線路から見えるように、道路に沿って寺の門が建っている。こじんまりした仁王門のわりには、境内はゆったりした庭の寺だった。広隆寺といえば、あの仏像がある。弥勒菩薩半跏思惟像。僕はどうしても、この菩薩を自分の眼で見ておきたかった。写真や文ではよく知っている。至高の仏像である。何が至高かといえば、その宗教性にしても、芸術性にしても。いずれ如来となる仏格である。

 霊宝殿を入るとすぐ、眼の前に千手観音立像が立っている。像高2.6メートルのこの観音像や、3メートルを超える不空羂索観音立像は、もし堂の奥にあの菩薩がいなければ、僕の心をもうしばらく捉えていただろう。でも、僕の気はすっかり、奥にいる菩薩のほうに向いてしかたなかった。

 仏像群の中央に弥勒菩薩がいる。高さわずか120センチあまり。繊細な身体つきは、人の形として見るには頼りなげでもある(もともと「人」を超越している存在だから)。しかし、救済のために思惟するそのポーズは、単なる人の造形を超えて仏教的な高みにまで人々の心を導いてくれる。そこには、深い慈愛があり、無類の優しさを感じる。

 音が聴こえる。楽器ではなく、時間が奏でる音楽が聴こえる。救済のために思惟する菩薩を運んでいく、静かに静かに流れる時間の音楽が。弥勒菩薩は人々を救うために、あたかも永遠にそこに座しているような気がする。菩薩の思惟は、何十億年の過去から現在、そして未来へと続く――。

 「56億7千万年もの未来、この弥勒様は、こうして人々を救おうと考えて修行されているんだよ」

 僕がそう説明すると、彼女はくすっと笑った。解説文どおりのことを知ったように言ったのがおかしかったらしい。彼女は笑う時に、いかにも自分自身を恥ずかしがるように笑うのだった。

 56億・・・。それは、僕らにとって永劫と同じだ。それほどに人間は罪深く、苦しむ存在なのか。それだけの分、仏たちも人間について悩んできたのだろう。あまりに優しいその微笑を見ていると、衆生を救うために悩む姿というよりは、愚かなりにも生きている人間を慈しむ母のようにずっと見守ってくれている、そういう想いが伝わってくる。

 

 


苔の寺 西芳寺 ~ 細密に整えられた自然庭林の中で

2014-03-18 01:24:04 | 仏像・仏教、寺・神社

 嵐山に行く途中、苔寺(西芳寺)に寄った。苔寺は、その年が自由拝観の最後だった。

 「苔が傷みやすいのよね」

 と、彼女が言った。

 彼女と僕は、苔に囲まれた石畳を下りて行った。

 細密に整えられた自然な庭林。ここは、そんな感じの別世界に思えた。苔は、緑のつやを放って光っていた。石や土や木の根っこに貼り付き、池の水面にも緑の敷物が貼りつめているかに見えた。深緑色の表層に、それぞれ一滴のしずくが付着し、そこから太陽の光を吸い尽くして苔が輝いていた。木々の間から漏れる光は、それ自体が不思議な恵みのように感じられ、神々しかった。

 それはちょうど、細かい雨が降ったせいでもある。水と光が、互いに反射し合った調和なのかもしれない。透明の、白い霧のような光がひと帯の線の集まりとなって、空気中の微粒子を浮き出させ樹の上から斜めに射し込んでいた。

 僕は思わず彼女の名をつぶやいた。

 ――え?

 彼女が立ち止まった。僕はさっと、彼女の唇に僕の唇を寄せた。

 

 


龍安寺 ~ 白い小宇宙に囲まれて

2014-03-06 00:55:29 | 仏像・仏教、寺・神社

 龍安寺には、夏行った。 

 確か金閣を出て、軽くバスに乗り、いくらも乗らずに降りた所だった。もう、何年か前になる。今頃なぜかというと、この間も嵐山・天龍寺のことを思い出し、龍安寺のことも書いておきたくなった。バスを降りて、そこそこ参道を歩いた気がする。写真では知っていたあの石庭は、いよいよこの眼で見られる、そう思いながら歩いていた。

 庭は、思いのほか小さかった。庭園というほどではない。竹の庵を覗いて入ったら、そこに石の庭があったという感じである。

 靴を脱いで上がると、四角の庭があった。大小の石は、小ぶりな山岳の形をしていた。高年の男性ガイドが、室内にある箱庭の模型を指して、覗き込んでいる観光客に作庭の謎について説明していた。この石庭は「虎の子渡し」を現している、はたまた、15ある石はどの位置からもすべてを一度に見ることはできない。とまあ、これは観光客受けの「謎解き」であって、禅的には、それら石の景観、配置、大小、形が何を意味しているのか、そっちの方が僕にとっては大事だった。(結局、ガイドはそこまで説明していなかった。)

 何を意味しているか? 例えば、静かなる海の面に浮かぶ巌の群れ、そして方形に囲まれた遠近感を演出した土塀、それらが「小なる宇宙」を現すのか ――。

 廊下の渡りから脚を投げ出して、どの人も石のある方を眺めている。そこには夏の光を反射して、白い空間が占めている。波の紋様を思わせる微粒な石を刷いて、その水面に屹立した岩の形は、白い宇宙空間に浮かぶ小惑星のようにも見える。立ち、坐り、こちらからあちらへと動くと、その全体は、ちょうど惑星が廻るように位置をずらしていく。見えていない石が現れ、現れていた石が隠れていく。そうやって、この庭は見る者を取り囲んでいる。

 石だけの空間を見て考える。答えを出す必要はなかった。考えることさえない。これといって、動きのない世界なのだ。観る禅。そこに坐っていることが答えなのだろう。 

 龍安寺へは、夏行った。きっと、春も、秋も、冬も、すべてが毎日違う庭なのだろう。そこに坐る者の心が、その時々に映すように。

 人々は、そこに坐って、しばし庭の石を見つめていた。近頃は、外国の人も多い。止まっている景色を見て、退屈はしていないだろうかと、よけいな詮索をしてしまう。さて、と腰を上げて、人は立ち去ろうとする。そして、一度二度、また見返る。変哲もないといえば、変哲もない。あの四角い箱の中にある石は、不思議なものだ。


嵐山 天龍寺 ~ 庭と天井画の想い 

2014-02-10 10:46:28 | 仏像・仏教、寺・神社

 天龍寺には2度行った。

 2度行ったのに、どうしても天井画の雲龍図に記憶がない。先日、テレビ番組『美の巨人たち』で加山又造の雲龍図だとわかった。見ていれば忘れるはずがないので調べてみたら、1997年の制作で、僕が2度目に行ったのがちょうどその直前だったのだ。移築当時は、それまで明治期の雲龍図(鈴木松年画伯・作)があったらしいが損傷著しく、現在は一部のみが保存されているという。

 日本の寺には、天井に描かれた龍の図は珍しくない。最近では、鎌倉建長寺の雲龍図(2003年、小泉淳作画伯・作)が記憶に新しい。これは、できたばかりの頃に見てきた。天龍寺の龍とは違った迫力がある。天龍寺のは写真で見ると、巨大な円の中に、長くて太い胴体すべてをくねらせ、8の字にとぐろを巻こうと自らの身体を押し込んで構えた力強さと不気味さ、そして威厳がある。八方睨みである。どこから見てもこちらを睨んでいる。どの位置に移っても、龍にまっすぐ睨まれる。そのように描いてある。平面画というのは、正面を見つめている眼を描けばみな、「八方睨み」になるのだ。ためしに、正面を見ている顔の写真を八方からずらして見るとわかる。アイドルの顔は、いつでもどこからでも君を見つめてくれている。神聖なる龍とアイドルと一緒にされたんじゃあ、たまったもんじゃないと言われそうだけど。

 じつは、ここで天井画のことを続けて書きたいわけではなく、雲龍図の記憶がなかった天龍寺のことだ。

 1度目に行った時、僕はまだ学生だった。彼女も最後の学生の年だった。その年、夏に能登で知り合って、その時は別れた。9月には再会のため、僕は大阪の彼女の所へ東京から会いに来ていた。それで京都を一日巡り嵐山に来て、朝、2人で天龍寺にいた。

 なんとなく、大方丈を廻って曹源池(そうげんち)のある庭を歩き、書院に上がって池を見ていて、これから、つまり将来のことだけど、自分は何をしようかと考えていた。僕の心の空虚を埋めるように、隣に彼女は一緒にいた・・・。庭を出て、庫裏(くり)の前に来ると、そこは舞台のように空の下に開けていた。僕は彼女の顔を忘れたくなかったので、そこを背景に写真に撮ろうとした。でも、どうしても撮らせてくれない。両手で顔を隠してしまう。照れなのか、恥じらいなのか。恥じらい? 僕らはもうそんな歳じゃない。まだ早い午前の境内は、人はいなかった。拡がる空、開かれた境内は、思い出にちょうどよかった。なのに、思い出にしたくない、撮られた自分をあとで見られたくない・・・、そんな理由なのかと考えたけど思い当たらず、それで僕は、機嫌を少しそこねていた。

――ごめんなさい。

 少女と大人の女が混ざりあった小さな彼女の顔が、叱られたように下を向いたまま言った。彼女自身は、自分の心の隙を埋めきれないでいるのか、何かに怯えた感じで何度か、「ごめんなさい」を言った。僕は、彼女自身の不安を知らなかった。

 写真に撮っていなくても、その顔は、今でも忘れないでいる。

 新幹線の夕刻のホームでは、ちょっと感傷に浸ったが、それは彼女を思いやる気持ちからではなかった。次はいつ会えるかわからないという、僕の勝手な気持ちだった――。

 もうずいぶん前のことで、彼女も母親になっているだろうし、孫だっているかもしれない。あの日、彼女の就職面接のさ中に大阪まで押しかけて、都合も聞かず面接日の合い間に京都のデートに付き合わせた僕は、もしかしたら彼女の人生の方向を少し誤らせてしまったかもしれない。時々、そう思う。僕次第でいつでも一緒にいてくれる。彼女を、そんなふうに考えていた。あの後、就職がどうなったか、僕は聞こうだにしなかったのだ。

 天龍寺は、記憶に残しておきたい寺だ。だからあの時、天井にいまの雲龍図があったなら、ずっとその龍は記憶にとどまっていたはずの寺なのだ。彼女の顔、唇や眼、手の感触とともに。

 


秩父神社の龍と虎 ~ 甚五郎に会う  

2013-06-15 07:56:15 | 仏像・仏教、寺・神社

左甚五郎といえば、日光東照宮の「眠り猫」。

猫なのに、あのつるりんとした丸っこい顔がちょっと奇妙なのです。猫の顔にひげがないからです。意外と小さいのに、見とれてしまいます。

ここ、秩父神社にも左甚五郎がいます。本殿正面「子宝 子育ての虎」と東面「つなぎの龍」。ほかにも甚五郎作ではないけれど、北面「北辰の梟」、西面「お元気三猿」と、社殿四方はけっこう見ごたえがあります。

社殿をぐるり―。周り四面を歩くだけで彫刻芸術の傑作を堪能できます。

どれも、「眠り猫」のように丸っこさと柔らかさ、そして奇妙な眠たい気持ちになって異世界に入って行きそうな感覚に捉われます。虎は四面どこにも彫られていますが、豹柄斑点の母虎と3頭の子虎が交わる「子育ての虎」は別格で、何とも言えない子虎の愛くるしさと母虎の包み込む愛情がこちらの足を止めてしまいます。ちゃんと子虎にもひげがあります。

この時代の人は、実物の虎を見たことがないのでしょう。「猫のようでいて、大きくて獰猛な」獣として伝え聞いているのか。親虎のうちメス虎は縞柄ではなく、斑点模様の豹柄ということになっていたようです。それにしても「大きくて獰猛な」獣は、まあなんと、それは酔った猫のようにゆるんだ表情で子虎をかまっています。背に乗る子、飛び跳ねる子、突っかかろうとする子、それぞれのわが子虎たちと遊ぶように、やんちゃさに困りながらも叱りつけるようにしている母虎が、愛情いっぱいでほほえましくなります。

「つなぎの龍」は、暴れる龍を鎖で縛り、繋ぎとめたという言い伝え通り、本物の鉄鎖で甚五郎の龍を繋いでいます。周囲をにらみ渡す守り主「北辰の梟」は、胴体と首が正反対に向いている生まれもった怪異な恰好で、その姿がちょっと威厳であり、ちょっと滑稽でもあります。「お元気三猿」たちは東照宮の「見ザル・言わザル・聞かザル」ではなく、「見るサル・言うサル・聞くサル」の顔があんまりとぼけていて笑えてきます。

5月の頃、秩父の芝桜に来ると、秩父神社に寄ります。外から見る社殿の梁に彫られた彫刻群は、東照宮と比べればその荘厳さに引けを取りますが、宗教的・芸術的な異世界に、いっとき避難するには十分な「聖地」と言えそうです。