FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

高幡不動尊金剛寺 ~ 不動明王と「鳴り龍」

2010-03-27 01:41:03 | 仏像・仏教、寺・神社

思わぬところに、「鳴る」龍がいた。

高幡不動尊は、立川からモノレールで10分足らずである。この寺は、タイミングがあえば、不動堂の中に入って座し、僧侶たちの読経と声明が聞ける。そして、身代わり本尊である不動明王坐像の前に進み出て、ひとりひとり拝むことができる。身体の底に響く真言宗の太鼓の音は、次第次第に、こころの奥、奥へと響き、そして感動が全身に伝わってくる。その後、管主の説教の言葉も素直に聞くことができ、なんだか、古都に来たようで得した気がしてくる。

不動堂のひとつ奥、大日堂の中に入ると、古来日本一といわれる丈六の不動三尊像(重要文化財)が拝める。不動明王は像高285.8cm、火炎光背は419.8cm。中に入って拝観しなくても、ガラス越しに外から参拝できるが、こうして間近に仰ぎ見ると、その迫力はまったく違う。

朱の中で、燃え上がる人間の情念、怒り、迷いを鎮めるかのように赤く座しておられる。もともと不動明王は如来の化身であるから、仏格では最高位にある仏像だ。大日如来と同等の格をもち、霊験と威厳に満ちている。如来三尊のように優しく落着いた前に座すのもいいけれど、このきわめて雄偉な像の前に立ち、“ああ、ほんとに力づくでもいいから、なんとか、なんとかしてほしい”という時には、しみじみすがりつくように拝みたくなる。

さらに奥の山門をくぐって、大日堂に入る。そこに「鳴る」龍がいた。天井画のこの龍が、日光東照宮の「鳴き龍」と違って「鳴り龍」といわれるのは、実際に「声」を聞いてみれば分かる。東照宮の龍は、拍子木をたたくと“キュィン、キィン、キィン”と金属音を出して、確かに鳴く。

ここ大日堂の天井画の中央、真下に立って、両手を打つ。“びゅるん、びゅる、びゅる”と聞こえる。鳴いているというより堂の天井か何かが震えて響いてくる。まさに「鳴って」いるように聞こえる。龍はおそらく「鳴く」のではなく、全身で「鳴る」のであろう。そうすると、こちらの龍のほうが、よほど本当に鳴いているように聞こえる。

東照宮では、堂内で寺職の人が拍子木を叩いて龍を鳴かしてくれた。でも勝手に参拝者が鳴かすわけにはいかない。うれしいことに、この高幡不動の大日堂内では、天井の龍の下に立ちさえすれば、誰でも何度でも両手を打てば鳴いてくれる。面白がって、何度も叩いて龍を鳴かしてみた。

そのたびに龍は、“びゅるん、びゅる、びゅる”と鳴ったのである。




建長寺 柏槇(びゃくしん)と龍 ~ 燃える木

2010-03-11 00:28:01 | 仏像・仏教、寺・神社

 建長寺 びゃくしんの木(2009年秋)  

建長寺には燃える木がある ― 。
生きている木がある。生きてもだえる木がある。

鎌倉建長寺に行くたび、そう思う。樹木の名は柏槇(びゃくしん)。三門を抜けて、針葉樹の巨大古木群が巨人たちのように並ぶ。大きいのは樹齢750年、高さ13メートル、樹木の周囲は7メートルもある。成長は遅いが、修行すればここまで大きくなるという禅の教えに通じるということでよく禅寺に植えられると言われます。(冒頭の写真は建長寺では小さいものです。)

あの、燃える炎のような針葉樹の葉のかたまり、上へ上へと命のように燃える、もだえるような形は、一度見たら忘れられません。三門から列をなして並ぶ樹木群は、すごいな、という以前に見とれてしまいます。あれは、生きているかたまりです。植物や動物というより、命のかたまりに見えます。

太い幹はよじれ、肉体のままです。よじれながら太く、大きく、空を目指していく。奔放に枝を、太い腕を、肉体の関節を無視して空間を侵食して伸びていく。しばらく、圧倒されてしまいます。

木は、鑑賞されるものではなく、まさしくたくましく生きていくものであることをまざまざ見せてくれます。こんな情欲っぽい、幹や枝や、炎のような針葉の束を見て、禅僧は修行ができたのだろうか。いや、こんな命の炎のような激しさを見るからこそ、修行になるのだろうか。

法堂の天井画「雲龍図」小泉淳作画伯

またまた、龍。(残された名宝 ― 竜虎と麗しき官女
境内の柏槇(びゃくしん)に感嘆しながら、法堂(はっとう)の入口をくぐって天井を仰ぐと、巨大な龍が描かれています。日光東照宮の天井画「鳴き龍」は有名ですが、十余メートル四方のこの龍も、あれと同じくらい迫力があります。鳴いたりはしませんが、音なき音で、無音の声を発している感じです。(この「雲龍図」は平成14年に公開されたばかりです。)

「燃える木」と龍と禅僧―。いつか、そんな組み合わせの物語を、ここ鎌倉の禅寺を舞台に展開してみたい、そんな激しくも落ち着いた心の境地になりました。(2009年秋の頃)