比叡山は、雪の中である。
ケーブルカーで昇ったあと、ここから先は車でないと無理だとわかった。しかし、タクシーはあっても、貸切用だけだった。何の予約も計画もなかったので、僕には足がなかった。しかたなく、延暦寺まで歩いていくことにした。車道を行くとかなりの遠距離なので、近道には山の小路を行くしかなかった。
高野山の次は比叡山、そこに上ったのはやはり20数年前のことだ。空海と並ぶ大天才、最澄が開基した延暦寺を見ておこうと思った。日本には、哲学思想がないというのは狭い考え方で、聖徳太子、最澄、空海、源信、法然、道元、日蓮、親鸞など、そうそうたる哲学者、思想家がいる。これは、日本が誇る思想界の大山脈である。彼らは仏教者であり宗教家であるが、それ以前に世の中を変えようとした革命家なのである。
● 高野山の「秘仏」、比叡山の「猿」
いま、金剛峰寺では空海開基1200年のイベントがある。その一つに、金堂本尊の薬師如来像の開帳がある。80年余り公開されていない秘仏である。この秘仏が先週、Eテレで公開されていた。坐像の高さは1メートル超で大きくはないが、そのみごとな如来像にはっとした。これまでの日本の如来像にはない、どこかエキゾチックな風情があり、また日本人好みの柔らかさもある表情だ。秘仏未公開だから、これまで写真もないだろう。その作者が高村光雲である。
光雲の代表作は、「老猿(ろうえん)」が知られる。この老いた猿は、実物以上の迫力がある。そして、ここに代表的な傑作として金剛峰寺の薬師如来像が加わる。何故、秘仏なのか。もっと衆生である僕らにそのお姿を公開すべきなのである。さらにまた、この作者が光雲であることが知られることで、光雲という彫刻家の評価はいっそう高まるはずなのだ。
秘仏から猿――。ところで僕は今、比叡山で光雲の「猿」たちに襲われそうになったのを思い出す。
● 山中散歩、眼下の湖と町
下でケーブルカーに乗る前に、延暦寺へ行くのにこのケーブルカーでいいかと訊くと、
「こんな時季に延暦寺なんかへ行く者は、おらんわな」
係の男の人が、呆れてそう言った。つまり、このケーブルカーでいいわけだ。
上に来てみると、確かにこんな時季に比叡山に来る者なんて滅多にいない。雪がなければ歩いても行けるが、山道は到底無理に思えた。しかし、歩くしかない。膝まで雪に埋もれながら、ずぼずぼと、片脚ずつ雪中から引き抜きながら進む。しかも、普通のスニーカーを履いてだ。脚を抜くたびに、雪の中で靴が脱げた。
下を見ると、陸地をすっぽり水平に、巨大なナタで切り開いたように京都の町の集まりが見え、中央に海のような美しい琵琶湖が見える。雪のない観光季節にはここを空中散歩しながら、眼下の湖を眺めて歩くのだろう。白い雪に縁取られた湖畔や湖面の水は、何か造り物のようにも思えた。
・・・今は、どこを見るにも雪の中だ。
● 狙う猿、下る自分
延暦寺を巡って山を降りる道は、車の通る道だった。山側に切り崩しがあり、その下を歩いて行く。切り崩しの森には、斜面いっぱいに野猿(やえん)の群れがあった。その数は、斜面が隠れるほどだ。猿たちはみんな動きを止めて、歩いて下って行く僕の方を狙っていた。車しか通らないはずの道に、歩いて来る人間はかれらにとって闖入者なのだろう。歩きながら、一斉に数十匹の猿に襲われる恐怖に襲われた。眼を合わせた瞬間に、黒い塊となって猿たちが飛び掛かってくるのを感じた。
午後のこんな時間に車が通ったりはしない。数少ない観光客は、とっくに観光タクシーで降りて行ったあとだった。歩く僕と猿たちの距離は、車線の幅2つ分しかない。高村光雲の「老猿」のように、片腕を地に突きさし、鷹より鋭く剥いた眼でこちらを睨むボス猿が、一瞬の隙も見逃さずに群れに合図する構えだ。ボス猿と息を殺した配下の猿たちが、いちいちと、歩いて行く僕の背を目で追っていく――。
「一隅を照らす」。
最澄が延暦寺を開くにあたって説いた書が、大堂にあった。僕は、生きるに値する道を行かねばと自分に言い聞かせながら、猿の眼の群れから逃れるように道を急いで下って行った。